戦国時代において真宗興正派が讃岐で急速に教線を拡大したことを見てきました。その背景として、阿波三好氏の保護・支援を安楽寺(美馬市郡里)や常光寺(三木町)が受けたからだということを仮説として述べてきました。今回は、室町・戦国期の禅宗寺院が地方展開の際に、どのような教宣活動を行っていたのかを見ていくことにします。テキストは 「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」です。
戦国期の仏教について、戦後の研究で定説化されているのは次の三点です。
①法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、 一遍などを開祖とする「鎌倉新仏教」の教団は戦国期に全国的な展開を遂げ、「鎌倉新仏教」の「旧仏教」に対する優位が築かれたこと。②戦国大名の登場により寺院・僧侶らの行動が大きな統制と組織的支配をうけるようになったこと③「鎌倉新仏教」の中には、宗教王国の樹立を指向する一向一揆、法華一揆などが現れたが、織田信長・豊臣秀吉の統一政権樹立により圧伏されたこと
②については、近世仏教が内面の信仰よりも外面を重視するものへと「形式化」したという指摘もあります。これが近世仏教「堕落」論へとつながります。この立場は、一向一揆や日蓮宗が織田信長に屈したということを受けて、仏教界が統一政権へ全面的に従属するに至ったという通説の裏付けともなってきました。江戸時代の檀家制度がキリンタン信仰の取り締りという面から始まり、幕府の信仰統制策へ寺院・僧侶が荷担していくという、近世仏教「堕落」論に有力な根拠を与えています。ここでは、現在の通説が「戦国仏教の終局は、統一政権への従属・形骸化」だったとされていることを押さえておきます。
それでは禅宗は、全国展開をどのように進めたのでしょうか?
その際に最初に押さえておきたいのは、鎌倉新仏教が全国展開を行うのは、鎌倉時代ではなく室町時代中葉から近世初期にかけてのことだという点です。鎌倉時代は、新仏教は生まれたばかりの「異端」で、局地的に信徒をもつだけの存在に過ぎません。全国的な広がりを見せるようになるのは、室町時代になってからです。浄土真宗の場合は、16世紀の戦国時代になってからだと云うことを最初に押さえておきます。
その際に最初に押さえておきたいのは、鎌倉新仏教が全国展開を行うのは、鎌倉時代ではなく室町時代中葉から近世初期にかけてのことだという点です。鎌倉時代は、新仏教は生まれたばかりの「異端」で、局地的に信徒をもつだけの存在に過ぎません。全国的な広がりを見せるようになるのは、室町時代になってからです。浄土真宗の場合は、16世紀の戦国時代になってからだと云うことを最初に押さえておきます。
南北朝以後に発展した禅宗としては、次の2つが有名です。
①栄西(1141~1215)がもたらした臨済宗②道元(1200~1253)がもたらした曹洞宗
臨済宗は鎌倉や京都で幕府と結びついて五山・十刹(じゅせつ)制度のもとに発展します。曹洞宗は道元の開いた永平寺を基点とし、榮山紹瑾(1268~1325)やその弟子たちの手で北陸、関東、東海をはじめ、全国に展開します。しかし、臨済宗や曹洞宗は、一局集中型でなく多元的で、臨済宗にも早くから地方に展開していった流派もありました。曹洞宗にも宏智派のように五山の一翼となる流派もありました。むしろ五山・十刹の制度によって展開する「叢林」と、地方展開を遂げる「林下」との2つのベクトルがあったと研究者は考えています。
室町期以降の禅宗の地方展開を、要約すると次のようになります。
①戦国大名や国人領主らも武士階層による帰依・保護が大きな力となっていること②地域に根ざした神祗信仰、密教的要素の色濃い信仰や、現世利益希求を包み込んで受容されたこと、③授戒会・血脈の授与などを通じて師檀関係や、葬祭へ積極的な地方の禅寺形成の核になっていること
これらの三要素が地方に禅寺が建立される際のエネルギーになったと研究者は考えています。それでは、この3つの要因を具体的に見ていくことにします。
大名や国人らが禅僧に帰依した事例は数多くあります。
禅僧自身が武士層出身者であり、大名や国人の家中のブレーンとして活動していた例もあります。ここからは、大名や国人らが帰依して、その家族・家中の武士やその家族、次に領内の住民たちが帰依するという連鎖反応があったことがうかがえます。

上野国室田長年寺(群馬県高崎市)
