法然
浄土教の盛んだった京都黒谷別所の叡空の下で修学した源空(法然房)は、やがて、源信の『往生要集』に導かれて専修念仏にたどりつき、安元元年(1175)ごろまでに浄土宗を開立したと言われます。念仏以外のあらゆる行業・修法を切り捨て次のように宗旨を宣言しています。「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申せば、うたがいなく往生するぞ、と思いとりて申外には別の子細候はず。」(一枚起請文)
こうして浄土教は、一部の知恵者や遁世者、上層階級の者の宗教から解き放たれ、開かれた宗教としての道を歩み始めることになります。しかし、それは苦難の道でした。とくに、南都北嶺の旧仏教勢力からの弾圧を受け続けます。やがて、元久元年(1204)になると、延暦寺衆徒や興福寺などからの専従念仏禁止の運動が活発化するようになります。
それを庇護したのが法然の下で出家した前摂政の九条兼実の力でした。そのバランスが崩れるのが建永元年(1206)3月のことで、事態は急変します。法然房は、土佐国配流と決まります。土佐国は、九条家が知行国主であったので縁故の土地でもありました。3月16日(旧暦)、京都を立ち、鳥羽から淀川を下り、摂津国の経ヶ島(兵庫)から「都鄙上下の貢船」と呼ばれた海船に乗り換えて、播磨国の高砂そして室津を経て讃岐国塩飽島に到着します。前回までにここまでを「法然上人絵伝」でたどってきました。
当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、念仏の行を勧め給ひければ、当国・近国の男女貴賤、化導(けどう)に従ふ者、市の如し。或は邪見放逸の事業を改め、或は自力難行の執情を捨てゝ、念仏に帰し往生を遂ぐる者多かりけり。辺上の利益を思へば、朝恩なりと喜び給ひけるも、真に理にぞ覚え侍る。
彼の寺の本尊、元は阿弥陀の一尊にておはしましけるを、在国の間、脇士を造り加へられける内、勢至(菩薩)をば上人自ら造り給ひて、「法然の本地身は大勢至菩薩なり。衆生を度せんが為の故に、此の道場に顕はし置く。我毎日影向し、帰依の衆を擁護して、必ず極楽に引導せん。若し我、此の願念をして成就せしめずんば、永く正覚を取らじ」とぞ書き置かれける。勢至の化身として、自らその躰を顕はし名乗り申されける、真にいみじく貴き事にてぞ侍りける。
意訳変換しておくと
子松庄の生福寺といふ寺に住居を定めて日夜、無常の理を説き、念仏行を勧めた。すると讃岐の男女貴賤、化導(けどう)に従う者が、数多く現れた。こうして、邪見放逸の行いを改め、自力難行の執着を捨てて、唯一念仏に帰して、往生を遂げる者が増えた。辺境の地である讃岐のことを考えると、まさに法然の流刑は、「朝廷からの朝恩」と歓ぶ者もいたと云うが、まさに理に適った指摘である。生福寺の本尊は、もともとは阿弥陀一尊であった。法然上人は讃岐在国の間に、脇士を造ることを思い立ち、自ら勢至(菩薩)を彫った。そして次のような銘文を胎内に書き付けた。「法然の本地身は大勢至菩薩である。衆生を極楽往生に導くために、この道場に作り置く。我は毎日影向して、帰依した者を擁護して、必ず極楽に引導するであろう。もし、この願念を成就しなければ、正覚をとることはしない」と書き置いた。こうして法然上人は、生福寺に勢至の化身として、自らその躰を現し名乗っている。真にいみじく貴い事である。
①馬を駆って武士と出家姿の老僧がやってきて賑やかになっています。②白衣の老婆を背にして門をくぐる若者③市女笠の赤い服の女房の手をひく男④大きな黒い傘をもつ旅芸人風の男
門からは多くの人達が、雪崩打つように入ってきます。
生福寺の本堂は人で溢れんばかりです。
①本堂の畳の上に経机置かれ、経典が積まれています。その前に法然が座っています②向かって右側には武士の一団③左側が僧侶の一団のようで、④尼や女性もいます。僧侶の中には縁台に座れずに立ったままの姿が何人もいます。⑤の男は顔が青くて、気分が悪いのでしょうか、刀を枕に寝転んでいます。二日酔いかな?⑥幕の内側からは若い僧侶が、和尚さんをこっちこっちと手招いています。⑦では、どこかからの布施物者が運び込まれています。
人々は、法然が口を開くのを今か今かと待っています。
その後からは法然に付き従った弟子たちが、見守ります。
法然の落ち着き先について『法然上人絵伝』は、次のように記します。
①「讃岐国子(小)松庄におちつき給にけり、当庄の内生福寺といふ寺に住」
『黒谷土人伝』には、次のように記されています。
②「同(建永二年)三月十六日二、法性寺ヲ立テ配所二趣玉フ、配所「讃岐国子松ノ庄ナリ」
どちらも配所は「讃岐国子松庄」です。

法然が落ち着いた子(小)松庄(現在の琴平周辺)
法然が落ち着いた子松庄というのは、どこにあったのでしょうか?
