近世になると寺社は宝物を揃え「開帳」を行うようになります。それは文字通り秘仏・秘宝の帳を開き、特別に公開して、本来衆生に結縁の機会を与えるという宗教行事でした。
本山寺に伝わる「本尊開帳諸記録」を見ながら、約二百余年前の文化二年(1805)の開帳の様子をのぞいて見ましょう。
本山寺の開帳準備スケジュール
本山寺の開帳準備スケジュール
1804年
10月 建札を披露し翌年3月3日から4月4日までの開帳告知。告知の立札、丸亀城下町と金毘羅口や伊予街道・遍路道などの要所1805年2月 軽業興行を願い出。2月 4日 初午市が開かれていた際に上高瀬組内一五か村の庄屋が集められ、村内外の檀家総代と打ち合わせ。2月15日 檀家総代と再び庄屋が集まり、庄屋中へ村々からの寄付を要請2月17日 高野山から住職帰国、25日 延命院から幡(ばん)が、勝造寺から両界曼荼羅など仏画や仏具が借り出される27日 新調された仏具が観音寺湊に到着3月 朔日 竹田村の辻武治から客殿の幕が寄進。仏画類は客殿に掛けられ、月末までに開帳準備完了。3月3日 開帳開始 4月3日までの開帳期間中は、毎日誦経がなされた。4月4日 開帳した本尊への供養。
期間中の行事は本山寺の僧だけではなく、延命院など近隣の真言宗寺院からの僧も参加協力しています。また諸堂の番や餐銭などの管理は、予め各村に人数を割り当てられ、檀家から適任者が選ばれて当たっています。また諸堂には解説札(会解)が作られ、開帳の諸仏の解説がつけられて、解説員も配置されるなど、今でいうと「博物館的空間」が創り出されています。
開帳の目玉の本尊は、どのように人々の目の前に現れたのでしょうか
現在国宝に指定されている本堂内陣奥にある厨子の扉は開かれます。
そして本尊馬頭観音像、脇侍阿弥陀如来・薬師如来像が開帳されます。この須弥壇上の左右には多聞天・持国天像が安置され、内陣中央部には前立馬頭観音像や四面器・三具足(みつぐそく)が置かれました。
内陣最前列には愛染明王坐像と三面大黒天像が配置されます。
まさに本堂内陣には諸仏が立ち並ぶ光景が産みだされたのです。
現在国宝に指定されている本堂内陣奥にある厨子の扉は開かれます。
そして本尊馬頭観音像、脇侍阿弥陀如来・薬師如来像が開帳されます。この須弥壇上の左右には多聞天・持国天像が安置され、内陣中央部には前立馬頭観音像や四面器・三具足(みつぐそく)が置かれました。
内陣最前列には愛染明王坐像と三面大黒天像が配置されます。
まさに本堂内陣には諸仏が立ち並ぶ光景が産みだされたのです。
参詣者は筵が敷かれた外陣を右から左へと進みます。
本堂を出ると竹垣に沿って、すぐ左側の大日堂に導かれます。
ここでは、ぬれ縁から堂内中央の大日如来坐像と、経文板木を拝観します。
その後、南側の十王堂と大師堂へ進みます。
十王堂では、閻魔王をはじめとする十王像・地蔵菩薩像・三十三観音像が、後者では弘法大師坐像・十大弟子画像が公開されています。
本堂を出ると竹垣に沿って、すぐ左側の大日堂に導かれます。
ここでは、ぬれ縁から堂内中央の大日如来坐像と、経文板木を拝観します。
その後、南側の十王堂と大師堂へ進みます。
十王堂では、閻魔王をはじめとする十王像・地蔵菩薩像・三十三観音像が、後者では弘法大師坐像・十大弟子画像が公開されています。
最後に本堂表へ回り、持仏堂・客殿に入ります。
釈迦如来像を中心に、弘法大師御衣・地蔵菩薩像を配置し、
その背面には弘法大師像・両界曼荼羅・阿弥陀如来像など多数の仏画が掛けられ、出口には東山・桑原流生花が色を添えています。
釈迦如来像を中心に、弘法大師御衣・地蔵菩薩像を配置し、
その背面には弘法大師像・両界曼荼羅・阿弥陀如来像など多数の仏画が掛けられ、出口には東山・桑原流生花が色を添えています。
この開帳を支えたのは、檀家を中心とする地域の人々でした。
本山寺の場合は、近世以前からの檀家集団の形成と結合があったようです。それは江戸時代になっても藩・郡・組の枠を越えた財田川流域の地縁・血縁集団として維持されていきます。三豊のこの地域では、檀家を中核としつつも、檀家以外の人々も藩の支配機構である組・村を通じて本山寺の支援集団に組み込まれていったというのが特徴的です。丸亀藩や檀家組織を越えた広い地域からのメンバーで運営組織は形成されています。
加えて、若者組や講など自発的な支援があります。開帳の準備・運営だけでなく、必要経費もこれらの地域の寄進によって賄われています。このような不特定多数の参詣者から寄せられた散銭は、寺内整備に用いることができ、開帳の経済的効果大きかったはずです。
同時に開帳は地域イヴェントでもあり、地域興しでした。
開催に当たっては、娯楽の場を求め、丸亀藩の領内を問わず領外からも数多くの人々が参拝に訪れています。ここには本山寺が宗派に関わらず檀家以外にも多数の人々を集める、存在感ある寺院として、三豊に根を下ろしていたことがうかがえます。このような「財産」が土台にあったからこそ、この寺は百年後に明治の五重塔建設に挑戦していくことができたのでしょう。
参考文献 胡 光 本山寺の秘宝 香川歴史紀行

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