上野国室田長年寺(群馬県高崎市)の場合を見ておきましょう。ここでは領主長野業尚(のりひさ)が曇英慧応(えおう:1424~1504)に帰依し、禅宗寺院の長年寺を建立します。文亀元(1501)年の長年寺開堂の仏事の際に、曇英慧応の記した香語「春日山林泉開山曇英禅師語録」が残されています。そこには、長野業尚を筆頭に、嫡子憲業(のりなり)や庶子の金刺明尚、母松畝止貞、家臣下田家吉とその一門や親族、さらには隣人たちの名前が記されています。長年寺の建立に一族が尽力していたことが分かります。
また、禅僧たちは、檀越・保護者となった武士層と日常的な交流をもっていました。
遠江国佐野郡(静岡県掛川市)で活動した禅僧・松堂高盛(こうせい:1431~1505)を見ておきましょう。彼は、原田荘寺田郷の「藤原氏」の出身と自ら記しています。掛川市寺島に円通院(廃寺)を開いて、この地方への曹洞禅の教線拡大を計ります。
松堂高盛は、飯田荘戸和田郷の藤原通信(みちのぶ)・通種(みちたね)兄弟の母の十三回忌法要を依頼されています。また通種とは、和歌を通じての交流もあったようです。同じ「藤原氏」という同族関係(擬制的同族関係?)が、松堂の禅僧としての活動を支えていたことがうかがえます。
拠点とする円通院が兵火に焼失し際には、浜名郡可美村増楽(ぞうら)の増楽寺住持が、松堂を見舞っています。松堂は縁をもとめて河勾荘の東漸寺(当市成子町)に避難しています。翌年の正月に円通院に帰山する際には、七言、五十句の長詩をつくり、諸檀那へ感謝しています。松堂は宿泊した性禅寺をはじめ聖寿寺・増楽寺・大洞院に謝意を表しています。(『円通松堂禅師語録』三)
また禅僧は地域のいろいろな宗教活動にも関わっています。
松堂高盛は、遠江国山名郡油山(ゆさん)寺(静岡県袋井市)の薬師如来に祈って、自分の病の治癒を祈願しています。そのために法華経一千券の読誦を誓った「性音」という僧侶が行った法会に参加し、「看読法華経一千部窯都婆」を建立しています。ここからは、彼が約信仰や法華信仰の持ち主であったことがうかがえます。
一族や家臣らの帰依は、大名や国人領主家中の結束を強める効果をもたらします。
例えば下総国結城氏の制定した『結城氏法度:九四条』は、結城政朝(まさとも)の忌日に家中で寄合や宴会を行うことを禁止した条項です。この条項では、家中による忌日の精進が、政朝の堕地獄や成仏に関わるから禁止するのではなく、結城家中が亡き主君の忌日にも無関心なほど不統一だと思われてはならからだ、これを定めた理由が説明されています。先祖供養よりも、家臣や領内民心の統一のために先代結城政朝の忌日を設けているのです。
ここで思い出すのが以前にお話した日蓮宗本門寺(三豊市三野町)に残る秋山氏の置文です。そこには次のような指示がありました。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
10月13日は日蓮上人の命日法要です。②では、この日には何があっても一族挙げて祭事に取り組めと命じています。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたことがうかがえます。③では地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸イヴェントを催せと指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたことが分かります。
「今ある最良の布教者は領主や『殿』たちである。……彼らがある教えを奉じるよう彼ら(領民)にいえば、それに簡単に従い、それまで信奉していた教えを、通常は捨ててしまう。一方彼らが他の教えに帰依するための許可を与えないときには、彼ら(領民)は如何に望んでいてもそれに帰依することはしない」
ここからは領主の信仰自体が、戦国期には家中や領民に大きな影響力をもっていたことが分かります。このような認識があったからこそイエズス会は、トップダウン方式の「上から(支配者へ)の布教活動」を最優先させ、高山右近や小西行長などの大名改宗にとりくんだのでしょう。
新仏教の側も大名や国人領主などに完全に従属し、領主支配に協力するだけの存在ではなかったようです。
先ほど見た上野国室田長年寺は、パトロンの長野憲業から、たとえ重罪の者であろうと門中に入った者には成敗を加えないという不入の制札(境内の安全を保障する掟)を得ています。こうした、アジール(駆け込み寺)としての治外法権を保障された制札は、禅宗寺院には珍しくないようです。
