香川県史・中世編は、讃岐の領主的な志向をもつ神主として、次の3氏を挙げています。
大水主社(大内郡)の水主氏田村大社(香川郡)の一宮氏賀茂神社(三野郡)の原氏
今回は、水主神社の水主氏を見ていくことにします。
水主氏は、一宮田村大社と並ぶとされていた大水主社の「惣官」であり、「地頭」でもありました。水主氏は「惣官源盛政」「水主三郎左衛円尉源盛政」と、源姓を称していますがその出自はよく分からないようです。
水主氏が「地頭」として管理していた大水主社領は、大内郡の与田・入野両郷から一部を割り分けるという形をとっていました。そして両郷の残りの部分には「与田殿」「入野殿」「下村御代官」などがの荘園がありました。ここからは、水主神社の社領は、上級領主のいない一円的所領であったことが分かります。
大内郡の郷名(与泰が与田)
水主氏が「地頭」として管理していた大水主社領は、大内郡の与田・入野両郷から一部を割り分けるという形をとっていました。そして両郷の残りの部分には「与田殿」「入野殿」「下村御代官」などがの荘園がありました。ここからは、水主神社の社領は、上級領主のいない一円的所領であったことが分かります。
大内郡の荘園
社領内は1386(至徳三)年の奉加帳によると「水水主分・与田郷分・入野郷分」を除いて、以下の8つの集落から構成されていたようです。武吉・岩隈別所・中村・大古曽・原・宮内・北内・焼栗
これらの地域を地図上で見ておきましょう。
赤い枠内が水主
三本松湾に流れ出す与田川の水源である焼栗付近から、平野部がはじまる与田寺あたりまでの谷間に当たり、現在の大字水主に相当します。奉加者名が114名いますので、それ以上の戸数があったことが分かります。
中世になって武吉村などの各集落は、谷沿いに棚田を開いていきます。その際に農業用水確保のために、避けては通れないのが谷頭(たにがしら)池の築造です。与田川支流の小谷の谷頭に小さな池が作られます。その労働力や資金は、各集落内で賄われたはずです。こうして「水確保のための共同体」が各集落に成長します。中世の谷田開発は、このようにして進められて行きます。こうして水主神社の周辺には8つの集落が形成されます。しかし、この地域の住民は「農民」という範疇だけでは、捕らえきれない性格をもっていたようです。

水主神社の大般若経
水主神社には、「牛負大般若経」と呼ばれ国重文に指定されている大般若経があることは以前にお話ししました。
この大般若経を収めるために、1386(至徳三)勧進された経函には次のように墨書されています。
この大般若経を収めるために、1386(至徳三)勧進された経函には次のように墨書されています。
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、持来ル事、北内越中公・原上総公一 細工助成、堀江九郎殿ト(研)キヌ(塗)ルマテ、宰相公与田山一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により運ばれてきた。2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。

塗師
ここからは、経函制作のために地元の信者達が次のように関わったことが分かります。①経函製作用の桧用材を運送してきたのは北内・原の住人であること。北内・原は先ほど見た水主の集落名の中にありました。わざわざ名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家者で、馬借・車借などの陸上輸送に従事するものと研究者は考えています。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたこと。
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。


また、中世の引田港の船は畿内に、薪炭や薪を積んで行き来していたことが「兵庫北関入船納帳」から分かります。後背地の山々で採取された薪類が水主の馬借・車借によって集められて、引田港に運ばれていたことが考えられます。同時に彼らは、阿讃山脈を越えて阿波の南部とも行き来していたことが見えて来ます。水主は、人とモノが行き交う経済活動の中心地であったことがうかがえます。
水主氏は地頭として、このような「村」をどのように指導・支配したのでしょうか?
それを示す史料はないようです。しかし、水主氏が神社惣官として、宗教的・イデオロギー的に社領内住人を掌握していたことがうかがえるものはあるようです。
①水主の住人は、1386(至徳3)と1445(文安2)年に奉加行動を行っていること②水主の谷を囲む山が那智山・本宮山・新宮(虎丸山)と称されていること
などから水主住民にも熊野信仰が強く根付いていたことがうかがえます。


このような住民の信仰を前提として、水主氏は1444(文安四)年8月吉日に、「大水主社神人座配の事」を「先例に任せて」定めています。水主氏は惣官として神人の座の決定権を握ることで、「村」の住人とはちがう高い位置に立つことになります。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』では、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされたのです。
旧大内郡は、13世紀後半以降は南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせることになります。例えば、神祇信仰関係の文化財を見てみてると、国指定重要文化財だけでも次のようなものが挙げられます。


大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)
倭追々日百襲姫命坐像倭国香姫命坐像大倭根子彦太瓊命坐像外女神坐像四体男神坐像一体、木造狛犬一対

木造狛犬一対
これらは、いずれも平安時代前後のものです。この外にも、県指定有形文化財の木造狛犬一対、木造獅子頭があり、どちらも室町時代の逸品です。これらの文化遺産は、中世村落に神祇信仰の対象として偶像や神殿が造営されていく時期にちょうどあたります。香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはありません。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も隆盛を迎えていたのです。その保護者であったのが水主氏であったということになりそうです。そして、水主氏は守護であると同時に神官でもあったのです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世讃岐の国人領主 香川県史2 中世347P
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