善通寺の五岳山と大麻山の間の有岡は、古代の「王家の谷」です。神が天から下ったおむすび型の甘南備山がいくつもぽかりぽかりと並び牧歌的にも感じられます。天孫降臨の主は大麻山の頂上近くの野田野院古墳に葬られ、以下磨臼山古墳から大墓山古墳に至るまでいくつかの首長墓の前方後円墳が東から西へと一直線に続きます。この首長墓の子孫と目される佐伯氏が、古墳に変わって建立したのが善通寺であるというのが定説となっているようです。
さて、今日のお題はその首長墓たちではなく宮が尾古墳です。
この古墳は装飾古墳に分類され線刻画が石室に刻まれている古墳として有名です。装飾古墳が残っているのは四国では香川県だけのようで、七基、坂出市に四基で西讃の丸亀平野縁辺に集中しています。
この古墳は装飾古墳に分類され線刻画が石室に刻まれている古墳として有名です。装飾古墳が残っているのは四国では香川県だけのようで、七基、坂出市に四基で西讃の丸亀平野縁辺に集中しています。
その中で宮が尾古墳には、玄室奥壁の大きな一枚岩に、上から人物群・騎馬人物・多くの人が乗船した船・船団などが、玄室と羨道の西側側壁には三体の武人像が線刻されています。どれを見ても幼稚園児が書いたような絵で、発見当時は「後世の落書き」とも思われたこともあったようです。
確かに、同時期の大陸の古墳の壁画には比べようもありません。
しかし、よく見ると武人は髭を結い、腰にベルトを付けて柄頭に大きな装飾の付いた太刀を帯び、下半身はズボンのような着衣で靴を履いている様子まで、硬い岩に描き上げています。騎馬人物も馬には面繋・手綱・鞍(前輪・後輪)・鐙・障泥などが細かく描かれていて、船も何艘もあり船団を形成しているようです。今では、宮が尾古墳の線刻図は、このように数多くの情報が含まれた貴重な絵画資料と見なされ、歴史的評価も高いようです。
さて、この絵は何を物語っているのでしょうか?
いろいろな仮説が出されてきました。その一部を紹介しましょう。
時間的な推移と共に上のシーンから①→②→③→④と進みます。
仮説A 大陸からの渡来、騎馬民族征服説
①戦いで敗れた部族が部族長の死を悼んでいる②祖国を追われて船で海を越えて新天地へやって来た③新兵器の馬を連れてきて「騎馬戦術」で征服者となった④九州から瀬戸内海を経て大和に上陸し政権を樹立した=騎馬民族征服説
仮説② 高句麗・好太王との交戦説(戦前は「朝鮮討伐」として)
①高句麗・好太王との戦いの戦死者②ヤマト政権は朝鮮半島の権益拠点の加耶地方を防備のために海を越えて出兵③その際に騎馬技術を習得④多くの「戦利品」とともに凱旋」
この2つのSTORYが代表的なものでしょう。
共通するのは、朝鮮半島に深い関わりがあることを示しているのではないかということです。
近年、この絵の一番上の場面に関する興味深い説が出されています。古代の葬儀場面ではないかというのです。
最上部に描かれた人物群をよく観察してみてください。
①この場面の中心は人物群の中央に描かれた小さな家のような構造物です、②その前では二人の人物が直立し両手を大きく広げて向かい合っています。何かの儀式を行っているようです。あるいは右の人物は横たわる死体と考える研究者もいます。③その右上方には三人の人物が描かれていますが、両手は下ろしていて、そこで行われている儀礼を見守っているように見えます。
人物たちの行動の違いが描き分けられています。
この古墳の線刻画の発見後に、同じ大麻山東麓の南光古墳群や夫婦岩1号墳でも線刻画が確認されました。そこに描かれていたのは宮が尾古墳の奥壁に描かれた小さな家のような構造物でした。
善通寺の線刻画の「構造物」と同じようなものが描かれている群集墳があります。
大阪府柏原市の高井田横穴群です。
ここには横穴墓の数は162基、線刻壁画が描かれた古墳が27基もあります。壁画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまで、何を描いたのか理解できない線刻もたくさんあります。
27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳です。
玄室(げんしつ)から入口を見た場合の羡道(せんどう)の右側にあたる壁に、船から下りてくる人物が描かれています。
一番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれています。この人物は左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っています。
船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようです。
その左には「正装の人物」が描かれています。
船に乗っている男と同じ服装をしていますが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしているのが分かります。
