南海通記目次
南海通記に書かれた香西氏系譜は、残された史料に登場する香西氏の棟梁達とかみあわないことを見てきました。ここからは、南海通記に頼らない香西氏系譜を考えていくことが必要なようです。そのために研究者は、香西氏について触れている一次資料を探して、年代順に並べて家譜を作成すると地道な作業を続けて来ました。その中で明らかになってきたことの一つが、香西氏には2つの流れがあったことです。それを今回は見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究 2022年」です。 15世紀半ばの香西氏の登場する史料を見ていきます。
18 嘉吉3年(1443)5月21日
摂津国住吉郡堺北庄の領主香西之長が、内裏御厨子所率分の同庄警固得分五分一を本所に対し請け負う。得分の半分は本所万里少路家が、残り半分は関所の半分を請け負った細川持之の後家がそれぞれ負担する。なお、同年6月1日の持之後家阿茶于書状案に「かうさいの五郎ゑもん」と見える。(「建内記」『大日本古記録』本、嘉吉三年八月九日条・香西五郎右衛門尉之長請文案6巻59P69P
ここからは次のような事が分かります。
①香西之長が摂津の住吉郡北荘の領主(守護代?)をつとめていたこと。
②香西之長は「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」とも称されていたこと。
①香西之長が摂津の住吉郡北荘の領主(守護代?)をつとめていたこと。
②香西之長は「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」とも称されていたこと。
今度は4年後の1447年の一連の文書を見てみましょう。
19 1447(文安4)年正月19日
19 1447(文安4)年正月19日
興福寺大乗院門跡経覚、香西豊前入道に樽二荷等を贈る。(「経覚私要抄」『史料纂集』本、一巻一四四頁)
20 1447年閏2月16日
興福寺大乗院門跡経覚、香西五郎左衛門(之長)に樽一荷等を贈る。
史料19・20には、興福寺門跡経覚が、香西豊前入道と香西五郎左衛門(之長)に、贈答品を贈っていることが記されています。ここからは、ふたつの香西氏が京都にいたことが分かります。南海通記にも、香西氏は元資以降は、上香西氏と下香西氏の二つの流れに分かれたとありました。
史料20の5日後の文書になります
21 1447年2月21日
香西之長は、越前でも興福寺の荘園管理を請け負っていたようです。香西五郎左衛門(之長)は、同門跡領越前国坪江郷を年貢65貫文で請け負う。(「経覚私要抄」同前一巻166P)
もうひとりの香西氏である豊前入道を見ておきましょう。
この年の5月21日に興福寺学侶衆徒が、坪江郷政所職を請け負いながら年貢を納めようとしない香西豊前入道を改易します。この豊前入道は誰なのでしょうか。時期からみて仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。

南海通記の香西氏系図 史料と一致しない。
ちなみに、丹波守護代を務めた①「香西元資」も香西豊前を名のっていたことは前々回に見たとおりです。南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。
意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。
ここでは香西備後守元資として登場します。南海通記は、「香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記しますが、史料に現れる元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「丹波篠山城を得たのは、元資の息子②元直」とするのです。また「丹波守」ではなく「備後守」としています。
以上からして、史料19・20の15世紀半ばに活躍する「香西豊前入道と香西五郎左衛門(之長)」は、細川家四天王の一人とされる香西元資の子弟達であったと研究者は判断します。
ところが讃岐の陶保をめぐってもうひとりの「元資」が登場します。
22 寛正2年(1461)2月9日
醍醐寺報恩院隆済、細川持之の弟右馬頭持賢に対し、被官人香西平五元資の寺領讃岐国阿野郡陶保の押領を訴える。同4年8月19日の報恩院雑掌申状案によれば、元資は持賢の斡旋により陶保の代官職を請け負っている。(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書6巻293P、同6巻290頁 県史547P)
23 寛正3年(1462)12月
醍醐寺報恩院、再度、持賢に対し香西元資による陶保の押領を訴える。雑掌の申状案及び元資が持賢の被官秋庭・有岡両氏に宛てた9月27日付けの書状によれば、陶保代官職は元資の曾祖父香西豊前入道 → 香西豊前 →美濃守大几資と受け継がれている。(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書6巻287) 県史549P
ここからは、香西平五元資が陶保の代官職を持っていたが、醍醐寺より押領を細川家に訴えられていることが分かります。陶保代官職をめぐる本所の報恩院と代官の香西氏とのやり取りの中で、当事者の代官香西平五元資(幼名元氏)は、次のように述べています。
陶当保の代官職は、
①曾祖父・豊前入道から
②祖父の故豊前
③父美濃守と歴代請け負ってきた」
これを年代的に重ねて、次のように研究者は判断します。
