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二宮公園と飛行神社(まんのう町樅木峠道の駅)
二宮忠八は伊予八幡浜の生まれで「郷土の偉人」という訳ではないのですが、樅の木峠の道の駅に併設された二宮公園に銅像が建っています。
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二宮忠八と飛行神社
銅像は昭和61(1986)年に建てられたものです。

二宮忠八碑文除幕式
二宮忠八の石碑除幕式(大正15年3月7日)本人は右から3番目
それに先だって、大正時代に石碑が建てられています。上部に「魁天下(天下にさきがける)」と大きくきざまれています。そして、建立経過が次のように記されています。
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二宮忠八の石碑

二宮忠八碑文
魁天下 
従二位勲一等子爵・石黒忠恵による題額
 二宮忠八君は伊豫八幡の出身で、陸軍看護兵として、明治22(1889)年11月に演習からの帰路この地で昼食をとった。その際に、烏の群れが羽ばたきもせずに滑空して弁当柄に集まるのを見て、軍用飛行機の着想を得た。明治二十七年に空中滑走器を自作し、その飛行実験に成功した。これはライト兄弟が飛行機を完成させる数年前のことである。まことに我同胞の名誉である。よって石碑を建て長く後世に伝えるものとする。
   大正十四年九月十七日
香川縣仲多度郡十郷村長王尾金照
香川縣三豊郡財川付長
建設委員 従六位勲五等澤原貞吉
ここからは、讃岐山脈で行われた演習からの帰りに、ここで「軍用飛行機の着想」を得たのを記念して石碑が建てられたことが分かります。
二宮忠八写真
二宮忠八夫婦
二宮忠八の年譜を見ておきましょう。
1866(慶応二)年6月29日 愛媛県八幡浜市矢野町八幡神社下に生まる。
1878(明治11)年(13歳) 親の事業失敗で、家産が傾き古着屋に丁稚奉公。
14歳で活版屋の小僧。15歳で薬屋奉公。16歳で物理、化学の研究をして、凧を制作して書籍代をかせぐなど、いろいろな丁稚奉公などを行いながら向学心を失わず。
1887(22歳) 丸亀連隊に入隊し、陸軍看護兵に
1889(24歳) 演習帰路に樅木峠でカラスの滑空するのを見て飛行原理を着想。
1891(26歳) 丸亀練兵場でゴム動力のカラス型模型機飛行実験に成功(飛行距離30m)
1893(28歳) 虫型棋型機を作成。
1896(31歳) 軍上層部に軍用飛行機試作を再度上申するも却下。
1904(38歳) ライト兄弟が飛行に成功。忠八は制作中の飛行器の枠組みをハンマーで破壊。以後は、製薬の仕事に没頭し、大阪製薬株式会社を設立し局方塩の製造開始
1906(40歳)大日本製薬本社支配人に就任
1914(大正3)年 (49歳) 第一次世界大戦において飛行機がはじめて実戦参加。
1919(54歳) 白川義則大将に発明の功が認められ、後に通信大臣から表彰。
  1926(大正15)年(61歳) 記念碑完成除幕式。自宅に飛行神社を祀り、宮司となって奉仕。
1936(昭和11)年4月9日 71歳で京都府八幡市で死去。
1937   飛行機発明の元祖として国定教科書に収載
1966(昭和41)年1月 国道32号線改修の際に、追上地区住民により現在地に移転整備。
1986(昭和61)年 銅像建立
ここからは、20歳台に丸亀で行った飛行実験などは、世間に知られることがなかったことが分かります。その風向きが変わるのは、第一次世界大戦で飛行機の有効性が軍部に認識されるようになって以後です。「日本における飛行機開発の魁け」として、軍部が取り上げ、いくつもの表彰を得て認知度が高まっていきます。そして、大正15年に樅の木峠に記念碑が建立されることになったようです。銅像が建てられたのは、約60年後の昭和61年になるようです。
  こうしてみると大戦前には二宮忠八は「大日本帝国の発明家」として教科書にとりあげれた有名人でした。それが戦後は「国威発揚」を担った人物として、あまり取り上げられなくなったようです。

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二宮飛行神社の鳥居
ウキでは、二宮忠八の現在の評価を次のように記します。

  実際にはゴム動力の模型飛行機はフランスで1871年にすでに製作され飛行しているにもかかわらず「飛行機の真の発明者」「世界で最初に模型飛行機を製作」と報じる等、忠八の研究活動や航空史の流れを全く理解していない例も散見されたり、情報や認識が錯綜している。また忠八の作った航空機は人力航空機で、動力航空機とはかけ離れており過大評価されているとの意見もある。その活動について、安定した評価は形成されていない。

「初期の飛行機事故で亡くなった人を祀る航空神社を京都府綴喜郡八幡町に建立した飛行機の好きな薬業関係の経済人。」
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二宮忠八とカラス型飛行機

石碑建立時に、二宮忠八は金500円を奨学資金として、十郷小学校に寄贈しています。
これは現在の金額にすると約400万円に相当します。これを受けて、十郷小学校(後の仲南北小学校)では次のような活動を行ってきました。
①利息金で毎年度末優良児童に「二宮賞」を授与。
②仲南北小学校の子供会は「魁(さきがけ)子供会」→「天下に魁ける」
③模型飛行機作成が夏休みの宿題。2学期の始業式の後で、飛行時間測定会。
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二宮忠八顕彰碑の地元子供会による清掃活動

私も仲南小学校に1960年代に通っていました。その時に結成された仲南北子供会の名称は「魁け子供会」でした。夏休み中に作成した模型飛行機を2学期の始業式の後に、校庭で飛ばして飛行時間を競い合いました。NHKが取材に来たときには、樅の木峠まで全校生が歩いて行き、峠の岡の上から模型飛行機を飛ばした時もありました。私の中では「二宮忠八=模型飛行機=飛行機の魁」として深くインプットされました。
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二宮公園整備記念碑(昭和41(1966年)

  最後に今回巡礼した3人の銅像の現在を振り返って起きます
①山下谷次銅像が1938年に大口小学校に建立され、1984年に仲南中学(現小学校)に移築
②増田穣三銅像が1937年に七箇村役場に建立され、1963年に塩入駅前に移築
③二宮忠八石碑が1926年に樅木峠に建立。銅像建立は、1986(昭和61)年。

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成績優秀者に授与された二宮賞
  3つの銅像を巡礼して思うのは、二宮忠八の石碑や銅像の周辺整備のよさです。これを二人の政治家の銅像周辺と比べると一目瞭然です。この差は何からきているのでしょうか。考えられる事は、二宮忠八については、先ほど見たように地元小学校への奨学金補助や、追上地区へ謝礼金など、石碑建立時から地元の子供や住民の協力関係を築き続けてきました。ただ石碑を建てただけでなく、後のフォローがなされてきたことです。

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二宮忠八銅像建立の記
例えば、銅像建立の呼びかけ人は「二宮忠八顕彰会・二宮忠八賞受賞者の会」となっています。つまり、長年の中で支援者達を地域に育んできたのです。それが、銅像建立の際に、資金集めに大きな力となっていることがうかがえます。

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飛行公園移転・整備記念碑(平成23年)

銅像を建てることも大変だけれども、それを維持していくのもなかなか大変なことだと思うようになりました。以上で、仲南の三人の銅像巡礼報告を終わります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。