前回は17世紀末に高松藩で作られた寺院一覧表「御領分中寺々由来書」の東西本願寺の本末関係を見ました。この書では真宗の各派の順番は、西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順になっています。今回は、真宗興正寺の本末関係を見ていくことにします。由緒書きを省略して本末関係に絞って一覧表化したのが次の表です。
ここからは、つぎのようなことが分かります。
高松藩の興正寺末寺(御領分中寺々由来書)
ここからは、つぎのようなことが分かります。
①(48)「代僧勝法寺」がトップに位置します。
この寺が現在の高松御坊(高松市御坊町)になります。高松藩藩祖の松平頼重が大和国にあった寺を讃岐に持ってきて、高松の寺町に高松御坊・興正寺代僧勝法寺(高松市御坊町)を再建(実質的な創建)します。これが、京都興正寺の触係寺として大きな役割を果たすようになることは以前にお話ししました。高松藩の興正寺末寺の管理寺院ともいえる寺なのでトップに置かれるのは納得できます。


高松御坊(勝法寺)と付属の3寺(讃岐国名勝図会)
興正寺代僧勝法寺の周辺に、寺中が三ヶ寺置かれます。勝法寺が大和からやってきた寺で、讃岐に地盤がなく政治力もなかったので、その支えのために常光寺や安養寺の末寺がその周囲に配されます。そのうちの(49)覚善寺は、常光寺(三木郡)末、(50)西福寺は安養寺(香東郡)末、(51)徳法寺は覚善寺末(常光寺孫末)です。そのため本寺から離れて勝法寺に続けて記載されています。 どうして松平頼重は、興正寺を特別に保護したのでしょうか?
それは松平頼重と興正寺住職との間の次のような婚姻関係に求められます。
①興正寺18世門跡准尊の娘・弥々姫が、松平頼重の父頼房(水戸藩初代藩主)の側室に上っていたこと②自分の娘万姫が20世門跡円超の養女となり、のち円超の四男寂眠と結婚したこと
このような婚姻関係があったために松平頼重は興正寺に強く加担したと研究者は考えています。そのため「御領分中寺々由来書」では、興正寺と西東本願寺は、並列関係に置かれています。興正寺の扱いが高いのです。
松平頼重は京都の仏光寺とも深い関係にありました。
そのために仏光寺の末寺を藩内に作ろうとします。「常光寺記録」には次のように記されています。
そのために仏光寺の末寺を藩内に作ろうとします。「常光寺記録」には次のように記されています。
松平頼重は讃岐にやってくると、まず常光寺から末寺の専光寺を召し上げた。専光寺は末寺を13ヶ寺ももつ寺であったが、この末寺13ヶ寺も合わせて差し出せ言って来た。常光寺は、それを断って3ヶ年の間お目見えせず無視していた。あるとき、頼重は「常光寺の言い分はもっともだ」と言って13ヶ寺を常光寺へ返えしてくれた
どうして専光寺を差し出せと常光寺に要求したのでしょうか?
ここにも頼重と、仏光寺の姻戚関係がからんできます。松平頼重は延宝2(1674)年7月、興正寺19世准秀の息子・雄秀(実は弟)を養子として、10月に高松へ迎え、11月には仏光寺へ入室させています。つまり、松平頼重頼重の子(養子)が仏光寺の第20世の随如となったのです。随如は法号を尭庸上人といい享保6年に81才で没しています。頼重は自分の養子となった随如が仏光寺門跡となったのに、讃岐に仏光寺の末寺がないのを遺憾に思い、常光寺から専光寺を取りあげて仏光寺末にしたというストーリーを研究者は考えています。どちらにしても後に現れる仏光寺末寺は、高松藩の宗教政策の一環として政策的に作り出されたもののようです。「由来書」の項目には、仏光寺末寺はありません。高松藩に仏光寺末寺は、もともとはなかったのです。
ここにも頼重と、仏光寺の姻戚関係がからんできます。松平頼重は延宝2(1674)年7月、興正寺19世准秀の息子・雄秀(実は弟)を養子として、10月に高松へ迎え、11月には仏光寺へ入室させています。つまり、松平頼重頼重の子(養子)が仏光寺の第20世の随如となったのです。随如は法号を尭庸上人といい享保6年に81才で没しています。頼重は自分の養子となった随如が仏光寺門跡となったのに、讃岐に仏光寺の末寺がないのを遺憾に思い、常光寺から専光寺を取りあげて仏光寺末にしたというストーリーを研究者は考えています。どちらにしても後に現れる仏光寺末寺は、高松藩の宗教政策の一環として政策的に作り出されたもののようです。「由来書」の項目には、仏光寺末寺はありません。高松藩に仏光寺末寺は、もともとはなかったのです。
常光寺の本末関係
(56)の常光寺(三木町)は、真宗興正派の讃岐教線拡大に大きな役割を果たした寺院です。
