平氏全盛時代を経て、鎌倉期になってからの瀬戸内海航路の支配権については、次の二つが注目されます。
①政治的には、西園寺家と北条氏一門の進出
②宗教的には、西大寺流律宗の進出
今回は①の西園寺家の瀬戸内海航路の掌握をめぐる動きを追っていることにします。
西園寺公経
西園寺公経(きんつね)
まず、伊予にたいする西園寺家の執着がきわめて強烈だった例を見ておきましょう。西園寺公経は、源頼朝の女婿一条能保との縁で、早くから鎌倉幕府に接近していた親幕派のひとりでした。実朝の横死後、その後継者を都から招くことがきまると、九条道家の男子(公経にとっては外孫)を頼朝の血筋をひくという理由で強く推し、第四代の将軍の位につけることに成功します。それが摂家将軍、のちの源頼経になります。この結果、鎌倉将軍の外祖父として京都の政界で重きをなし、その権勢は並ぶ者がないといわれるほどにのし上がっていきます。
西園寺公経が、はじめて伊予国の知行国主となったのは、1203(建仁3)年のことです。
続いて、3年後には周防国の知行国主にもなっています。こうして西園寺公経は、瀬戸内海の西の入口にあたる両国をおさえます。以後、伊予は鎌倉時代を通じて、西園寺家に継承されて、家領同然になっていきます。西園寺家のこの海域にたいする強い関心が、早くから動いていたことがうかがえます。
宇和郡
伊予国宇和郡
 吾妻鏡には1236(嘉禎二)年2月22日、西園寺公経が幕府に強要して、宇和郡を所領としてきた橘(小鹿島)公業の知行をやめさせ、これを自らものとしたことが記されています。このとき、所領を奪われた橘(小鹿島)公業は、次のように抗弁しています。

先祖が藤原純友を討ち取って以来この地に居住し、代々相伝してきた所領を、咎なくして奪われるのは不当である。

これに対して西園寺公経は、この所望が達成されなければ、「老後の眉目を失ふに似たり」として、自ら鎌倉に下向する意志を示し、ついに幕府も、これを受け入れたと記されています。こうして西園寺公経は、宇和郡を一円的所領として確保することになります。前太政大臣の地位にありながら、このような「下職」にどうして、これほどこだわる理由があるのでしょうか?
宇和島に対する公経の執念を、どう考えればいいのでしょうか?
これに対して研究者は、その意図を次のように指摘します。
「純友が日振島を根拠にしたという歴史からみても、海上交通の要地の掌握という点をおいはかんがえられない」

これを補足するのが1230(寛喜二)年に、豊後水道をはさんで宇和島対岸にあたる豊後の阿南郷(荘)を、公経が由原八幡宮に寄進し、自らの所領としていることです。「伊予宇和郡 + 豊後の阿南荘」を手中にすることで豊後水道の制海権を握ることになります。こうして西園寺家は、後の世に宇和郡にその一族を土着させ、足場を固め、ここを基盤に伊予の戦国大名にまでなっていくための足がかりを築いたことになります。
 それだけでなく、西園寺家は宇摩荘を手中にしています。伊予国知行国主として支配下においている国衛領をはじめ、船所などの諸機関の掌握を通じて、瀬戸内海の海上交通に大きな力をおよぼすようになったはずです。
 西園寺家の鎌倉時代の所領は、瀬戸内海沿海諸国に次のように分布していました。
周防国玖珂荘
安芸国沼田荘
備中国生石荘
備前国鳥取荘
播磨国五箇荘
摂津国富松荘
この中でも沼田荘は、公経のときに手に入れた所領で、その内部に、海民の拠点として知られる能地、忠海、渡瀬を含む浦郷を含む海上交通の要地です。西園寺家は家司橘氏を預所として、現地の経営に力を入れています。これらの事実からみて、西園寺家は瀬戸内海の海上交通に強い関わりをもっていたことがうかがえます。
3 家船4
沼田荘周辺
西園寺家の戦略は、北条氏の交通路支配を補完するものだったと研究者は考えています。
その中で研究者が注目するのは、北条氏一門の金沢氏の動向です。
武蔵の六浦・金沢(横浜市)を本拠し、金沢文庫を残したことで有名な金沢氏は、房総半島と海を通じて海運に密接に結びついてきました。それがモンゴル襲来の前後、伊勢・志摩をはじめ周防・長門・豊前の守護となり、さらに鎮西探題となって、肥前・肥後の守護を掌握します。そして東海道から瀬戸内海を通って九州にいたる海上交通のルートに強い影響力をおよぼすようになります。
金沢北条氏と鎌倉時代の繁栄 横浜市金沢区
北条氏と金沢氏の関係
金沢氏一門と西園寺家には、次のような強い結びつきがあったことを研究者は指摘します。
①金沢顕時(あきとき)の子顕実が伊予守に就任。これは知行国主西園寺家の下での国守であること。
②1307(徳治二)年、伊予国久米郡も、金沢の称名寺の寺用にあてられる金沢氏の所領となった。
③顕時のもう一人の子息貞顕が、西園寺実氏の女東二条院公子の蔵人になったこと
④貞顕の子で東寺長者にもなった顕助が、公経の女にとっては外孫にあたる実重の子で洞院実雄の外孫であった内大臣三条公茂の猶子となっていること
こうした金沢氏の西園寺家とのつながりは、決して偶然のことではなく、金沢氏の瀬戸内海交通にたいする支配と西園寺家のそれとが重なっていたことから生まれたものと研究者は考えています。このような結びつきによって瀬戸内海での影響力や支配力を、両者はたがいに相補い、より安定・強固なものにしていきます。

