
法然(増上寺)
浄土宗を開いた法然は、延暦寺・興福寺など専修念仏に批判的な旧仏教教団の訴えで、建永二年(1207)3月16日、土佐国へ流されることになります。実際には土佐国まで行くことはなく、10か月ほど讃岐国にとどまって、その年の12月には赦免されて都へ帰っています。その間の様子を、「法然上人絵伝」で見ています。
今回は、都を出立して11日目の3月26日に到着した塩飽島(本島)を見ていきます。
讚岐国塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)
巻三十五〔第一段〕 三月十六日、讚岐国塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍が館に着き給ひにけり。西忍、去にし夜の夢に、満月輸の光赫尖たる、袂に宿ると見て怪しみ思ひけるに、上人人御ありければ、このことなりけりと思ひ合わせけり。薬湯を儲け、美膳を調え、様々に持て成し奉る。上人、念仏往生の道細かに授け給いけり。中にも不軽(ふきょう)大士の、杖木・瓦石を忍びて四衆の縁を結び給ひしが如く、「如何なる計り事を廻らしても、人を勧めて念仏せしめ給へ、敢へて人の為には侍らぬぞ」と返すがえす、附属し給ひければ、深く仰せの旨を守るべき由をぞ申しける。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外他事なかりけり。
意訳変換しておくと
都を出立して11日目の3月26日に、塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍の館に着いた。西忍は、出家入道の身であった。彼は、満月の光が自分の袂にすっぽりと入る夢を見ていたので、法然上人がお出でになるとという吉兆の知らせだったのだとすぐに思い当たった。そこで一行を舘に迎え、薬湯や美膳を調え、いろいろなところにまで気を配ってもてなした。
法然は、念仏往生の道を細かいところまで西忍に指導した。中でも不軽(ふきょう)菩薩が、杖木・瓦・石で打ちたたかれた話をして、「どんな計り事を廻らしても、人に勧めて念仏させることが、その人のためになる」と返すがえす伝え、これを守るべしと申し渡した。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外になにもないとも云った。
①の畳の上に座るのが法然
②の下手の板戸を背に座っているのが主人の西念。出家入道なので僧服姿です。扇の柄ををトントンと板間につきながら「実は、先日、満月の光が私の袂に入る夢をみましてなあ・・」と、語り始めます。
③都から高僧がやってきたという知らせを聞いて、③の武将がお供を連れてやってきています。しかし、地頭の舘なので、いろいろな階層の人達の姿はありません。武士と僧侶だけで、庶民や女性の姿は見えません。木戸の奥を、見てみましょう。
塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)①奥では接待のための膳の準備が整ったようです。「心込めて、気をつけて運べよ」と指示しているのでしょうか。奥は棟がいくつも続き広い空間が拡がっています。塩飽は、瀬戸内海の流通センターの役割を果たし、人とモノが集まってくる所でした。そこを押さえた地頭の羽振りの良さがうかがえます。
②縁側の上に首飾りをつけた犬がいます。猫ではないようです。ペットとして室内犬的に飼われていた犬もいたようです。
塩飽の地頭舘の奥(法然上人絵伝 第35巻第1段)『拾遺古徳伝絵詞』七巻第七段『拾遺古徳伝』には、次のように記します。 