常光寺の部分を拡大してみておきましょう。ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は高松藩に45ヶ寺の末寺・孫末寺があった。これに丸亀藩分を加えるとさらに増えます。
②東本願寺の寺院分布が高松周辺に限定されるのに対して、常光寺の末寺は、仲郡にまでおよぶ。
興正寺の本末表を見ての第一印象は、西東本願寺に比べて複雑なことです。
直末のお寺の間に、(56)常光寺や(97)安養寺などの多くの末寺をもつ「中本寺」があります。常光寺の末寺である(70)専光寺(香東郡)や善福寺(南条郡)もその下にいくつかの末寺をもっています。これは興正派の教線拡大の拠点時となった安養寺や常光寺の布教活動との関連があるように私は考えています。このふたつの寺院は、丸亀平野や三豊平野に拠点寺院を設け、そこから周辺への布教活動を展開し、孫道場を開いていき、それが惣道場から寺院へと発展するという経緯を示しめすことは以前にお話ししました。

西本願寺には『木仏之留』という記録が残っています。
これは末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため『御影様之留』という記録に、下付する御影の裏書を書き写したものです。「寺々由来書」の真宗寺院のうち「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など22ヶ寺です。そのうち寛永18年8月25日に木仏の下付を受けた宇多郡クリクマノ郷下村明源寺」は、その後の記録に出てこない謎の寺ですが、他はその後の消息がたどれます。例えば常光寺を見てみると、寛永17年正月15日に木仏を授与されたことが裏書(本願寺史料研究所所蔵「常光寺史料写真」)にから分かります。しかし、西本願寺側の寛永17年の「木仏之留」は、今のところ見付かっていないようです。両方があると、裏がとれるのでより信頼性が増すことになります。
「木仏之留」の記事と、「寺々由来書」の由緒書は、どんな風に関わっているか?
両書の記事が一致する例として、(68)常光寺末の常満寺(三木郡)があります。
『木仏之留』釈良如―寛永一八年十巳八月十六日願主常満寺釈西善右木仏者興正寺門徒常光寺下 讃州三木郡平本村西善依望也 (取次)大進
『寺々由来書』一 開基寛正年中西正と申僧諸日一那之以助力建立仕候事一 寺之證檬者蓮如上人自筆六字之名号丼寛永年中木仏寺号判形共二申請所持仕候事
由来には寛永十八年八月十六日という日付はありませんが、寛永年中として抑えています。これと同じような例が残る寺としては、次の寺が挙げられます。
西本願寺末 山田郡源勝寺興正寺末 安養寺末山田郡専福寺興正寺末常光寺末 専光寺末三木郡福住寺同末同郡 信光寺阿州東光寺末大内郡善覚寺阿州安楽寺末宇足部長善寺(まんのう町勝浦)
同末同郡 慈光寺
22ヶ寺の中で、15寺までは木仏下付のことを寺の證拠として挙げていて、8ヶ寺までは授与された年代も正確に伝えています。下付された各末寺と、下付した側の本願寺の記録が一致するということは、「寺々出来書」の由緒の記事は、ある程度信頼できると研究者は判断します。
安楽寺の末寺(寺々由来書)
『寺々由来書』を見て、不思議に思うのが阿波の安楽寺が興正寺の末寺に入っていないことです。安楽寺は、興正寺から独立した項目になっています。高松藩の安楽寺の末寺については、以前に次のように記しました。
①美馬の安楽寺から三頭峠を越えて、勝浦村の長善寺や炭所村の尊光寺など、土器川の源流から中流への教線拡大ルート沿いに末寺がある。
②長尾城跡の周囲にある寺は、下野後の長尾氏によって開かれたという寺伝をもつ。
③地域的に、土器川右岸(東)に、末寺は分布しており、左岸に多い常光寺の末寺と「棲み分け現象」が見られる。
④(123)超正寺は、現在の超勝寺
この本末関係図に、安養寺が含まれていないのはどうしてでしょうか。安養寺の寺伝には、安楽寺出身の僧侶によって開かれたことが記されていることは、以前にお話ししました。しかし、ここでは安養寺は安楽寺末寺とはされていません。安養寺が安楽寺から離末するのは18世紀になってからです。
以上、まとまりがなくなりましたが、今回はこれで終わります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
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まんのう町尊光寺 真宗興正寺派の教線が讃岐へ伸びてくるのは16世紀半ば以降だった。
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