幕末に四国の金毘羅門前町の丸亀街道の一里塚に、姿を現したのがこの高灯籠です。
この灯籠の建設資金総工費3,000両は、寒川を中心とする東讃岐の砂糖作りに関わる人たちの寄進で賄われました。これだけの募金が集められた高松藩の砂糖産業について見ていきましょう。
砂糖は、讃岐三白の一つとして塩と綿とともにその名が知られるようになります。現在でも、高級甘味料「和三盆」として生産が続けられています。
和三盆糖
砂糖生産の始まりは? 讃岐国は昔から水不足に悩まされてきました。この克服のために、高松藩五代藩主松平頼恭は干害に比較的強いサトウキビ(甘薦)の栽培に注目し、鹿児島藩からの技術導入を図ります。藩命を受けた藩医池田玄丈や大内郡湊村(東かがわ市湊)の医師向山周慶ら多くの人々の努力によって、サトウキビの栽培、製糖の技術や砂糖づくりの道具が確立されていきます。そして領内各地に砂糖の生産・製造が広まります。特に大内・寒川・阿野郡で盛んになります
ちなみに、甘藷植え付け面積の推移をみると、
天保五年(1835)1210町弘化元年(1844)1750町、嘉永元年(1848)2040町、安政三年(1856)3220町、安政五年(1858)3715町
と着実に増加しています。
サトウキビを絞る砂糖車
高松藩で生産・製造された砂糖は、寛政六年(1794)に大坂、文化年間(1804)には江戸に積み出された記録があります。さらに販路が紀伊、明石や尾道などの瀬戸内沿岸、酒田・出雲崎・温泉津など日本海沿岸まで拡がったことが、各地の湊町に残る廻船問屋の顧客名簿である「諸国御客船帳」から分かります。
文化十一年(1814)に江戸の小川顕道が書いた随筆集『塵塚談』では、讃岐国産の白砂糖は
サトウキビを絞る砂糖車
高松藩で生産・製造された砂糖は、寛政六年(1794)に大坂、文化年間(1804)には江戸に積み出された記録があります。さらに販路が紀伊、明石や尾道などの瀬戸内沿岸、酒田・出雲崎・温泉津など日本海沿岸まで拡がったことが、各地の湊町に残る廻船問屋の顧客名簿である「諸国御客船帳」から分かります。
文化十一年(1814)に江戸の小川顕道が書いた随筆集『塵塚談』では、讃岐国産の白砂糖は
「白雪の如く、舶来にいささかおとらず」
と、高い評価を受けるようになります。
さらに大坂市場でも高い市場占有率を誇るようになり、天保元年(1830)から同三年までの白砂糖の大坂への積登量の平均は、積登高全体の54%のシェアを高松藩が占めています。この背景には「樽一杯の砂糖が樽一杯の銭」と云われるほど砂糖が利潤の高い商品作物であったからです。
さて、文政初年の高松藩の財政というと、
水害や旱ばつによって年貢収入が減り、さらに江戸屋敷での経費もかさみ、財政は火の車状態でした。このため大坂の商人から多額の借金があり、その借金の返済も天保三年には返済猶予を願うほどでした。まさに多重債務状態にあったのです。
そこで高松藩では財政難の克服のため砂糖に注目します。
砂糖売り上げの利潤を、借金返済に廻す流通統制を始めます。この流通統制は文政二年(1819)に始まりますが、砂糖会所を設置するなど大坂の砂糖市場を利用して、利益を上げようとするものです。この「流通統制」は大坂の砂糖市場との結びつきを強めながらも、荷主や船主の裁量で大坂以外でも売り捌くことまでは制限したものではありませんでした。「緩やかな統制」だったのです。
この政策が結果的にはプラスに働き、利潤を求めて全国各地に高松藩の砂糖が流通していくもとになります。こうして高松藩は財政難を解消し、天保末ごろには軍用資金や災害備金を貯えるまでになります。明治維新の廃藩置県の際は、高松藩から香川県へ多額の引継金があったほどです。
そこで高松藩では財政難の克服のため砂糖に注目します。
