まんのう町の「ことなみ道の駅」から県境の三頭トンネルを抜けて、つづら折りの国道438号を下りていったところが美馬町郡里(こおさと)です。「郡里」は、古代の「美馬王国」があったところとされ、後に三野郡の郡衙が置かれていたとされます。そのため「郡里」という地名が残ったようです。「道の駅みまの家」の南側には、古代寺院の郡里廃寺跡が発掘調査されていて、以前に紹介しました。

この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。


郡里廃寺跡
この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。

郡里廃寺跡南側の寺町の伽藍群
郡里廃寺の南側には、寺町とよばれるエリアがあって大きな伽藍がいくつも建っています。
それも地方では珍しい大型の伽藍群です。最初、このエリアを訪れた時には、どうしてこんな大きな寺が密集しているのだろうかと不思議に思いました。今回は郡里寺町に、大きなお寺が集まっている理由を見ていくことにします。その際に「想像・妄想力」を膨らましますので「小説的内容」となるかもしれません。

テキストは、千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」です。千葉氏は、郡里の安楽寺の住職を務める一方で、龍谷大学学長もつとめた真宗研究家でもあります。彼が自分の寺の「安楽寺文書」を整理し、郡里村の寺院形成史として書いたのがこの論文になります。
河岸台地の上にある安楽寺と寺町の伽藍群
寺町は扇状地である吉野川の河岸段丘の上に位置します。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
この寺町台地に中世にあった寺は、真宗の安楽寺と真言宗の願勝寺の2つです。


願勝寺
願勝寺は、真言系修験者の寺院で阿波と讃岐の国境上にある大滝山の修験者たちの拠点として、大きな力を持っていたようです。天正年間(1575頃)の日蓮宗と真言宗の衝突である阿波法幸騒動の時には、真言宗側のリーダーとして活躍したとする文書が残されています。願勝寺は、阿波の真言宗修験者たちのの有力拠点だったことを押さえておきます。
安楽寺の寺歴
安楽寺は、上総の千葉氏が阿波に亡命して開いたとされます。千葉氏は鎌倉幕府内で北条氏との権力争いに敗れて、親族の阿波守護を頼って亡命してきた寺伝には記されています。上総で真宗に改宗していた千葉氏は、天台宗の寺を与えられ、それを真宗に換えて住職となったというのです。とすれば安楽寺は、かつては、天台宗の寺院だったということになります。それを裏付けるのが境内の西北隅に今も残る宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠です。中世には、天台・真言のお寺がひとつずつ、ここに立っていたことを押さえておきます。
その内の天台宗寺院が千葉氏によって、真宗に改宗されます。
寺伝には千葉氏は、阿波亡命前に、親鸞の高弟の下で真宗門徒になっていたとしますので、もともとは真宗興正派ではなかったようです。そして、南無阿弥陀仏を唱える信者を増やして行くことになります。