①陶保代官の元資の曾祖父豊前入道は、常建(香西氏の内衆への道を開いた人物)②祖父の故豊前は元資(常慶:「細川四天王」)
②の「常慶」は、元資の出家名とします。そして、元資以後の系譜を次のようにふたつに分かれたと推察します。
つまり、仁尾浦の浦代官と、陶保の代官は別の香西家だったというのです。A 仁尾浦・坪江郷の代官を務めた豊前(豊前入道)B 陶保の代官を務めた美濃守
最初に見た五郎左(右)衛門尉を名乗る流れを見ておきましょう。
16 1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)
17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)
この史料で1441年10月に死去したとされる香西豊前の父が「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
「香西五郎左衛門」が始めて登場するのは、史料16・17の仁尾浦での騒動の時になるようです。香西五郎左衛門というもうひとつの香西氏の一族がいたことが裏付けられます。そして、香西之長も「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」を名のっていてことは、最初に見たとおりです。
その後、1486(文明18)年11月27日以後の文書には、実名不明の香西五郎左衛門が次のように登場するようになります。
28 1486(文明18)年11月27日
細川九郎澄之、八条遍照院尭光の訴訟の事につき、香西五郎左衛門尉・清孫左衛門尉を両使として相国寺鹿苑院の蔭涼軒の軒主亀泉集証のもとへ遣わす。この件に関わって、五郎左衛門尉は翌月14・17両日も使者となっている。(「蔭涼軒日録」同前、2巻391・398・400P)
30 長享元年(1487)12月11日
細川政元、近江国鈎(曲)の陣へ参り、将軍足利義尚に謁する。香西五郎左衛門尉ら十五騎が、政元の伴衆を勤める。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻38P、「伊勢家書」『大日本史料』第八編之二十一、78P
31 長享2年(1488)6月24日
足利義政臨席のもとに、相国寺普黄院において故足利義教の斎会を行う。細川政元、門役を奉仕する。香西五郎左衛門尉、警護を勤める。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻193P)
32 同年10月23日
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、相国寺崇寿院領和泉国堺南荘の代官職の件を蔭涼軒主に伝える。(「蔭涼軒日録」同前。3巻269・230P)
33 同年12月13日
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、真境和尚を鹿苑院後住に定める件につき蔭涼軒主の意向を尋ねる。同月17・24・27の各日条も同じ。(「蔭涼軒日録」同前、三巻293・296・301・304P)
実名不明の「香西五郎左衛門」が登場する史料をまとめると次のようになります。
29 細川澄之の使者30 細川政元の伴衆31 将軍足利義教の葬儀に出席する細川政元の警護役32 細川政元の蔭涼軒主への使者33 細川政元の蔭涼軒主への使者
ここからは細川政元の使者を務めたり、政元の伴衆に加わっていたことが分かります。「香西五郎左衛門」が内衆の一人だったことがうかがえます。

また、別の史料には、政元主催の大追物には香西又六(元長)とともに射手を務めていることが次のように記されています。
34 1489(長享3)年正月20日
また、別の史料には、政元主催の大追物には香西又六(元長)とともに射手を務めていることが次のように記されています。
34 1489(長享3)年正月20日
細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)
35 1489年7月3日
細川政国、飛鳥井雅親・細川政元ら罫に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻437P)
35 1489年長享三年8月12日
明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」同前、三巻470頁)
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
36 1489年8月13日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻471P、「犬追物手組」『大日本史料』第八編之二十八、194P)
以上からは五郎左衛門と元長は同時代人だったことも分かります。もうひとり、よく登場する牟礼次郎は、香西氏の一族で、親密な関係にあったことが分かります。彼らが内衆として細川政元を支えていたようです。
39 1491(延徳3)年3月3日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六(元長)・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304P)
細川政元は変わった所があって、天狗になろうとして修験道に熱中していたようです。ちなみに、この奥州行脚は、政元自らが愛馬の買付に出向いたもので、それに若い近習たちを伴ったものであるようです。