聖人ノ配所ハ土佐国トサタメラレケレトモ、讃岐国塩飽庄ハ御領ナリケレハ、月輸ノ禅定殿下(九条兼実)ノ御沙汰ニテ、ヒソカニカノトコロヘウツシタテマツラレヶル、カノ庄ノ預所駿河守高階ノ時遠(たかしなときとう)入道西仁力館二寄宿シタマフ、御教書ノム子等閑ナラサレハナシカハ昧ニシタテマツルヘキキラメキモテナシタチマツル、温室結構シ、美膳調味シツツノアヒタノ、ソノアヒタノ経営、イカニカナトソフルイヒケル、近国遠郡ノ上下、傍庄隣郷ノ男女群集シテ、世尊ノコトクニ帰敬シタテマツリケリ、 一向専念ナルヘキヤウシヨミタイヒケル
意訳変換しておくと
法然聖人の配所は土佐国とされていたが、月輸ノ禅定殿下(九条兼実)の指示で、その領所である讃岐国塩飽庄に密に変更された。塩飽荘の預所は駿河守高階時遠(たかしなときとう)入道で、彼の西仁の館に寄宿することになった。そこで法然はたいへん厚いもてなしを受けて、温い部屋で、美味しい御前を振る舞われた。その間にも法然がやって来ていると聞きつけた近国遠郡の人々が上下の身分を問わず、その話を聞こうと男女群集ししやってきた。そして、多くの人々が帰依した。
「塩飽」とありますが、塩飽諸島のどの島に上陸したのでしょうか
中世の塩飽の島々は、バラバラで一体感はなかったようです。例えば、各島の所属は次のようになっていました。
①櫃石島は備前②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡③高見島は、讃岐多度郡④広島は、那珂郡
塩飽嶋(本島)周辺の島々
ここからは中世の塩飽諸島は、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があって、それぞれ所属が異なってひとまとまりではなかったことが分かります。近世には「塩飽諸島」と呼ばれるようになる島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったのです。 以上から「塩飽嶋=本島」で、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったようです。本島がこの地域の中核の島だったので、次第に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったと研究者は考えています。つまり、法然や後のキリスト教宣教師が立ち寄ったのも本島なのです。
「塩飽島=本島」が史料に最初に現れるのは、いつなのでしょうか。
「塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
①元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の支度料物に「塩飽荘からの塩二石の年貢納入」②保元4年(1156) 藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。③元暦二年(1185) 三月に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退④建長五年(1253) 十月の「近衛家所領目録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」⑤建永二年(1207) 3月26日に法然が流刑途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと⑥康永三年(1344) 11月11日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと⑦⑧永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
ここからは次のような事が分かります。
①②からは、12世紀に摂関家藤原氏の荘園として伝領するようになっていたこと
③からは、12世紀後半に平清盛が日宋貿易や海賊討伐で瀬戸内海の海上支配を支配し、塩飽もその拠点となっていたこと。そのため屋島の戦い後の平家撤退時に、戦略拠点であった塩飽を経由して宮島に「転戦」していること。
④からは鎌倉幕府の下で、九条家を経て近衛家に伝領するようになっていたこと
⑥からは、小笠原氏の領地となっているが現地支配をともなうものではなかったこと
⑦からは「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっているので、すでに荘園ではなくなっていること。つまり、14世紀後半には「塩飽荘」は荘園としては消滅していたことがうかがえます。
平清盛と日宋貿易における瀬戸内海ルートの重要性
法然がやって来た13世紀初頭の塩飽を取り巻く状況を見ておきましょう。
平氏の支配下にあった讃岐は、源平合戦後は源氏の軍事占領下に置かれます。そして、1185年「文治の守護地頭補任の勅許」で、讃岐にも守護・地頭が設置されることになります。しかし、当初は、西日本の荘園には地頭は設置でず、それが現実化するのは、承久の変以後とされます。ちなみに、鎌倉時代の讃岐の地頭・御家人の補任地は次の22ヶ所です。
鵜足郡 法勲寺 二村那珂郡 真野勅使(高井) 櫛梨保(島津) 木徳荘(色部) 金蔵寺(小笠原)多度郡 善通寺 生野郷 良田郷 堀江荘(春日兼家) 吉原荘(随心院門跡) 仲村荘三野郡 二宮荘(近藤) 本山荘(足立) 高瀬荘(秋山) ()は地頭名
地頭名は、ほとんどが東国出身の御家人で、讃岐出身の武士名はいません。地頭が配置されているのは、丸亀平野と三豊平野がほとんどです。東讃にはいません。これは、東讃の武将がいち早く源氏方についたのに対して、西讃の武士団が旧平家方に最後までいたので、領地没収の憂き目にあったようで、その後に西遷御家人が地頭として東国から乗りこんできたと説明されます。しかし、この一覧を見ると、塩飽に地頭は配置されていません。塩飽の地頭として登場してくる「駿河権守高階保遠入道西忍」の名前もありません。これをどう考えればいいのでしょうか? その謎を解くために、20年ほど時代を遡って、平家が塩飽戦略拠点とした経過を見ておきます。