角川書店の日本地名辞典には、次のように記されています。
琴平町金倉川の流域、琴平山(象頭山)の山麓一帯をいう。古代 子松郷 平安期に見える郷名。那珂郡十一郷の1つ。「全讃史によれば、上櫛梨・下櫛梨を除く琴平町全域が子松郷の郷域とされており、金刀比羅官(金毘羅大権現)とその周辺地域が子松と通称されていたという。中世の子松荘 鎌倉期~戦国期に見える荘園名元久元年4月23日の九条兼実置文に、千実が娘の宜秋門院任子(後鳥羽上皇中官)に譲渡した所領35荘の1つとして「讃岐国子松庄」と見える。
子松郷は現在の琴平周辺で、郷全体が立荘され、九条兼実の荘園となっていたようです。ここからは法然の庇護者である九条兼実が、自分の荘園のある子松郷に法然を匿ったという説が出されることになります。しかし、注意しておきたいのは子松荘のエリアです。小松庄は、現在の琴平町から櫛梨をのぞく領域であったことを押さえておきます。
次に、拠点としたという生福寺について見ておきましょう。
法然上人絵伝には「当庄の内 生福寺」と、具体的な寺名まで記されています。しかし、生福寺については、どこにあったのかなどよく分かりません。後の九条家の資料の中にも出てこない寺です。
九条家の資料に出てくる小松荘の寺院は、松尾寺だけです。子松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。ちなみに、松尾寺の守護神として生み出されるのが「金毘羅神」で、その神を祀るようになるのが後の金毘羅大権現です。
どちらにしても生福寺という寺は、法然の讃岐での拠点寺院とされるのですが、その後は忘れ去られて、どこにあったのかも分からなくなります。
それを探し当てるのが初代高松藩主松平頼重です。
その経緯を「仏生山法然寺条目」の中で、知恩院宮尊光法親王筆は次のように述べています。
元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。
意訳変換しておくと
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年(1207)に讃岐に左遷され、しばらく生福寺に滞在した。②その際に(生福寺)は念仏三昧の道場なり栄えた。④しかし、その後の乱世で衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。⑤それを寛永年中に高松藩主として入国した松平頼重は、法然上人の旧跡を復興して仏生山へ移し、法然寺を創建し田地を寺領にして寄進した。
⑥生福寺の移転跡には、新しく西念寺が建立された。
ここには、17世紀後半には生福寺は退転し草庵だけになっていたこと、本尊や法然真影だけが残っていたと記されています。注意したいのは、退転し草庵だけになっていた生福寺の場所については何も触れていないことです。「法然上人絵伝」には「当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、」とありました。生福寺は小松荘にあったはずです。旧正福寺跡とされる西念寺は、まんのう町狹間)なのです。ここからは「西念寺=旧正福寺跡」説を、そのままに受け止めることは、私にはできません。
松平頼重が仏生山法然寺を創建するための宗教的な意図については、以前にお話ししましたので、要約して確認しておきます。
①藩主の菩提寺として恥じない伽藍を作りあげること。②それを高松藩における寺院階層のトップに置くこと、つまりそれまでの寺院ランクの書き換えを行うこと。③徳川宗家の菩提寺が増上寺なので、同じ宗派の浄土宗にすること
そこで考えられたのが法然上人絵図の「法然讃岐左遷」に出てくる生福寺なのでしょう。そして、草庵に退転してた寺を「再発見」したことにして、仏生山に移し、その名もズバリと法然寺に改称します。こうして法然寺は藩主があらたに創建した菩提寺という意味だけでなく、法然上人の讃岐流刑の受難聖地を引き継ぐ寺として、「聖地」になっていきます。江戸時代には法然信者達が数多くお参りする寺となります。このあたりにも、松平頼重の巧みな宗教政策が見えて来ます。
法然が讃岐小松庄に留まったのは、わずか10ケ月足らずです。
