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牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

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神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