瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

第十四回 史談会へのお誘い
明治の讃岐近代シリーズ  第十一師団の創設物語
 なぜ、善通寺に、出征、讃岐はどうなった
四国の精兵と謳われて、敵前上陸の専門史談だった。乃木希典を初代として、白川義則、沖縄戦の牛島満などの将星を師団長に迎えている。どこに出征し、どのような転戦をして、終戦時にはどうなっていたのか。師団が創設されて善通寺はどうなり、讃岐が受けた経済社会への影響は如何なるものか?また四国各県への波及にも関心が向かう。近代国家に不可欠な陸海軍の近代化における意義を探究したい。
 日時  1月18日(土)夕刻5時~7時
 会 場 四条公民館(まんのう町)
 講 師 大河内義雅 善通寺市文化財保護協会会長
 資料代  ¥200―  申込は無用
 問合先  shiyabaketa@mc.pikara.ne.jp
興味と時間のある方の参加を歓迎します。

滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
上の滝宮の念仏踊りに参加していたまんのう町の風流踊組の主演者一覧表を見ると、真野・小松・吉野の郷の村々からの出演者によって分担されていたことが分かります。その総数は二百人を越える大部隊でした。今回は、出演者達がどんな人達だったのかを見ていくことにします。
 表で岸上村の分担人数を見ると「笛吹1・地踊5・鉦打7・棒突2・鑓5・旗2 計22名」となっています。
幕末の岸上村の庄屋・奈良亮助が残した文書には、この時の担当氏名が次のように記されています。

一、笛吹 朝倉石見(久保の宮神職)

一番最初に登場するのは笛吹で、久保の宮宮司が務めています。そして地踊については、次のように記されています。
①一、地踊          彦三郎
②一、同  古来仁左衛門株  助左衛門
③一、同  宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
②については本来は、仁左衛門が持っていた株だが、その権利で今回は助左衛門が出演するということのようです。③は宇兵衛が譲渡した株を熊蔵が手に入れ出演するということでしょう。この史料からは、誰でも出演できたわけではなく、それぞれの家の権利(株)として伝えられてきたことが分かります。つまり、世襲制で代々、決められた役を演じてきたようです。
 一方で、旗・鑓・棒突については、次のように記されています。
一、旗   二本 社面と白籐
一、長柄鑓 五本
一、棒突  三本 
ここには、出演予定者の名前がありません。旗・鑓・棒突については、「人夫」に任せていたので出演予定者名がないようです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神(三島神社)に奉納された念仏踊

 七箇村念仏踊は、夏祭りに踊られる風流踊りで祭礼・娯楽でした。それが各村々の神社をめぐって奉納されたのです。芸司や子踊り・時踊り・笛吹きは、それを演じる村の有力者が、その地位を誇示するという中世以来の宮座に通じる意味合いももっていました。奉納される神社の境内は、村の身分秩序の確認の場であったことになります。
DSC01883
境内での風流念仏踊りを見物する人々。立ち見席の後ろには、見物桟敷が建てれている。これも宮座の有力者の所有物で、売買の対象にもなった。ここで風流踊りを見物できることがステイタスシンボルでもあった。

 なぜ七箇村念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか?
 それは有力者達だけで踊られる風流踊りが、時代に合わなくなってきたからでしょう。幕末になって発言権を高めた農民達は、自分たちも祭りに参加することを求めます。そして、誰もが平等に参加できる獅子舞や太鼓台(ちょうさ)を秋祭りに登場させるようになります。その結果、有力者達だけで演じられてきた風流踊は奉納されなくなります。そんな中で、近代になって七箇村風流踊を綾子踊りとしてリメイクしたのが佐文なのではないかと私は考えています。そうだとすれば、綾子踊りは七箇村風流踊を継承したものだということになります。
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年
関連記事


コメント

コメントフォーム
記事の評価
  • リセット
  • リセット

このページのトップヘ