『為広越後下向日記』には「京兆(政元)朝夕雑掌の儀、京都のごとく香西孫五郎基元継なり」とあります。ここからは次のことが分かります。
『為広越後下向日記』には「京兆(政元)朝夕雑掌の儀、京都のごとく香西孫五郎基元継なり」とあります。ここからは次のことが分かります。
①孫五郎の実名は元継で、政元に近侍していたこと②そうすると元忠と元継は父子だということ

「両香西」と表記される史料を見ておきましょう。
41 1492年8月14日
将軍足利義材、来る27日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は 26日に比叡の辻へ出陣。「両香西」ら8騎は留守衆として在京する。(「蔭涼軒日録」同前、四巻442P
ここに「両香西」という表記が出てきます。これが香西又六(元長)と香西五郎左衛門尉になります。この「両香西」を南海通記に出てくる上香西と下香西と捉えたくなるのですが、どうもちがうようです。南海通記は「上香西が在京で、下香西が讃岐在住」と記します。しかし、史料には「両香西」の又六と五郎左衛門は、二人揃って在京していますが、本国は讃岐だったようです。
44 1492年3月28八日
細川政元被官庄伊豆守(香西)元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
(細川勝久)備中のことにつき、広説ありていわく、去る月二十八日、大合戦あり。太守上総介(細川元治)殿、勝利を獲、庄伊豆守(元資) 、城を捨て没落す。玄蕃、また疵五ケ所をこうむり、庄と同じく没落す。香西五郎左衛門、城において切腹す。讃岐より香西、召具すところの軍兵大半討死す。備前の合力勢、功をいたしかくのごとしと云々。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻576P)
意訳変換しておくと
備中の戦いについては、さまざまな噂が飛び交っているが、3月28日に大合戦があって、太守上総介(細川元治)殿が勝利して、庄伊豆守(香西元資)は、城を捨て落ち逃れたこと。玄蕃は5ケ所の手傷を負って、庄と同じく敗死したこと。香西五郎左衛門は、城で切腹したこと。讃岐から香西氏が動員した軍兵の大半は討死したという。備前の合力勢、功をいたしかくのごとしと云々。
ここからは次のようなことが分かります。
①備中国の守護細川上総介勝久と国人庄伊豆守(香西)元資との合戦があったこと
②香西五郎左衛門は香西元資方として参加し、討死したこと
その様子を、伝え聞いた蔭凍軒主は次のように記します。
①備中国の守護細川上総介勝久と国人庄伊豆守(香西)元資との合戦があったこと
②香西五郎左衛門は香西元資方として参加し、討死したこと
その様子を、伝え聞いた蔭凍軒主は次のように記します。
①五郎左衛門は敵3人を討ち切腹したこと、②同朋・猿楽者各一人が相伴して切腹したこと。③この合戦において「五郎左衛門が讃岐より軍兵を召し具した」こと
③からは、五郎左衛門の本国は讃岐であったことが分かります。
以上から、室町期から戦国初期にかけての香西氏には、次の二つの香西氏がいたと研究者は考えています。
①豊前守・豊前入道を名乗る系統②五郎左(右)衛門尉を名乗る系統
南海通記は、在京する上香西氏と讃岐在住の下香西氏がいたとします。しかし、史料からは①と②の両者とも讃岐を本国とし、京兆家内衆として京都に滞在していたことが分かります。香西家には、2つの系統があったが、本国は讃岐にあったとしておきます。
①香西氏は、讃岐では阿野・香川両郡を中心に勢力を築いた。
②牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展した。
③15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
④その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
⑤細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。
⑥京都では、香西氏一族は、牟礼・鴨井両氏等も含めてその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになった。
⑦こうして細川氏の後継者争いが起きると、主導権をにぎろうと内紛に積極的に介入していくようになる。
②牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展した。
③15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
④その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
⑤細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。
⑥京都では、香西氏一族は、牟礼・鴨井両氏等も含めてその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになった。
⑦こうして細川氏の後継者争いが起きると、主導権をにぎろうと内紛に積極的に介入していくようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究 2022年関連記事

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