安楽寺の末寺分表
安楽寺の末寺分布図を見ると、阿波では吉野川流域に限定されていること、吉野川よりも南の地域には、ほとんど末寺はないことが分かります。ここからは、当時の安楽寺が吉野川の河川交通に関わる集団を門徒化して、彼らよって各地に道場が開かれ、寺院に発展していったことが推測できます。
念仏道場が吉野川沿いの川港を中心に広がっていくのを、願勝寺の真言系修験者たちは、どのような目で見ていたのでしょうか。
親鸞や蓮如が、比叡山の山法師たちから受けた迫害を思い出します。安楽寺のそばには真言系修験者の拠点・願勝寺があるのです。このふたつの新旧寺院が、初めから友好的関係だったとは思えません。願勝寺を拠点とする修験者たちは、後に阿波法華騒動を引き起こしている集団なのです。黙って見ていたとは、とてもおもえません。ある日、徒党を組んで安楽寺を襲い、焼き討ちしたのではないでしょうか?
寺の歴史には次のように記されています。
永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」
ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜいままでの所に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか? その原因のひとつとして願勝寺との対立があったと私は考えています。
「三好千熊丸諸役免許状」(安楽寺)
安楽寺の危機を救ったのが興正寺でした。
それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」には次のように記します。(意訳)
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える
この免許状の要点を挙げると
①「興正寺殿からの口添えがあり」とあり、調停工作を行ったのは興正寺であること
②内容は「帰還許可+諸役免除+安全保障」を三好氏が安楽寺に保証するものであること。
③「違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える」からは、安楽寺に危害を加える集団がいたことを暗示する
この「免許状」は、安楽寺にとっては大きな意味を持ちます。拡大解釈すると安楽寺は、三好氏支配下における「布教活動の自由」を得たことになります。吉野川流域はもちろんのこと、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えると云うことになります。安楽寺が讃岐と吉野川流域に数多くの末寺を、もつのはこの時期に安楽寺によって、数多くの念仏道場が開かれたからだと私は考えています。
そして、安楽寺は調停を行ってくれた興正寺の門下に入っていったと私は考えています。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
こうして、三好氏の讃岐支配の拡大と歩調を合わせるように安楽寺の教線ラインは伸びていきます。
まんのう町への具体的な教線ラインは、三頭・真鈴峠を越えて、勝浦の長善寺、長炭の尊光寺というラインが考えられます。このライン上のソラの集落に念仏道場が開かれ、安楽寺から念仏僧侶が通ってきます。それらの道場が統合されて、惣道場へと発展します。それが本願寺の東西分裂にともなう教勢拡大競争の一環として、所属寺院の数を増やすことが求められるようになります。その結果、西本願寺は惣道場に寺号を与え、寺院に昇格させていくのです。そのため讃岐の真宗寺院では、この時期に寺号を得て、木仏が下付された所が多いことは、以前にお話ししました。少し、話が当初の予定から逸れていったようです。もとに戻って、郡里にある真宗寺院を見ていくことにします。
近世末から寺町には、次のように安楽寺の子院が開かれていきます。
文禄 4年(1595)常念寺が安楽寺の子院として建立慶長14年(1609) 西教寺が安楽寺の子院として建立延宝年間(1675) 林照寺が西教寺の末寺として創立、賢念寺・立光寺・専行寺が安楽寺の寺中として創建
こうして郡里村には、真言宗1か寺、浄上真宗7か寺、合計8か寺の寺院が建ち並ぶことになり、現在の寺町の原型が出来上がります。
安楽寺が讃岐各地に末寺を開き、周辺には子院を分立できた背後には、大きな門徒集団があったこと、そして門徒集団の中心は安楽寺周辺に置かれていたことが推測できます。どちらにしても、江戸時代になって宗門改制度による宗旨判別が行われるまでには、郡里にはかなりの真宗門徒が集中していたはずです。それは寺内町的なものを形作っていたかもしれません。郡里村の真宗門徒が、全住民の7割を占めるというというのは、その門徒集団の存在が背景にあったと研究者は考えています。
宗門改めの際に、郡里村の村人は宗旨人別をどのように決めたのでしょうか。つまり、どの家がどの寺につくのかをどう決めたのかを見ていくことにします。

安楽寺から分院された常念寺(美馬市郡里)
「安楽寺文書」には、次のように記します。「常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」
意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」
ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家六百軒を分与されたことが分かります。先ほど見たように、安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。それから200年余りは無檀家の寺中あつかいだったことが分かります。
林照寺
西教寺の末寺として創建された林照寺も当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。②その後、安楽寺の子院が創建されると、その都度門徒は西教・常念・林照の各寺に分割された
こうして、岡の上に安楽寺を中心とする真宗の寺院数ヶ寺が姿を見せるようになったようです。
以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧数多くの末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院をいくつも周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」
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コメント
コメント一覧 (3)
tono202
が
しました
自分は古文書の勉強をしています。たまたま手元に桂林寺、浄智寺、安楽時の宗門改めの文書があるんですが 安楽時は浄土宗と書かれてます
安永年間なので1800年前後と思われますが 安楽時は浄土真宗というのは 本当でしょうか??
tono202
が
しました
tono202
が
しました