しかし、後の念仏聖たちが「法然伝説」を語ったことで、たくさんの伝承や旧蹟が産まれてきます。例えば讃岐の雨乞い踊りの多くは、法然が演出し、振り付けたとされています。
これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は、次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡子松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」
ここからは研究者達は「法然=念仏踊り」ではなく、もともとは「一遍=踊り念仏」が実態であったものが後世の「法然伝説」によって「株取り」されていると考えていることが分かります。一遍の業績が、法然の業績となって語られているということでしょう。そして、讃岐での一遍の痕跡は、次第にみえなくなり、法然にまつわる旧蹟が時代を経るにつれて増えていきます。これは弘法大師伝説と同じ流れです。
中世には高野聖たちのほとんどが念仏聖化します。
弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺へ念仏阿弥陀信仰を拡げていたことは以前にお話ししました。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いつしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺へ念仏阿弥陀信仰を拡げていたことは以前にお話ししました。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いつしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
最後に、法然上人絵伝の讃岐への流刑を見てきて疑問に思うことを挙げておきます。
①流刑地は土佐であったはず。どうして土佐に行かず讃岐に留まったのか。
これについては、庇護者の九条兼実が手を回して、自らの荘園がある子松荘に留め置いたとされます。そうならば当時の讃岐国府の在地官僚達は、それを知っていたのか、また知っていたとすればどのような態度で見守ったのか?
②法然死後、約百年後に作られた「法然上人絵伝」の制作意図は「法然顕彰」です。そのため讃岐流配についても流刑地での布教活動に重点が置かれています。それは立ち寄った湊で描かれているのが、どれも説法シーンであることからもうかがえます。「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」から、讃岐にとっては「法然流刑」は、願ってもない往生念仏の布教の機会となって有難いことだったという結論に導いていきます。そのため、後世の所の中には、これが流刑であることを忘れ「布教活動」に讃岐にやって来たかのような視線で物語る書も現れます。それは、信仰という点からすれば当然の事かもしれません。しかし、歴史学という視点から見るとあまりに史料からかけ離れたことが、史実のように語られていることに戸惑いを思えることがあります。空海が四国88ヶ所を総て開いたというのが「弘法大師伝説」であるように、法然に関わる旧蹟や物語も「法然伝説」から産まれ出されたものと割り切る必要があるようです。
以上をまとめておくと、
①土佐への流刑となっていた法然一行は、塩飽から子松庄の生福寺に入った。
②子松荘は現在の琴平周辺で、九条兼実の荘園があっので、そこに法然を保護したとされる。
③生福寺には、数多くの人々が往生念仏の道を求めてやってきて結縁したと伝えられる。
④しかし、子松庄にあった生福寺については、よくわからない。
⑤生福寺が再び登場するのは、高松藩主松平頼重が仏生山に菩提寺を建立する際に「再発見」される。
⑥松平頼重は、法然の聖地として退転して草庵になっていた生福寺を仏生山に移し、法然寺と名付けた。
⑦これは高松藩の寺院ヒエラルヒーの頂点に法然寺を置くための「演出」でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
コメント