讃岐出身の軍学者香西成資が寛文三年(1663)に著したのが『南海治乱記』で、その増補版が『南海通記』です。この両書には、次のような事が記されていたのを前回は見ました。
①(香西)資村が、香西氏の始祖であること。②資村は、承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
しかし、資村については、史料的には確認できない人物です。香西氏の中で史料的に確認できるのは、14世紀南北朝時代の、香西彦三郎や香西彦九郎ですが、彼らは南海通記などには登場しないことなどを見てきました。以上からは、戦国時代に滅亡した香西氏には、それまでの文書や系譜が失われていたことが考えられます。軍学者香西成資は、手元に史料の無い状態で南海通記を書いたことが考えられます。
南海通記には15世紀になると香西氏には、在京する一族と、讃岐に在住する一族の上下の香西氏が生まれたと記します。今回はこの、上香西氏と下香西氏について見ていくことにします。テキストは、 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究 2022年」です
南海治乱記巻之三 植松四郎射芸記
明応年中に、(中略)香西備後守①元資一子備中守②元直在京す。故に上香西と云ふ。次子左近将監③元綱、讃州に在住す。故に下香西と云ふ也。備中守元直か子又六郎元継、後又備中守と号する也。
意訳変換しておくと
明応年中(1492~1501)に、(中略)香西備後守①元資の子である備中守②元直は在京していた。そのため上香西と呼ばれた。次子の左近将監元綱は、讃岐にいたので下香西と云う。備中守元直の子又六郎元継も、後に備中守と称する。

香西氏系図(南海通記)
『南海通記』巻之廿上 上香西・下香西伝文明九年(1477)二至テ両陣ノ諸将時ノ和談ヲナシ、各下国シ京中ノ陣跡、径卜成ル。其時讃州ノ四臣モ子弟ヲ京都二残テ、管領家ヲ守ラシメ、各下国有り。是二依テ上香西・下香西ノ別有り。応仁年中(1467―69)二香西備後守元資、長子備中守元直二丹波ノ采地ヲ譲テ管領家ヲ守シメ、京都二在住セシム。此氏族ヲ上香西卜云。同元資ノニ子左近将監元顕、讃州本領ヲ譲テ、是ヲ下香西卜云。元顕ノ長子豊前守元清、長子越後守元成、元成長子駿河守元載、元載ノ長子伊賀守佳清、是五代也。
意訳変換しておくと
文明九年(1477)になって両陣の諸将は交渉して和議を結んだ。各軍勢は国に帰り、京中の陣跡は道になった。この時に讃州の細川家の四家臣は、管領細川家を守るために子弟を京都に残して、讃岐に帰った。こうして香西家は上香西・下香西に分かれることになった。応仁の乱(1467―69)の戦乱の中で、香西備後守①元資とその長子備中守②元直は丹波に領地を得て、管領家を守って、京都に在住した。この一族を上香西という。元資の子左近将監③元顕は、讃州本領を譲ったので、これを下香西という。元顕の長子豊前守④元清、長子越後守⑤元成、元成長子である駿河守元載、元載の長子伊賀守佳清の五代になる。
『南海通記』巻之二 讃州藤家記
①元資 細川勝元、賜諄之一字 備後守法名宗善 加賜摂州渡辺・河州所々之釆地。
意訳変換しておくと
元資は、細川勝元から一字をいただいた名前である。備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得た。
このように『南海治乱記』・『南海通記』などは、讃岐国外での①元資以後の香西氏の活動を詳細に記します。
以上の資料から元資について拾い出すと次のようになります。
①香西氏の中で、上洛して活躍する最初の人物は香西元資であること。②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと③香西元資の長子元直と、その子孫は在京して上香西と呼ばれたこと、④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直とすること⑤次子元綱(元顕)は讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれたこと。
しかし、これも残された史料とかみ合いません。香西元資について残された史料と照らし合わせてみましょう。
10 応永32年(1425)12月晦日
丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)
12 同年7月20日
丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)
13 永享2年(1430)5月12日
丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)
14 永享3年(1431)7月24日
香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P)
以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは 父と思われる香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。それを元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、元資が丹波守護代の役目を果たしている姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、丹波守護代であったことが確認できます。ところが南海通記は「②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記し、丹波守護代については何も触れません。
南海通記は、資料14の元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直」とするのです。これについて「丹波守護代を罷免されたことを不名誉なこととして、南海通記の作者は触れなかった」という意見もあるようです。しかし、作者が、元資についての正確な資料を手元に持っていなかったと考えた方がよさそうです。
南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。
意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。
ここからは細川勝元の支配は、讃岐出身の「四天王」の軍事力と政治力に支えられていたことがうかがえます。


細川勝元 「讃岐の四天王」に支えられた
『南海通記』は「四天王」の領地とその由来について、次のように記します。
各讃州ニ於テ食邑ヲ賜フ、西讃岐多度、三野、豊田三郡ハ詫間氏カ領也。詫間没シテ嗣ナシ、頼之其遺跡ヲ香川ニ統領セシム、那珂、鵜足ノ二郡ハ藤橘両党ノ所有也。是ヲ細川家馬廻ノ武士トス、近年奈良太郎左衛門尉ヲ以テ二郡ノ旗頭トス、奈良ハ本領畿内ニアリ、其子弟ヲサシ下シテ鵜足津ノ城ニ居住セシム、綾ノ南條、北條、香東、香西四郡ハ、香西氏世々之ヲ領ス、三木郡ハ三木氏没シテ嗣ナシ、安富筑前守ヲ以テ、是ヲ領セシム、香川、安富、奈良ハ東國ノ姓氏也。細川家ニ属シテ當國ニ來リ、恩地ヲ賜フテ居住ス、其來往ノ遅速、何ノ年ト云フコトヲ知ラス、香西氏ハ當國ノ姓氏也。建武二年細川卿律師定禪當國ニ來テ、足利家歸服ノ兵ヲ招キシ時、詫間、香西是ニ属シテ武功ヲ立シヨリ以來、更ニ野心ナキ故ニ、四臣ノ内ニ揚用サラル其嫡子四人ハ香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔也。此四人ハ在京シテ管領家ノ事ヲ執行ス、故ニ畿内ニテ食邑ヲ賜フ、其外在國ノ郡司ハ、大内、寒川二郡ハ寒川氏世々之ヲ領ス、山田郡十二郷ハ、三谷、神内、十河ヲ旗頭トシテ、植田氏世々相持テリ、細川管領家諸國ヲ統領スト云ヘトモ、讃州ヲ以テ根ノ國トス、
意訳変換しておくと
「四天王」はそれぞれ讃州で領地を次のように賜っていた。西讃岐多度、三野、豊田三郡は詫間氏の領地。詫間氏が滅亡して後には、細川頼之は、ここに香川氏を入れた。那珂、鵜足の二郡は藤橘両党の所有であった。そこに近年、細川家の馬廻武士である奈良太郎左衛門尉を入れて、郡旗頭とした。奈良氏は本領は畿内にあるが、その子弟を派遣して鵜足津(宇多津聖通寺)城に配置している。綾の南條と北條、香東、香西の四郡は、香西氏が代々領する。三木郡は三木氏滅亡後は領主不在となったので安富筑前守を入れた。香川、安富、奈良は、東國出身の御家人で、細川家に従って讃岐にやってきて、恩地を得て居住するようになった武士達である。それがいつ頃の来讃になるのかはよく分からない。一方、香西氏ハ讃岐出身である。建武二年に細川定禪が讃岐にやってきて、足利家のために兵を集めたときに、詫間・香西はこれに応じて武功を立てて、四天王の一員として用いられるようになった。その嫡子四人とは香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔である。この四人は在京して、管領家を補佐し、畿内に領地を得るようになった。その他にも讃岐の郡司は、大内、寒川二郡は寒川氏が代々領する。山田郡十二郷は、三谷、神内、十河などを旗頭として、植田氏が代々領する。細川管領家は、多くの國を支配するが、その中でも讃岐は「根ノ國」とされた。
