崇徳天皇(すとくてんのう)とは - コトバンク

瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 
           われても末に あわむとぞ思ふ
 この歌は「小倉百人一首」の一首で、今は渓谷の瀬が大きな岩によって分け隔てられている。しかし、引き裂かれた二人も未来には会えるときがきっと来ると歌った恋歌と言われます。この歌の作者こそが、後に大魔王と称されるようになる崇徳院なのです。
この落差はどうして生まれたのでしょうか?
 中世になると、強い怨念を持って死んだ者が天狗になるという考え方が生まれて来ます。
仏教の悪魔的存在の魔縁も、怨霊の化した天狗と見なされるようになります。『保元物語』(鎌倉初期)によると、崇徳院は怨念の為に、経文に血で呪文を記し、生きながら天狗となったといいます。日本の怨霊を語る際に、トップバッター的な存在が崇徳上皇なのです。彼は
「日本内乱を司る荒ぶるる禍御魂」
「天下大乱を画する天狗評定の主催者」
「本邦の魔を統べる大魔王」
というキャッチフレーズで語り継がれていくことになります
E2 天狗になった天皇. - 日本の伝説 異界展
 いったい彼に何が起きたというのでしょう。
 崇徳院は、父の鳥羽上皇から疎まれ不遇の時を過ごします。というのも母は鳥羽院の皇后璋子ですが、伝説では実は崇徳院は鳥羽院の子ではなく、待賢門院と白河院との子で、そのため鳥羽院は彼を「叔父子」と呼んだとされます。
鳥羽上皇と崇徳天皇の対立 | 日本の歴史 解説音声つき
このようなことから崇徳院は、異母弟である後白河天皇との対立し、保元の乱を起こします。そして敗北し、讃岐に流されるのです。せめて、自らが写した経典だけでも都へ帰して欲しいと大乗経を都へと送るのですが、後白河方によって突き返されてしまうのです。
 それもそのはず、崇徳院は、五部大乗経を血書で写経していたのです。
 崇徳院からすれば心底からのお詫びをしめしたものだったのかもしれませんが、宮廷では恐れ怪しみます。五部大乗経の写経は絶大な功力があるとされ、本職の僧侶でさえ一部でも読破すれば、満貫の難解長大な経典といわれ、五部全て写経すれば願うこと適わざることなきとされる霊験現かなお経だったようです。
 これは何かの呪いではないかと疑われたのは当然といえば当然でしょう。
「後世のためにと書きたてまつる大乗経の敷地をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、われ生きても無益なり」
と絶望した崇徳院は髪も爪も切らず、生きながら凄まじき姿へと変貌します。そして、崇徳上皇は
「日本国の大魔縁となり、皇(すめらぎ)を取って民となし、民を皇となさん」

と、舌の先を食いちぎり、その血を以て大乗経に呪詛の誓文を記して海に沈めたたのです。
 その様子を『源平盛衰記』は
柿の御衣の煤けたるに、長頭巾を巻きて、大乗経の奥に御誓状を遊ばして、千尋の底に沈め給う。 その後は御爪をも切らせ給わず、御髪も剃らせたまわで、御姿を窶し悪念に沈み給いけるこそおそろしけれ」
と記し、『保元物語』は
「生きながら天狗の姿にならせたもうをあさましき」
と表現します。
悲劇の崇徳上皇 - さわやか易(別館)
天狗になった崇徳上皇

ちなみに、後には後白河院の病気や平清盛の死についても、崇徳院の祟りのせいだと京の人々には信じられるようになります。祟りを怖れた後白河院や平氏は、讃岐院と呼んでいた崇徳上皇に「崇徳院」の名を贈ったり、慰霊のための寺(頓証寺、後白河上皇)を建立したり、陵へ参拝するなど、崇徳院の御霊を鎮めるために様々な行為を行っています。これも菅原道真の御怨霊対策の時と同じです。
崇徳院のTwitterイラスト検索結果。
崇徳上皇

