讃岐国名勝図会表紙
讃岐国名勝図会(前編5巻 大内~香川東)
 讃岐の幕末の様子が絵図で分かる資料として、私が重宝しているのが「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854)刊行)です。 国立公文書館のデジタルアーカイブで、自由に閲覧でき拡大縮小も思いのままです。見ていると時間を忘れそうになります。しかし、三豊や善通寺など多度郡のエリア部分はでてきません。どうしてなのだろうと思っていたときに出会ったのが「田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷」 満濃池名勝調査報告書111P」です。今回は、これをテキストに「讃岐国名勝図会」の成立過程を見ていくことにします。

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讃岐国名勝図会
この書の成立・刊行に至る経過は次の通りです。
①編者は高松藩の梶原藍水で、父・藍渠が既に書いていた「讃岐志」など9冊などの讃岐国地誌類を集大成して「讃岐国名勝図会」をあらわした。
②「讃岐国名勝図会」は、讃岐国名所「名跡」、「名勝」を挿絵入りで、前編・後編・続編の三部構成で紹介したものである。
③挿絵の大部分は、巻一の表紙見返真景「松岡信正(調)」とある。
④挿絵には、讃があり、詩文が添えられています。
⑤前編は刊行されたが、後編・続編(多度・三野・豊田郡)については未完であった。

増補改訂 讃岐人名辞書 復刻讃岐叢書・続 讃岐人名辞書 計2冊(梶原竹軒監修 草薙金四郎監修 ・磯野実編集) /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

『讃岐人名辞書』(第二版 1928年)には、梶原藍渠・藍水父子について次のように記します。

藍渠の名は景淳。宝暦12年(1762)生まれ。高松の商家柵屋の出で歴史に通じ、高松藩主頼恕のとき士分に取り立てられ、藩の史局考信閣の学士として、国史の編纂事業に従事した。一方で、讃岐国内の名勝志編纂を企て、「讃岐国名勝図会」の刊行を目指したが、天保5年(1834)病没した。
 藍水の名は景紹。藍渠の第4子で後を継いだ。父の任を継いで考信閣出仕となり国史編纂に従事した。その一方で、父の遺業を継ぎ「讃岐国名勝図会」を完成した。明治初年(1868)没。その子は泉太郎という。

梶原家は藍渠・藍水・泉太郎と高松藩の歴史編纂に携わる家系であったことを押さえておきます。

「讃岐国名勝図会」巻五の末尾

 嘉永7年(1854)に刊行された「讃岐国名勝図会」巻五(前編)の末尾(上写真)には次の広告があります。
 真景 ①松岡信正
 讃岐國名勝圖會前編 七冊 大内 寒川 三木 山田 香川東上 五郡
 同      後編 八冊 香川東西 阿野郡北南 鵜足 那珂 四郡
 同      続編 五冊 多度 三野 豊田 三郡
最初に「真景 ①松岡信正圖」とあり、挿絵を担当した人物です。
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讃岐国名勝図会 松岡調による挿絵
「松岡信正」とは、松岡調が若い頃に名のっていた名前だそうです。松岡調は国学者で、志度の多和神社に婿入りし、讃岐における神仏分離推進の中心人物だったことは以前にお話ししました。彼は金毘羅大権現を金刀比羅神社へと様変わりさせた人物で、金比羅宮祢宜、後には田村神社宮司を勤めています。著書に「新撰讃岐国風土記」・「讃岐国官社考証」などもあります。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
 
 このページからは、もともとは前・後・続の3部作として出版が予定されていたことが分かります。ところが刊行されたのは前編だけで、後は明治になるまで刊行されなかったようです。そして、草稿本が国立文書館や坂出の鎌田資料館などに所蔵されているようです。

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「真景 ①松岡信正圖」と記された讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会が国立公文書館に保管されるようになった経緯を見ておきましょう。
 明治初年に樫原藍水が亡くなります。後編は未完のままで原稿が、その子泉太郎に託されます。和太郎は父の残した原稿の校正を続けますが公刊の見通しはたたなかったようです。そうした中で明治6年(1873)7月、泉太郎は、明治政府による皇国地誌の編さん事業に貢献するために、「讃岐志」とともに讃岐国名勝図会後編の原稿を献納します。泉太郎は書籍の代金は不要だと、無料で国に献納すると申し出ます。これに対して太政官では「奇特のことである」として賞金10円を下賜します。その際に、本の献納を受けた政官地誌課では受け入れのための議案書を作成しています。そこには「讃岐志」と「讃岐国名勝図会」について、次のような評価が記されています。