ここには細川管領家における讃岐の戦略的な重要性と、各武将の勢力配置が記されています。それを整理すると次のようになります。
香川氏(天霧城)… 多度郡、三野郡、豊田郡奈良氏(聖通寺城)… 那珂郡、鵜足郡香西氏(勝賀城)… 阿野郡(綾南條郡、綾北條郡)、香川郡(香東郡、香西郡)安富氏(雨滝城)… 三木郡寒川氏(昼寝城)… 寒川郡、大内郡植田氏(戸田城)… 山田郡

細川頼之
讃岐に関東出身の一族が配されたのは、南北朝期に幕府方として西国平定に多大な貢献を果たした細川氏の存在が大きいようです。その中で香西氏は、細川頼之の配下に入り、讃岐の国衆の中で戦功を認められたようです。 足利顕氏が讃岐守護のときには、讃岐の守護代は桑原左衛門五郎常重、桑島十郎左衛門長範(又守護代は井戸二郎兵衛入道)、粟嶋八郎某、月成(秋月)太郎兵衛尉盛国と頻繁に交代します。この交代理由は、「守護代の勢力増大を防止しようとする意図が強かった」からと研究者は考えています。
細川氏の人材登用策は、最初は讃岐以外から連れてきた主立った武士団の棟梁を守護代などにつけます。
しかし、明徳・応永年間以降になると、細川氏は清氏系が没落し、顕氏系に代わって頼之系へと勢力交代します。すると、讃岐などで頼之の分国経営に奉仕し、その権力機構に組み込まれた讃岐や阿波の国人の中からも内衆として登用されるものが出てきます。そのチャンスを香西氏はものにしたようです。
内衆として入り込んだ時の棟梁が、香西入道(常建)です。
香西入道(常建)は、香西元資料の近親者(父か兄)にあたることは、前回にお話しした通りです。香西入道(常建)の資料を再度見ておきましょう。
しかし、明徳・応永年間以降になると、細川氏は清氏系が没落し、顕氏系に代わって頼之系へと勢力交代します。すると、讃岐などで頼之の分国経営に奉仕し、その権力機構に組み込まれた讃岐や阿波の国人の中からも内衆として登用されるものが出てきます。そのチャンスを香西氏はものにしたようです。
内衆として入り込んだ時の棟梁が、香西入道(常建)です。
香西入道(常建)は、香西元資料の近親者(父か兄)にあたることは、前回にお話しした通りです。香西入道(常建)の資料を再度見ておきましょう。
応永19年(1413)
香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)
応永21年(1414)7月29日
室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。(「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
1422年6月8日条
「細河右京大夫内者香西(常建)今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」
ここからは、丹波守護代であった常建が61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家で、一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたことになります。
ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。その中には香西氏の名はありません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
そして、その子か弟が香西元資になります。
以上をまとめておくと
①南北朝時代に白峰合戦に勝利した細川頼之は、讃岐の支配権を握り論功行賞を行った
②その際に、守護代などに地元讃岐出身の国人武将は登用せずに、外部から連れてきた香川氏や安富氏を配置し、聖通寺城には奈良氏を置いた。
③こうした中で讃岐国衆であった香西氏は、遅れて細川管領家の内衆に加えられた。
④その始まりとなるのが15世紀前半に丹波守護代を務めた香西入道(常建)である。
⑤香西入道(常建)の近親者が香西元資であり、彼も丹波守護代を務めていたが失政で罷免された。
⑥南海通記では、香西元資を「細川四天王」の一員とし、讃岐国人の中から唯一内衆として活躍したのが香西氏であると記す。
⑦元資以後の香西氏は、在京する上香西氏と、讃岐在住の下香西氏の二つに分かれたと南海通記は記す。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究 2022年関連記事


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