法然上人絵伝表紙

   法然上人絵伝は、法然(1133-1212年)が亡くなった後、約百年後の1307年に後伏見上皇の勅命で制作が開始されます。そのため多くの皇族達も関わって、当時の最高のスタッフによって作られたようです。
法然上人行状絵伝 | 當麻寺奥院

また、全48巻もある絵巻物で、1巻が8-13mで、全巻合わせると約550mにもなるそうです。これも絵巻物中では「日本一」のようです。今回は法然の「讃岐流刑」に関する次の①から④区間を見ていきたいと思います。3月16日に京都を出立してから、3月26日の塩飽の地頭宅までの10日です。描かれた場面は次の通りです。
①京都・法性寺での九条兼実と法然の別れ
②京都出立
③鳥羽より川船乗船
④摂津経の島(兵庫湊=神戸)
⑤播磨高砂浦で漁師夫婦に念仏往生を説く
⑥播磨国室(室津)で、遊女に念仏往生を説く
九条兼実を取り巻く状況を年表化すると次の通りです。
1202年 兼実は、法然を師に隠遁生活後に出家
1204年 所領の譲状作成。この中に初めて讃岐小松荘が登場
1207年 法然の土佐流刑決定。3月16日出発。しかし、前関白兼実の配慮で塩飽・小松庄(摂関家所領)へ逗留10ヶ月滞在で、許されて12月に帰京。兼実は、この2月に死亡。
1247年 後嵯峨天皇による九条家の政治的没落

法然上人絵伝中 京都出立
         法然上人絵伝 巻34第1段
三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。凡そ上人の一期の威儀は、馬・車・輿等に乗り給はず、金剛草履にて歩行し給ひき。然れども、老邁の上、長途容易からざるによりて、乗輿ありけるにこそ、御名残を惜しみ、前後左右に走り従ふ人、幾千万といふ事を知らず。貴賤の悲しむ声巷間に満ち、道俗の慕ふ涙地を潤す。
 彼等を諌め給ひける言葉には、「駅路はこれ大聖の行く所なり。漢家には一行阿閣梨、日域には役優婆塞、訥居は又、
権化の住む所なり。震旦には白楽天、吾朝には菅丞相なり。在纏・出纏、皆火宅なり。真諦・俗諦、然しながら水駅なり」とぞ仰せられける。
 さて禅定殿下(=九条兼実)、「土佐国までは余りに遥かなる程なり。我が知行の国なれば」とて、讚岐国へぞ移し奉られける。御名残遣方なく思し召されけるにや、禅閤(兼実)御消息を送られけるに、
振り捨てヽ行くは別れの橋(端)なれど。踏み(文)渡すべきことをしぞ思ふ
と侍りければ、上人御返事、
 露の身は此処彼処にて消えぬとも心は同じ花の台ぞ
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立した。信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、御輿を用意して、僧六十余人と馳せ参じた。法然は、馬・車・輿等に乗らずに、金剛草履で歩いて出立したいと考えていた。けれども、老邁の上、長途でもあるのでとの勧めもあって、輿に乗った。名残を惜しんで、沿道には前後左右に走り従う人が幾千万と見送った。貴賤の悲しむ声が巷間に満ち、人々の慕い涙が地を濡らした。彼等に対して次のような言葉を贈った。
「駅路は、大聖の行く所である。唐国では一行阿閣梨、日域には役優婆塞、訥居は又、権化の住む所でもある。震旦には白楽天、我国には菅丞相(菅原道真)である。在纏・出纏、皆火宅なり。真諦・俗諦、然しながら水駅なり」と仰せられた。
法然と禅定殿下(=九条兼実)の別れの場面
  法然と禅定殿下(=九条兼実)の法性寺での別れの場面 庭には梅。
この度の配流、驚き入っています。ご心中お察し申す。
 禅定殿下(=九条兼実)は、「土佐)国までは余りに遠い。私の知行の国の讚岐国ならば・・」と、配所を土佐から讃岐へと移された。名残り惜しい気持ちを、禅閤(兼実)は次のように歌に託された、
振り捨てヽ行くは別れの橋(端)なれど、
   踏み(文)渡すべきことをしぞ思ふ
これに対して上人は、次のように応えた、
 露の身は此処彼処にて消えぬとも
   心は同じ花の台ぞ
そして3月16日 法然出立の日です。
出立門前
京都出立門前と八葉車(法然上人絵伝 巻34 第一段)
門前に赤い服を着た官人たちと八葉車(はちようくるま)がやってきています。法然を護送するための検非違使たちなのでしょうか。

HPTIMAGE
      出立の門前(法然上人絵伝 巻34 第一段)

