尊光寺木仏下付
尊光寺(まんのう町炭所)の木仏尊像御免書

西本願寺側の「木仏之留」に記された讃岐の真宗寺院を見ておきましょう。
『木仏之留』とは、本願寺が末寺に木仏などを下付したことの控えのために『御影様之留』という記録に、その裏書を書き写したものです。17世紀末成立の「高松藩御領分中寺々由来書」に出てくる真宗寺院で、西本願寺の「木仏之留」に名があるのは、香東郡安養寺など次の22ヶ寺のようです。
「木仏下付=寺号付与」はセットでしたので、本山側の記録に記録があるということは、その寺の寺号獲得時期が確認できる根本史料ということになります。西本願寺の「木仏之留」に記された讃岐真宗寺院21ヶ寺(明源寺を除く)を「寺々由来書」の配列通りに並べて、その下に「木仏之留」の記事を注記したのが次の表5になります。
真宗寺院の木仏付与時期
高松藩真宗寺院の木仏下付一覧表
ここからは、どんなことが見えてくるのでしょうか。まず気づくのは、寛永18(1641)年8月に木仏の授与を受けている寺が多いことです。寛永18年組と呼び、そのメンバーを見ていくことにします。

興正寺の中本寺・常光寺(三木町)の末寺である常満寺・常善寺・蓮光寺が「寛永18年」組です。

木仏下付 常光寺末寺
常光寺末寺の木仏下付寺院一覧
日付を見ると8月中頃に、2・3日の違いで「木仏下付=寺号承認」されています。これらの寺の「興正寺には孫末、常光寺には直末」という関係は、「寺々由来書」ができる延宝初(1673)年になっても変わりなく続いています。
 一方、福住寺・信光寺・西徳寺も寛永18年8月組です。
これらの寺は、木仏下付のあった寛永18年8月当時は常光寺の直末でした。それが「寺々由来書」が成立した17世紀後半には専光寺の末寺となっています。常光寺に対しては、直末でなく孫末ということです。この期間に、常光寺と三ヶ寺の間に専光寺が介在するようになったようです。
同じようなことが常光寺末の徳法寺にも観られます。
この寺の木仏下付も寛永18年8月です。その時に西本願寺では「興正寺直末」と記録しています。それが延宝初年までには、常光寺末寺の覚善寺の末になっています。この背景には何があったのでしょうか? 例えば、政治的な介入が考えられます。以前に「常光寺記録」には、松平頼重が常光寺から末寺を取り上げようとしたことが次のように記されていることを見ました。

 松平頼重は讃岐にやってくると、まず常光寺から末寺の専光寺を召し上げた。専光寺は末寺を13ヶ寺も持つ有力な寺であったが、この末寺13ヶ寺も合わせて差し出せ言って来た。常光寺は、それを断って3ヶ年の間お目見えせず無視していた。あるとき、頼重は「常光寺の言い分はもっともだ」と言って13ヶ寺を常光寺へ返えしてくれた

 松平頼重は常光寺から専光寺をとりあげて、自分の養子が門主となった京都の仏光寺の末寺としようとします。このように当時は、藩主などの政治的な思惑で本末関係が変更されることもあったようです。


安養寺末寺の木仏下付
安養寺末の養専寺と専福寺
安養寺末の養専寺と専福寺も木仏下付は寛永18年8月組です。
安養寺は安楽寺の末寺で、塩江から髙松平野に掛けての安楽寺の教線ライン伸張の拠点寺院だった寺院です。そのため末寺も多い有力寺院で、高松御坊を支えるために伽藍がその南に移されたことは以前にお話ししました。ここには「安楽寺下安養寺下」とあり、安養寺が阿州安楽寺下であったことが記されています。
「常光寺記録」には、安養寺のことが次のように記されています。
「殿様御通之節阿州安楽寺義途中二而無礼仕蒙御咎ヲ以来御国江出勤無用被抑付候右二付安楽寺(高松)御坊江出勤指支御座候故香川郡川内原村二罷在候安楽寺末寺安養寺,安楽寺代僧二御坊江指出申候」

  意訳変換しておくと
お殿様に対して阿州安楽寺は、無礼なことがあった。それを咎められて以後は、安楽寺は讃岐への出入りを禁止された。そのため安楽寺は(高松)御坊へ出向くことができなくなり、香川郡川内原村にある安楽寺末寺の安養寺を、安楽寺代僧として高松御坊へ出仕させた。

ここからも松平頼重治世のはじめには、中本寺の安楽寺に代わって安養寺が、高松御坊を支えるてらとなったことが記されています。安養寺の寺伝もそれを裏付けるものになっていることは以前にお話ししました。

尊光寺・長善寺の木仏付与
安楽寺末の木仏下付寺院

阿州安楽寺の末寺で、寛永18(1641)年8月組は慈光寺(岡田)・長善寺(勝浦)です。
西長尾城周辺の岡田や羽床には、長尾氏を祖とする系図をもつ真宗寺院が多いようです。その中でも、慈光寺(綾歌町岡田)・長善寺(まんのう町勝浦)が木仏を下付された時期がはやいようです。さらにそれよりも30年早い慶長19(1614)年8月に木仏を受けているのが尊光寺(まんのう町炭所)になります。尊光寺の由緒書きを見ると「興正寺下鵜足郡尊光寺」で、慈光寺・長善寺は「興正寺門徒安楽寺下」です。ここからは、当時の尊光寺が興正寺直末であったことがうかがえます。それがいつのころにか、阿波の安楽寺の末寺になったことになります。それは、いつからなのでしょうか。
  慶長12(1607)年に木仏を下付された安楽寺末の安養寺も、その頃は「興正寺下香東郡安原庄河内原村安養寺」とあります。ここからも慶長年代は、尊光寺と同じように興正寺の直末だったようです。それが寛永末(1644)年には「興正寺門徒安楽寺下安養寺」と記されるようになります。そして延宝初(1673)年には、また興正寺の直末と記されるようになります。ここからは17世紀前半の慶長から寛永にかけては、本末関係も坊号・寺号と同じように改変が頻繁に行われていたことがうかがえます。この背景には、何が考えられるのでしょうか。末寺と興正寺、中本寺・安楽寺との力関係や住職との関係で左右したのでしょうか。この当たりはよくわかりません。それが「寺々由来書」の成立時期の17世紀末は、固定化していくようです。
  以上をまとめておくと、
①讃岐の真宗寺院の「木仏下付=寺号付与」の時期は、本願寺の東西分裂後がほとんどである。
②特に木仏下付が集中するのが寛永18(1641)年8月である。
③寛永18年下付の寺々で、尊光寺や安養寺など下付の時には興正寺直末とされている。
④しかし、その後は中本寺の安楽寺末寺とされた寺もある。
⑤以上から17世紀中は、本末関係や寺名なども大きな変化があり、流動的であったことがうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
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