Amazon.co.jp: 踊り念仏の風流化と勧進聖 : 大森 惠子: 本

念仏は呪術であり、芸能でもありました。そして念仏には「歌う念仏」と「踊る念仏」がありました。踊る念仏は死者供養で、鎮魂呪術としての機能があったようです。それを一遍の踊り念仏で見ていくことにします。テキストは「大森恵子  信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。
『一遍聖絵』は、始めて踊り念仏が踊られたときのことを次のように記します。
(信州)小田切の里或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。(略)心工の如来自然に正覚の台に坐し、己身の聖衆踊躍して法界にあそぶ。

ここには弘安二年(1179)に、信州小田切の里で、始めて踊り念仏が踊られたと記されています。そのシーンを見てみましょう。


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信州小田切の武士の舘(始めて踊り念仏が踊られたシーン)

①武士の屋形の縁先で、勧進を受けた一遍が鉢を叩いて囃子をとり、
②庭で法衣を着けた時衆(11人)と武士(2人)が、 真ん中の2人を中心にして輪になって、踊り念仏を行っている
③回りの人達が鉢や鉦を叩いたりして、囃をとる者
④囃子に合わせて手拍子を打つ者が、激しく足踏みをしながら円形に進んでいる。
⑤踊り念仏の輪を囲むように俗人の男女が 一心に手を合わせている
場面に描かれた人々は、みんな目をを大きく開けていて、念仏を詠唱しながら跳躍乱舞しているように見えます。

同じシーンを『一遍上人絵伝』で見ておきましょう。

小田切 一遍上人絵伝

踊りの輪の真ん中で合掌している一遍(顔が赤い)と、その周囲を両手を合わせて激しく跳躍する時衆の徒が対照的に描き分けられています。ここは武士の舘の庭先です。そこには、まだ「踊り屋(ステージ)」は登場していません。
 武士など権力者の家の庭で、時衆聖が勧進を目的として踊ったものは「庭念仏」「庭躍」「入庭」「庭ほめ」などと呼ばれていました。それが時代とともに風流化が進み、風流太鼓踊りの「入庭」とか「入羽」「いりは」、あるいは「出庭」「出羽」「でにわ」などの踊り曲に変化していくようです。確かに、私の里の綾子踊りにも「入廷」という言葉が今でも使われています。

一遍は、阿弥陀仏への信仰を説き、念仏の功徳を強調しました。
彼は念仏を広めるために北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続け、別名「遊行上人」とも呼ばれます。一遍の宗教的なねらいを研究者は次のように考えています。
①熊野信仰と阿弥陀信仰の融合
②元寇という危機的状況打開のために阿弥陀如来(本地仏)をとおして八幡信仰と熊野信仰をも融合し、民衆を教化
一遍や時衆聖たちが、各地の八幡社へ参詣し、詠唱念仏を唱えたり踊り念仏を修しているのは、元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的だったというのです。

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「京都四条京極釈迦堂」
『一遍聖絵』や『一遍上人絵詞伝』で念仏踊りが踊られている場面が描かれているのは次の通りです
②「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」
③「大津の関寺」
④「京都四条京極釈迦堂」
⑤「二条非田院」
⑥「丹後国久美の道場」
⑦「淀の上野」
⑧「淡路一之宮社頭」

②の「鎌倉片瀬の浜の地蔵堂」を見ておきましょう。
鎌倉片瀬の浜の地蔵堂

ここでは、土の上ではなく道場に設置された踊り屋(ステージ)のなかで踊られています。胸に鉦鼓を吊して足で強く板を蹴り、左回りに旋回する時衆聖たちの姿が描かれています。

踊り念仏は、何のために踊られたのでしょうか?
①時衆聖たちが修行目的から、 一心不乱に踊り念仏を修している
②他人に頼まれた種々の祈願のために、彼らが踊り念仏を行っている
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二条非田院( 一遍聖絵)