 讃岐志九冊、旧高松藩梶原藍渠編輯、一国の全志に候こと讃岐国名勝図会続篇八冊、藍渠子梶原藍水編輯、前編はすでに刊行相なり、本書は、まったく板下にて書中図面等、ゆくゆく上梓候ところもこれあり。殊勝の書籍にていずれも世上伝本これなく候こと

ここからも、献納された前編については「刊行相なり(刊行済み)であること、今回献納された分(後編)は「まったく板下(草稿)」であり、将来的には刊行が予定されているが、世間上では手に入らないものであったが分かります。
  ここでは国立公文書館蔵の後編6巻8冊は、献納される明治6年(1873)7月までは、旧高松藩士で藍水の子である梶原泉太郎が所蔵していたことを押さえておきます。

 後編トップの巻六の冒頭には、次のように河田興(迪斎)の序が記されています。
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              讃岐国名勝図会 後編巻頭(河田興(迪斎)の序) 
河田興は、讃岐出身の儒者で昌平黌の教官として当時は著名だったようです。その年紀を見ると「安政四年(1857)丁巳平月下淀(12月下旬)」です。ここからは、藍水は前編につづけて後編を刊行する予定で、準備を進めていたことがうかがえます。しかし、後編の出版チャンスは生まれなかったようです。そして明治初年に藍水は亡くなります。その意志を継いで子・和太郎によって編集が続けられていたことは先に述べたとおりです。
 続篇3巻(多度・三野・豊田郡)は、国立公文書館の蔵本に含まれていません。つまり、この時には献本されなかったようです。 明治6年(1873)の国への献本の際には、出来上がっていなかったのかもしれません。とすると、讃岐国名勝図会の続編部は明治6年以後に和太郎やその子息によって脱稿したのかもしれません。

大正11年建立の見事な建物 - 坂出市、鎌田共済会郷土博物館の写真 - トリップアドバイザー
鎌田共済会郷土博物館
 続編については、坂出の鎌田共済会郷土博物館に昭和4年(1929)に写されたの写本が保管されています。その表題と書写奥書には次のように記されています。   
(十三巻)
    讃岐國名勝圖會草稿 多度郡 十三 上下
    昭和四年十二月二十日写 原本竹内コハル氏蔵
(十四巻)
    讃岐國名勝圖會草稿 三野郡 十四 上下
    昭和四年十二月二十日写 原本竹内コハル氏蔵
(十五巻)
    讃岐國名勝圖會草稿 豊田郡 十五
    昭和四年十二月写 原本梶原猪之松氏保管

 原蔵者の竹内コハルは、『日本名所風俗図会』収録の『讃岐國名勝図会』解説によれば、綾歌郡羽床村在住。梶原猪之松は、昭和5年(1930)に刊行された『古今讃岐名勝図会』の補訂兼発行者となっている梶原猪之松(竹軒)のようです。
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讃岐国名勝図会 那珂郡下 金刀比羅神社

以上をまとめておくと
①讃岐国名勝図会は、父樫原藍渠の「讃岐志」9冊などを、その子の藍水が「讃岐国名勝図会」前編・後編・続編の三部作として公刊予定であった。
②「讃岐国名勝図会」は、讃岐国名所「名跡」、「名勝」を挿絵入りで紹介したもので、挿絵は後の金毘羅神社禰宜の「松岡信正(調)」によるものである。
③前編8巻は嘉永7年(1854)に刊行されたが、後編・続編(多度・三野・豊田郡)については未完のまま明治を迎えた。
④未刊行だった後編は、明治6年(1873)7月、藍水の子である梶原泉太郎が、明治政府に貢献した。これは後に、公刊された。
⑤しかし続編は(多度・三野・豊田郡)については未完で、坂出の鎌田博物館に原稿のままで保管されている。
4344104-07金毘羅大権現 本殿 讃岐国名勝図会
金刀比羅神社本殿(讃岐国名勝図会)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献