その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいています。「船に乗る男」を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っています。
瀬戸内海を航海し難波の港に到着姿か、西に向けて出航していく姿か、どちらにしてもここにも船と航海が描かれています。
さて、ここの線刻画にも善通寺と同じように小さな家のような構造物が描かれている古墳がいくつかあります。調査報告書では、それを「殯屋(もがりや)」と想定しています。
それは古事記にも登場する喪屋とそれに伴う葬送儀礼が思い起こされます。貴人が亡くなった時その場に喪屋を立て、遺体を安置し、その場で様々な葬送儀礼が行われました。民俗事例でも墓上施設として殯屋の残存形態として様々な形状のものが報告されています。
ポピュラーな物としては、円錐形に竹や木を立てて周りを木の葉などで覆うようなものが知られています。善通寺市や高井田で見られる小さな家のような構造物の線刻画は、それに似ています。善通寺の南光古墳群の線刻では、小さな家のような構造物だけで、人物は描かれていません。
殯屋は死者を外敵から守る魔除けと、被葬者を封じる両方の性格を持っていたとされます。その効果を古墳の内部に持ち込むために、このような絵が描かれたと研究者は考えます。つまり、宮が尾古墳の壁画は殯屋とその周辺で行われた葬送儀式が描かれたものであり、善通寺市内の他の装飾古墳は、殯屋だけを描いたのではないかというのです。殯屋は細い本や竹を立てて、その周囲を縄や木の葉で覆う構造です。その竹や木にも霊力が宿ると考え、それらを壁画に描くことによって殯屋の霊的な力を石室にも持ち込もうとしたというのが「葬儀・殯屋説」です。
坂出市の樹葉文のグループの場合は、
殯屋をおおって聖なる木の葉を壁面に描くことで、石室に殯屋と同じような性格を持たせようとしたのではまいでしょうか。善通寺の南光古墳群では殯屋が中心に描かれ一部に樹葉文も見えます。坂出市の鷺ノロー号墳には樹葉文が中心に描かれ、その間に横倒しになった小さな家のような構造物の線刻も見えます。
殯屋をおおって聖なる木の葉を壁面に描くことで、石室に殯屋と同じような性格を持たせようとしたのではまいでしょうか。善通寺の南光古墳群では殯屋が中心に描かれ一部に樹葉文も見えます。坂出市の鷺ノロー号墳には樹葉文が中心に描かれ、その間に横倒しになった小さな家のような構造物の線刻も見えます。
坂出市の鷺ノロー号墳の樹葉文は殯屋?
さて、この線刻画を描いたのはだれでしょうか?
その人物もこの絵の中に描かれています。どの人物だと思いますか。
ひとり離れている一番左の人物が、この葬送儀式を執り行うシャーマンです。彼(彼女)が葬送儀礼を主導し、線刻画も描いたのです。そこには、地域毎のシャーマンの個性が表れます。同じ死生観を持ち、葬送儀礼を司るシャーマンでも、どこに重点をおいて描くのか、絵の上手下手などの「個性」があらわれ表現の違いが生まれてきます。しかし、共通の死生観や葬儀儀礼をもつ「同族」と思っていたはずです。
最後に大阪府柏原市の古墳群の中で、最も古いとされる高井田山古墳について見ておきましょう。
この古墳は横穴公園整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかったもので、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳です。石室は薄い板石を積み上げた初期横穴式石室で「近畿地方では最も古い横穴式石室」とされます。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)が出てきました。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品です。
ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんは、次のように言います
「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けています。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。そして韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」
つまりこの古墳は、6世紀頃に百済から直接畿内に渡来した首長の墓と考えられるようです。そのような氏族と同じ死生観や葬儀儀礼をもつ一族が善通寺周辺にいて、そのシャーマンが古墳の石室に線刻画を刻んだというSTORYが考えられるようです
参考文献 笹田 龍一 香川県下の装飾古墳に見られる葬送思想 香川歴史紀行所収
コメント