平氏の撤退と源氏の追撃ルート
『玉葉』の元暦二年(1185)12月16日条に屋島合戦の後の平家の退路が次のように記されています。
伝え聞く、平家は讃岐国シハク庄(塩飽)に在り、しかるに九郎(義経)襲政するの間、合戦に及ばず引き退き、安芸厳島に着しおわんぬと云々、その時饉かに百艘ばかりと云々
ここには屋島を追われた平氏は、まず塩飽荘に逗留したこと、義経の追撃をうけて戦わずに安芸国の厳島に百艘余りで「転戦」したとされています。厳島神社は清盛をはじめとして平氏一門とかかわりの深い神社であり、戦略拠点でもあったとされます。どうやら平家は、塩飽も戦略拠点地としていたようです。
それでは、どうして平家が塩飽を支配下に入れていたのでしょうか? 丸亀市史1(606P)は、次のように推測します。
①塩飽荘は、藤原師実以来の摂関家領であった。②本家の地位は師実より孫の忠実、さらにその子忠通へと伝領され、基実を経て近衛家の相伝となった。③清盛は関白基実が没したときに、遺子基通に相統させ、未亡人の盛子の管理下に置き、実質的に 摂関家領の多くを平氏の支配下に入れた。④こうして塩飽荘は平家支配下に組み込まれ、瀬戸内海の戦略的な要衝として整備された。⑤源平合戦後に平家が落ち延びていくと、源氏は塩飽を直轄地として支配下に入れた。⑥その際に「平家没官領」として、鎌倉から代官が派遣された。それが「得宗被官塩飽氏」である。
この北條得宗被官が「駿河権守高階保遠入道西忍」で、得宗家領の代官として塩飽にやってきていたと考えることはできます。得宗家領には平家没官領などの没収地が多くありました。塩飽という地名は塩飽諸島以外にはありません。この地を名字の地とする塩飽氏が得宗被官として、鎌倉時代の後半には登場してきます。以上から塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理していた、その代官が「駿河権守高階保遠入道西忍」だとしておきます。
それでは入道西忍の舘があったのは、どこなのでしょうか?

本島に「塩飽嶋」と注記されている(上が南)
その候補は、「①笠島 ②泊 ③甲浦」が考えられます。しかし、決め手に欠けるようです。
本島笠島は、中世山城と一体化した湊
①の笠島は、塩飽島(本島)北側にあり、山陽道を進むことの多かった古代・中世の船が入港するには、都合のいい位置です。しかし。笠島は中世の山城と一体的に作られた湊の雰囲気がします。一般的に、中世の武士団の拠点が湊と一線を画した所にある点からすると異色の存在といえます。ここは、海賊衆の鎮圧などのために香西氏などが進出してきた後に作られた湊と私は考えています。
そうすると残りは、島の南側の②か③になります。古代から塩が作られていたのは、②の泊になるようです。ここに海民たちが定着し、塩などの海産物を京に運ぶために海運業が育ち、そこに荘園が置かれたことは考えられます。つまり、古代の本島の中心は②にあった、そして①笠島は中世以後に軍事拠点として現れたという説です。そう考えると、法然が立ち寄った際には①笠島は、まだ姿を見せていなかったことになります。
「泊=荘園政所説」に、さきほどみた「塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理」説を加えると、得宗家領の代官としてやってきた入道西忍はどこに舘を構えたのか?ということになります。
地頭の舘は、支配集落のすぐそばには作られません。意図的に孤立した場所が選ばれていることが発掘調査からは明らかになっています。そうすると②の泊ではなく、①か③ということになります。そして①の出現は、南北朝以後とすると③の可能性もあります。このように決定力に欠けるために、どこか分からないということになります。
西行が崇徳上皇慰霊のために讃岐に渡る際に、備中真鍋島で塩飽のことを次のように記しています。
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申しけるをききて、真鍋よりしわく(塩飽)へ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」
意訳変換しておくと
(上方の船は)真鍋と中島で、京からの商人たちを下船させた。そこで様々な商品を商いして、また塩飽島に渡って、商いを行うと云う。真鍋から塩飽へ通う商人は、商品を売買したり、仕入れたりしながら塩飽を中心に活動しているようだ。
ここからは塩飽島が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことがうかがえます。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになていたのです。人とモノと金が行き交う塩飽を治めた入道西忍の舘がその繁栄を物語っているように思えます。法然は、ここにしばらく留まったと伝えられます。
塩飽が備讃瀬戸の交易センターとして、さまざまな人とモノが行き交っていたことがうかがえます。

「拾遺古徳伝絵詞」には、法然の塩飽滞在について次のように記します。

「拾遺古徳伝絵詞」には、法然の塩飽滞在について次のように記します。
「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」
塩飽本島は、瀬戸内海の交易センターで交通の便がよかったので、周辺の国々から多くの人達が法然を尋ね結縁を結んだというのです。

塩飽嶋(本島)の集落
以上をまとめておきます①讃岐に流刑となった法然一行は、京を出て11日目に塩飽島に到着した。
②塩飽島は、現在の本島(丸亀市)のことである。
③塩飽島の地頭は、出家して入道西忍と名のっていて、法然を歓待した。
④当時の塩飽荘は平家没官領で、得宗家領として代官が派遣され管理していた。それが入道西忍であった。
⑤入道西忍の舘がどこにあったかは分からないが、経済力を背景に豪壮な舘に住んでいた。
⑥ここに法然はしばらくとどまり、その後に讃岐に上陸していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 屋島合戦と塩飽 丸亀市史1(606P)
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コメント
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tono202
が
しました