 長寛2年(1164年)崇徳院は九年の流亡の後に崩じます。
 『源平盛衰記』によればその葬儀の際に、柩から血が溢れ出し、柩が置かれた石を真赤に染めたといいます。その場所には「血の宮」の地名が残されます。朝廷側の検視を受けるため御遺体を八十場の泉に約20日間にわたって浸したともいいます。上皇の死因は軍記物語にも『白峯寺縁起』にも記されていません
これに対して「上皇暗殺説」がいつの時代からか語られるようになります。崇徳上皇の死の原因を暗殺とするものです。
まず、崇徳上皇と関連のある坂出市の松山地域の歴史を編んだ『綾・松山史』を見てみましょう。そこには次のように記されています。
「暗殺説は『讃州府誌』という書物にあり、上皇の悲運の最後を綴った数少ない史伝とし、人間的な悲劇性から生まれた庶民伝承
としています。
しかし、本当に庶民の間で伝え受け継がれてきた話なのでしょうか。
出典とする『讃州府誌』は、大正四年(1915)に刊行された史書で、暗殺場面を次のように記します。
『讃州府志』 御崩御   
院ノ御崩御ニ付テハ記スダニモ恐レ多キ事ドモナルガ、本書原本ノ記スル所二依バ長寛二年八月二十六日二條帝陰ニ讃ノ士人三木近安(保)ナル者ニ命シ戕(しょう)セシム 時ニ近安驄馬(そうば=青馬)ニ乗リ紫手綱ヲ取テ鼓ヲ襲フ 院知リ玉ヒ急ニ之ヲ避ケ路ノ傍ノ大柳樹ノ穴ニ匿レ玉フ 近安之ヲ探シ索メ執テ之ヲ害シ奉リ遂ニ崩ス 御年四十六 是ニ因テ三木姓ノ者、驄馬紫衣ノ者、白峯ヘ上ルヲ得スト云フ
暗殺については「本書原本ノ記スル所二依バ」と前書きがあります。つまり讃州府志は江戸時代の『夜話』の内容を、ほぼそのまま書き写したもので、フィルドワークなどを行って伝承を採録したものではないようです。その「原書」とは「翁のう夜話」(以下夜話)という江戸時代の延享2年(1745)に出された讃岐の地誌・史書です。これを高松松平家の伝来本で、該当箇所を読み下すと次のようになります。
長寛二年八月二十六日帝二条院陰に讃之士人三木某者に勅して讃岐院を栽せしむ。三木氏騎馬に騎りて鼓岡を襲う。讃岐院急に之を避く。その路の傍に柳樹あり。大きさ合抱にしてその後ろは朽ちて孔をなし僅かに以って身を容れるべし。廼ちその中に匿れ気をふさぎ息もせず。三木氏これを索むに甚だ務め遂に執らえてこれを害す

 讃州府誌の内容と、ほとんど変わりません。
確かに暗殺説の「原典」は夜話のようです。内容を見てみると、暗殺者の名前や日時などが非常に具体的に記述されています。上皇が逃げた先が大きな柳のむくろであったことも記されています。しかし、あまりにもリアルで具体的すぎるのです。戦記物のノリで脚色されたことがうかがえる史料です。また、その根拠とした史料も示されていません。語り伝えられてきた事とも書かれていません。仮に口承なり、伝承なりの史料が伝わっていたら『夜話』以前の史書・地誌等で触れられておかしくないのですが、それも見当たりません。
夜話を書いたのは?
 『夜話』の著者は菊池武賢で、父の増田正宅の見聞録を武賢の兄である増田休意が増補し、その記録をもとに武賢がまとめ直したものです。兄の休意が別にまとめた『三代物語』にも、これとほぼ同じ文章が載せられています。そして両書から約百年後の『全讃史』にも同じ内容が掲載されますが、その内容には全くといっていいほど差がないのです。これは「伝承」としては不自然です。
 また、菊池兄弟の著した『夜話』や『三代物語』には、それ以前の讃岐の地誌・歴史書に見られない事項が、根拠なく史実かのように記述されていることが多々あるようです。そのため崇徳上皇の暗殺話も、両書で形が整えられたと推測されます。このように「暗殺説」は、江戸時代中期の憶説で「創作」されたものと研究者は指摘します。
ところが江戸中期に創作された「暗殺説」が世間に広がる時がやってきます。
 日清日露戦争後、日本は皇国史観による忠君愛国にもとづく歴史教育が本格化する一方、王政に関係するものを顕彰するようになります。そのような中で大正2年(1913)の「名蹟名勝天然紀念物保存法」が制定されます。
 崇徳上皇の顕彰運動と讃州府誌発行や柳田碑文建立の前後を年表にしてみましょう。
大正2年 崇徳上皇750年忌祭。近隣市町村長が出席し盛大に開催
大正4年「讃州府誌」刊行 「夜話」を引用し「上皇暗殺説」を記載
大正8年 史蹟名勝天然紀念物保存法制定。崇徳上皇関連地が指定候補になる
大正8年 八十場の泉の横に県社白峰宮碑
大正9年 白峰寺参道入口に白峰宮殯殿遺蹟碑建立
大正9年 高屋神社に御棺基石碑建立
大正10年「柳田」碑建立
大正11年 昭和天皇が摂政として讃岐を訪れ、白峯陵を参拝
このように大正時代には、崇徳上皇への崇敬や顕彰の動きが高揚して行くのです。例えば、上皇の行在所は江戸末期までは、八十場の崇徳天皇社とされていました。
白峰宮(明ノ宮) (香川県坂出市西庄町 神社 / 神社・寺) - グルコミ
八十場の崇徳天皇社
しかし、崇徳上皇の顕彰運動が高まる府中村では、鼓岡神社を上皇行在所の場所として社、鳥居などを整えていきます。