砂糖売り上げの利潤を、借金返済に廻す流通統制を始めます。この流通統制は文政二年(1819)に始まりますが、砂糖会所を設置するなど大坂の砂糖市場を利用して、利益を上げようとするものです。この「流通統制」は大坂の砂糖市場との結びつきを強めながらも、荷主や船主の裁量で大坂以外でも売り捌くことまでは制限したものではありませんでした。「緩やかな統制」だったのです。
この政策が結果的にはプラスに働き、利潤を求めて全国各地に高松藩の砂糖が流通していくもとになります。こうして高松藩は財政難を解消し、天保末ごろには軍用資金や災害備金を貯えるまでになります。明治維新の廃藩置県の際は、高松藩から香川県へ多額の引継金があったほどです。
ところで、砂糖流通は船が担っていました。
砂糖を運ぶ船を砂糖船といい、その中で藩から公認された船を砂糖組船と呼びました。砂糖組船は各浦に設けられ、五艘一組で組織されます。こうして浦々の砂糖役人と大坂の砂糖商人が砂糖市場や砂糖船の活動を通じて深く結びつくようになります。
そのつながりを東讃の港に残る常夜燈や玉垣に見てみましょう。
天保14年の大内郡引田浦の波止普請にあたっては、引田村庄屋や浦役人だけでなく、引田浦の砂糖組船、隣郡の寒川郡津田浦の砂糖船持中、大坂砂糖問屋や大坂砂糖会所からも寄付が寄せられています。
砂糖を運ぶ船を砂糖船といい、その中で藩から公認された船を砂糖組船と呼びました。砂糖組船は各浦に設けられ、五艘一組で組織されます。こうして浦々の砂糖役人と大坂の砂糖商人が砂糖市場や砂糖船の活動を通じて深く結びつくようになります。
そのつながりを東讃の港に残る常夜燈や玉垣に見てみましょう。
天保14年の大内郡引田浦の波止普請にあたっては、引田村庄屋や浦役人だけでなく、引田浦の砂糖組船、隣郡の寒川郡津田浦の砂糖船持中、大坂砂糖問屋や大坂砂糖会所からも寄付が寄せられています。
同浦の氏神である誉田八幡宮に現存する嘉永六年(1853)奉納の玉垣は、大坂渡海船持中が世話人となり大坂砂糖問屋嶋屋奥兵衛・阿波屋儀助・丸屋喜之助か奉納しています。そのp5年後の安政五年(1858)に建てられた大鳥居にも、寄付者として大坂砂糖問屋の名が見えます。
引田浦の隣村の馬宿浦(東かがわ市馬宿)の山王宮にある天保一三年の常夜燈も、大坂砂糖問屋の丸屋喜之助や馬宿浦砂枡組船中・渡海船持中が奉納したものです。
大内郡三本松浦(同市三本松)の前山天満宮にも嘉永四年大坂砂糖問屋佐野屋繁蔵から奉納された玉垣が残ります。
大内郡三本松浦(同市三本松)の前山天満宮にも嘉永四年大坂砂糖問屋佐野屋繁蔵から奉納された玉垣が残ります。
このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金毘羅山の金光院に提出されます。
寄付状の事 一 高灯龍 壱基
右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
讃岐寒川住 上野晋四郎 元春(花押)
慶応元年 乙丑九月弐拾三日
これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。
そこには、砂糖産業が船によって支えられているという意識があったように思えてきます
そこには、砂糖産業が船によって支えられているという意識があったように思えてきます
サトウキビの生産にあたって、サトウキビの苗は香川郡香西浦(高松市香西本町など)や阿野郡乃生浦(坂出市王越町)から移入されました。また油粕や干鰯などの肥料、中和剤となる牡蝸殼は、備前・備中国から船で運ばれてきました。砂糖産業に関する生産・製造に関する材料も船で運ばれていたのです。
高松藩の財政を支えた砂糖の流通は、船が担っていたと言えます。
高松藩の財政を支えた砂糖の流通は、船が担っていたと言えます。
讃岐国は全国的な市場である大坂に近いだけでなく、平野が狭い分、各湊が後背地に比較的近い、つまり生産地と積出港が近接しているという地理的条件も砂糖の生産と流通に適していたと研究者は指摘します。
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