多くの見物人が周りに描かれています。踊り念仏は自身の悟りを得るために跳躍乱舞する宗教的行道から、人に見せるという目的が加わって、宗教的芸能の要素を強くおびていったと研究者は考えています。どちらにしても踊り念仏は、時宗聖の勧進活動の一手段だったことが分かります。時衆が急速に信者を獲得した理由のひとつは「踊る念仏僧」というダンスパフォーマンスにあったようです。

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淡路二宮
  「踊り屋」には宗教的な意味もあった
 最初に見た信州小田切で、踊り念仏が踊られ始めた時には、「踊り屋(ステージ)」は描かれていませんでした。ところが②の鎌倉片瀬の浜では、「踊り屋」が登場するようになります。その理由については『一遍聖絵』は、何も触れません。現在の野外コンサートでも同じですが、大勢の人々を集めて踊り念仏を催す場合は、全ての人の目に踊る姿を見せることが求められます。そこでステージ(踊り屋)を組んで高い位置で踊るようになったと研究者は推測します。
 ただ踊り屋はステージというだけの存在ではなかったようです。屋根と柱で仕切られた空間である踊り屋は、死者供養を行う聖地、あるいは祭場と信じられていた節があるというのです。
信州佐久郡の大井太郎の屋敷
大井太郎の屋敷から引き上げる一遍一向 (一遍聖絵巻5)

この場面を詞書は、次のように記します(意訳)
弘安二年(1278)冬、信濃国佐久部に大井太郎という武士がいた。偶然にも一遍に会って、発心して極楽往生を願っていた。この人の姉は、仏法にまったく関心がなかった。が、ある夜に夢をみた。家のまわりを小仏たちが行通している。中に背の高い僧の姿がある。そこまでで夢から覚めた。さっそく陰陽師を呼んで、吉か凶かと占わせた。むろん、吉と出た。そこで、一遍を招いて、三日三晩の踊り念仏の供養を行なった。集まった人々は五、六百人にも及んだという。
 踊りが終わった後、家の板敷きは抜け落ちてしまった。しかし、主人はこれは 一遍の形見だとして、修理もしないで、そのままにして大切に保存した、という。
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    集団の先頭で頭巾を被り、数珠をまさぐりながら帰って行くのが一遍です。その後には、激しい踊りパフォーマンスの興奮と満足感でで、さめやらない集団が続きます。ある意味では夢遊病者のようで、「新しい学校のリーダー」のコンサート会場から出てくるファンたちと同じかも知れません。

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  踊り念仏が奉納された家では、紺色の狩衣の主人の大井太郎が手をあげて見送っています。縁台を見ると、簀の子板が踏み外されています。それほど激しい踊りが行われたことがうかがえます。これも宗教的な意味があると研究者は次のように指摘します。P1240548
踏み外された簀の子板

床や大地を足で激しく強く踏み鳴らすことを「だだ(反閑)を踏む」というようです。
これによって、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送することが西大寺の裸祭などの原型だったことは以前にお話ししました。地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのも悪魔祓いです。東大寺のお水取の場合は「ダッタソ」と発音するそうです。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。これが西大寺の裸踊りの起源です。一遍の念仏踊りとつながるところがありそうです。
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⑦「淀の上野」

 板張りの床の上で激しく跳躍すれば「ドンドンドンドン」と大太鼓を乱打するような音がします。この音が悪霊や死霊を鎮める呪力をもつと信じられたようです。

以上をまとめておきます
①踊り念仏が始まった頃は、踊り屋(ステージ)はなく、四股を踏むように大地を激しく踏み込んだ踊りが行われたいた
②それは、崇りをなす悪霊・死霊を鎮め祀り、常世(あの世)へ鎮送するパフォーマンスであった。
③それが屋内の板の間で激しくおどると大きく反響し、新たな陶酔感を与えるものとなった。
④踊り念仏に集まる人達が増えると共に、ステージとして踊り屋が設けられるようになる。
⑤踊りはステージでもあり、音響施設でもあり、宗教的な意味合いももつものでもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献