「府中は讃岐国府があった雄所ある地だ。加えて「崇徳さん」が住まわれていたとなれば、恐れ多くも有難いことだ」

という願い共に「地域興し」の狙いもあったようです。
有力者も行政も支援する官民一体の運動の結果、いつの間にか「鼓岡」行在所説が世間に認知されていくようになります。そして江戸末期まで広く認識されていた「明の宮」天皇社=行在所の伝承は「変化」していくことになります。
鼓岡神社 - 香川県坂出市 - 八百万のかみのやしろ巡り
  さて、年表の最後に出てきた「柳田」碑とは何でしょうか。
この碑はJR予讃線の線路脇にあります。私が最初にこの碑と出会ったのは国府周辺を散策していたときでした。説明板がないために、最初は何の碑なのかは分かりませんでした。ネットで検索する内に坂出市の観光パンフレットに、写真入で「上皇の暗殺場所」と説明されているのに出会いました。「夜話」の中に、上皇が危険を察して逃げ出した際に柳の大木があった所で、この中に隠れていたところ見つかったとされる所です。つまり「暗殺現場」ということになるのでしょうか。それを記すために建立された碑文が「柳田」碑なのです。
  
 高揚する顕彰運動の中で、高松高等女学校教官などを務めた赤松景福は、
大正五年に次のように言っています。
(香川新報「鼓岡霊蹟顕彰誌」・「府中史蹟」)。
讃岐の史跡を語るならばまず府中村の史跡を探討すべきである。将来学生が修学旅行でここを訪れるのは学問に大いに資するところがあるが、施設がなくては益がない。まずは石標・石碑などの置き、訪問者によくわかるように便利を図ることが差し当たりのことである」

と暗殺場所への石碑設置の必要性について力説します。こうして5年後に「柳田」碑は設置されます。
 石碑などは、それが設置されるとそれにまつわる話が視覚化され、場所の固定化が進みます。そしてそれが「遺跡」と混同されてしまう恐れも出てきます。それは百年後の我々が郷土の歴史像を形作っていく際の「反面教師」にはなるかも知れませんがプラスとはなりません。石碑の設置やその後の利用に際しては充分な配慮が必要な所以です。
最後に、現在の史書は「上皇暗殺説」に対して、どのように向き合い、どんな記述をしているのかを見ておくことにしましょう。
戦後に出された『府中村史』では、暗殺については
「推測想像した話で、根本史料に出ていない」とさらりと退け、柳田という地名については「崇徳天皇が身を隠し遊ばれた大きな柳があったというので柳田と称する」

と記すのみです。『香川県史2 中世』では、

「崇徳上皇の讃岐配流についてはほとんど伝承あるいは伝説に類するものであって、正しい史実を確定するのは難しい」

として、暗殺説はもとより多くを記述していません。
 「歴史は事実に即して叙述される」のは当然です。しかし、史料がなくて史実が分からない部分については語れないことになり「空白」ばかりとなります。その結果、謎の3世紀、空白の世紀、邪馬台国の卑弥呼探しのように、いくつも「憶説」が生まれ飛び交うことになります。そして、年月が経つと「上皇暗殺説」ように伝承や伝説として安易に処理されることにもなります。

 「地域史の叙述に当たっては、空白をそのままにしておくのではなく、諸説を検証し、その結果を記しておく姿勢も必要」

と研究者は振り返っています。上皇暗殺説は、江戸時代に仕込まれた種が、大正時代に無批判に取り上げられ、石碑となりました。「諸説を検証し、その結果を記しておく姿勢」がなかった結果、現代にまた「再生」されつつある説なのかもしれません

参考文献 大山真充 伝説と地方研究 香川歴史学会編香川歴史紀行所収