「伊予国をおさえ、院御厩別当として左馬寮を知行することで瀬戸内海交通を支配する」

というのが西園寺家の戦略だったようです。
実はこれには先例があったと研究者は次のように指摘します。
①兄頼朝と対立した源義経は、伊予守に任ぜられ、院御厩別当にもなっていること。
②頼朝と敵対関係にあった源義仲も、左馬頭になり、伊予守に補任され、院御厩別当になっていること。
③その際に義仲は、次のように強く要求し、いったん補任された越後守を嫌って、あえてその6日後に伊予守になっていること

「院ノ御厩別当二成テ、思フサマニ馬取ノランモ所得也トテ、押テ別当二成テケリ」(『源平盛衰記』34)

④ここからは、義仲に伊予守について強い執着がうかがること

 義経、義仲の立場に立って考えると、東国をおさえた頼朝に対抗し、西国にその勢力を固める必要に迫られていたはずです。そういう目で西国を見ると、その最重要戦略ラインは、淀川から瀬戸内海への交通路支配です。その根拠となる伊予守、御厩別当(左馬頭)の兼帯は、二人にとって、どうしても欲しいものだったはずです。

 さらに遡って、平氏の時期を見ておきましょう。
①忠盛以来、重衡、知盛が院御厩別当(左馬頭)になっていること
②重盛が1159(平治元)年に伊予守となり、清盛も伊予の知行国主になっていること。
③源義朝も伊予守、左馬頭になっていること。
④伊予守と御厩別当との兼帯は、1129(大治四)年の藤原基隆、翌年の藤原家保まで遡って確認できること。
  これをどう考えればいいのでしょうか。ここまでくれば両職の兼帯は偶然とはいい難いようです。伊予守、御厩別当(左馬頭)の兼帯は、淀川・瀬戸内海交通の支配、ひいては西国支配実現のための大きな足がかりだと、当時の支配者は認識していたようです。
日振島
日振島(豊後水道の戦略的要地?)

 伊予の宇和郡は近畿からは遠いところにあるように思えます。しかし、日振島を根拠として、瀬戸内海を席捲した藤原純友の軍勢は淀川にたちまち姿をみせています。伊予と淀川は、瀬戸内海という海のハイウエイーでつながっていたのです。
鎌倉時代の国際航路
鎌倉時代の国際航路

 藤原基隆から源義経、さらには西園寺家にいたるまでの、伊予国と院御厩領・左馬寮領支配の背後に、院の存在があったことを研究者は指摘します。   
鳥羽院の御厩別当となった平忠盛は、会賀・福地牧を支配するとともに、後院領肥前国神崎荘の預所として、日宋貿易を行っています。

日宋貿易
日宋貿易

白河上皇以後、後鳥羽上皇にいたるまでの院が、淀川、瀬戸内海、北部九州、さらには中国大陸にいたる河海の交通に、なみなみならぬ関心をもっていたことがうかがえます。平氏もそれを背景にして、独自な西国支配を固めていきました。西園寺家も、ある意味ではこれを踏襲していたことになります。こうした海への関心は、淀川沿いに楠葉牧を確保し、近江に大津御厩をもつ摂関家も、同じだったようです。1185(文治元)年以降、九条兼実が伊予の知行国主になっています。これもそのような流れの中で捉える必要があると研究者は考えています。
中島水産株式会社 おさかなぶっく

以上をまとめておくと
瀬戸内海航路の掌握2

①白河上皇以後、後鳥羽上皇にいたるまでの院は、日宋貿易や瀬戸内海交易に関心をもっていた。
②それを受けて平氏は瀬戸内海の海賊討伐や航路整備を行い、瀬戸内海を「我が海」としようとした。
③その際に必要な部署が淀川水運支配のための「院御厩領・左馬寮領」であり、瀬戸内海支配のシンボルである伊予国であった。
④それは、後の義仲・義経にも受け継がれる。
⑤西園寺家にとって「伊予国」は瀬戸内海航路支配のために是非とも手に入れたいポストであった。
⑥宇和郡は豊後水道の制海権を得るために、是非とも手にしておきたいエリアであった。
⑦そのためにも西園寺公経(きんつね)は、大貴族でありながら横暴を通して宇和郡を手に入れた。
⑥それは瀬戸内海交通路支配のためのは、手にしておきたい場所だったからであり、その向こうに日宋貿易の富があったからである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」