   車の前には弓矢を持った看監長(かどのおさ)、牛の手綱をとる小舎人童(こどねりわらわ)の姿が見えます。そして沿道には、法然を見送るために多くの人々が詰めかけています。その表情は悲しみに包まれています。
「おいたわしいことじゃ 土佐の国に御旅立ちとか・・。」
「もう帰ってはこれんかもしれん・・・」

出立随員
    輿を追う随員達(法然上人絵伝 巻34 第一段)
  「法然最後の旅立ちじゃ、馬にも輿にも乗らず、金剛草履一足で大地を踏みしめていくぞ。それこそが私に相応しい威儀じゃ。」と法然は力んでいました。しかし、信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、御輿を用意して、僧六十余人と門前に現れ、こう云いました。
「あなたさまはもう高齢で、これからの長旅に備えて出立は輿をお使いください」
出立輿
      法然の輿(法然上人絵伝 巻34 第一段)
しぶしぶ、法然は輿に乗りました。六人の若い僧が輿を上げます。別れを惜しむ人々の前を、輿が進んで行きます。京大路を南に下って向かうは、鳥羽です。そこからは川船です。
  ここで私が気になるのが僧達の持つ大きな笠です。笠は高野聖のシンボルのように描かれていますが、法然に従う僧達の多くが笠を持っています。
〔巻34第2段〕鳥羽の南の門より、川船に乗りて下り給ふ。
鳥羽の川港
      鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
都大路を南下してきた法然一行は、鳥羽南門の川湊に着きました。ここで川船に乗り換えて、淀川を下っていきます。見送りにきた人達も、ここでお別れです。
鳥羽の川港.離岸JPG
      鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。このシーンで私が気になるのが、その先の①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。周囲を見ると②のように自然の浜しかありません。この時期の13世紀には、まだ港湾施設はなかったとされますが、どうなのでしょうか。③には、驚いた白鷺が飛び立っています。この船の前部を見ておきましょう。
.鳥羽の川船jpg
      鳥羽の川船(法然上人絵伝 巻34第2段)
どこに法然はいるのでしょうか?
①上下の船は、上が切妻屋根、下が唐屋根でランク差があります。下の唐屋根の中にいるのが法然のようです。舳先の若い水手のみごとな棹さばきを、うつろな目で見ているようにも思えます。淀川水運は、古代から栄えていたようですが、この時代には20~30人乗りの屋形船も行き来していたようです。


 巻34〔第3段」   法然摂津経の島(現神戸)に到着                     
摂津国経の嶋に着き給ひにけり。彼の島は、平相国(=清盛)、安元の宝暦に、一千部の「法華経』を石の面に書写して、漫々たる波の底に沈む。鬱々たる魚鱗を救はむが為に、村里の男女、老少その数多く集まりて、上人に結縁し奉りけり。

  意訳変換しておくと
摂津国の経の嶋(兵庫湊)にやってきた。この島は、平清盛が一千部の「法華経』を石の面に書写して、港の底に沈めた所である。魚鱗の供養のために、村里の男女、老少たちが数多く集まりて、上人の法話を聞き、結縁を結んだ。

兵庫湊での説法
   法然上人絵伝 巻34〔第3段」   法然摂津経の島(現神戸)
  兵庫湊に上陸した法然を、村長がお堂に案内します。京で名高い法然がやってきたと聞いて、老若男女、いろいろな人達がやってきて、話を聞きます。
①の女性は、大きな笠をさしかけられています。遊女は3人セットで動きます。その一人が笠持ちです。
②背中に琵琶、手に杖をもっているので、盲目の琵琶法師のようです。
③は、黒傘と黒衣から僧侶と分かります。集団でやってきているようです。
④は、尼さん、⑤は乗馬したままの武士の姿も見えます。いろいろな階層の人たちを惹きつけていたことがうかがえます。法然は集まった人達に、「称名念仏こそが往生への道です。かたがた、構えて念仏に励みなさるように」と説いたのでしょう。
お堂の前の前には兵庫湊(現神戸)の浜辺が拡がります。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島の浜辺(現神戸)
 
・馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。
・浜辺の家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指しています。
私がこの絵で興味を持つのは、やはり湊と船です。
何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。

兵庫湊2
 法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島の浜辺の続き(現神戸)
つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊では、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。

兵庫湊の遊女

ここで注目したのが左側に描かれている小舟と、3人の女性です。
船に乗って、どこへいくのか。艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、二人の女が飛び移りました。そして、傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、「たまさか」の歌を歌いかけています。これが入港してきた船に対する遊女の出迎えの儀式です。これと同じ場面が室津でも出てきますので、そこで謎解きすることにします。

14世紀になって描かれた法然上人絵伝の「讃岐流配」からは、当時の瀬戸内海の湊のようすがうかがえます。それは人工的な港湾施設のほとんどない浜がそのまま湊として利用されている姿がえがかれています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年