また多賀谷氏が開基した常陸国下妻(茨城県下妻市)多宝院住持の独峰存雄(どくほうそんゆう)については、次のような史料が残されています。
パトロンの多賀谷重経(しげつね)が斬刑にしようとした罪人の助命を請願して許されなかったた。そのため独峰存雄は、この罪人を得度させて共に出奔した。これに対して重経は、再三の帰還要請を行っていますが、なかなか応じなかった。
こうした僧侶の領主に対する抵抗は、他にも事例があります。中世寺院の「駆け込み寺(アジール)」としての側面で、住持は世俗の権力者に対してある程度の自立性を持っていたと研究者は考えています。
禅僧たちの伝道・教化が、どのようにして行われていたのかを見ていくことにします。
禅僧立ちも、神仏習合を説き、土着の信仰を受けいれつつ教線を拡大していたようです。臨済宗でも、曹洞宗宗でも祈祷・回向(えこう)の際には、天部をはじめとして日本国内の各地で信仰される神祗が勧請されています。これは神仏習合の思潮に合わせた動きです。
鎌倉末期に作成された「榮山和尚清規」巻之下、「年中行事第三」には、次のような神々が招聘・登場しています。
①正月元日の法事は、梵天・帝釈・四大天王はじめ「日本国中大小神祗」や土地神など②起請文(神仏への誓約書)を記す際に誓約の対象とされていた神々③天照大神④「七曜九曜二十八宿」など陰陽道の神格⑤「王城鎮守諸大明神」⑥白山権現
これらの神への祈りが、禅宗寺院でも行われていたのです。神仏習合や、密教的観念が禅宗の中でも取り入れられていたことが分かります。地方への展開の際には、霊山信仰や、現地の有力神祗信仰を取り込んでいたことを押さえておきます。
こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。

こうした禅僧の活動は、榮山紹瑾下の蛾山詔碩の弟子たち、五哲ないし二十五哲と呼ばれる僧侶たちにみられるようです。

示現寺
その中の源翁心昭(げんのうしんしょう:1329~1400)の示現寺の開山活動を見ておきましょう。白衣の老翁の夢告により霊山に登ったところ、山の神と名乗る夢中で見た白衣の老翁に会い、麓の空海開創と称する「古寺」に人院した。
これを整理要約すると
①夢のお告げに従って霊山に登った → 源翁心昭が山林修行者で廻国修験者あったこと②「山の神=地主神」から霊山管理権を譲り受け③空海開創の「古寺」に入った → 弘法大師信仰の持主であったこと
この陸奥国示現寺(じげんじ:福島県喜多方市)開創の伝承は、地域の信仰との関わりをよく伝えています。源翁の関わった寺院は、例外なく霊山信仰が伝わっています。昔から修験者たちの拠点としての歴史のある寺院です。例えば、
鳥取県の退休寺は伯者大山の大川信仰との福島県慶徳寺や示現寺は飯豊山信仰との山形県鶴岡正法寺は羽黒修験との
こうした地域の霊山信仰に参画できたのは、初期の禅僧たちが厳しい入峰修行などを経て身につけ、修験能力があったからです。ここからは中世末から近世にかけて隆盛を迎える修験と、禅宗との密接な関わりがうかがえます。
如仲天誾
東海地方の曹洞宗教線拡大に大きな役割を果たした如仲天誾(じょうちゅうてんぎん:1365~1437)です。
彼は、信濃国(長野県)上田の海野氏の出身です。9歳で仏門に入り、越前龍澤寺の梅山聞本の許で修行後に、遠江国で、崇信寺、大洞院、可睡斎、近江に洞寿院などを開創します。数多くの弟子を輩出し、騒動宗教線拡大に多くの業績を残しています
彼も隠棲の場所を探して山野を放浪する廻国修験者でもあったようです。不思議な老人の導きと夢告とにより至った場所に大洞院(静岡県周智郡)を開いたという逸話があります。また大洞院にいた時代、夜更けに「神人」の姿でやってきた竜が受戒を受け、解脱の叶った礼に「峨泉」を施したため、皆が用いる塩水の温泉が湧き出したも伝えられます。ここにも霊山信仰や井戸伝説が語られています。これらの伝承は、禅僧たちが地域の庶民信仰や霊山信仰と関わりながら廻国修験者として教線を拡大していったことを伝えています。
先ほど触れた松堂高盛の場合にも、遠江国原田荘本郷の長福寺(静岡県掛川市)は、パトロンである原頼景らの尽力により再興されました。大日如来の開眼法要に「長福寺大目安座点眼」と題する法語が残っています。そこには「日本大小神祗」、八幡大菩薩、白山権現、遠江国一官の祭神や土地の神などが登場してきます。ここにも、禅僧の色濃い神仏習合や山林修験者の信仰がうかがえます。
禅宗の神仏習合の思潮は、禅僧たちが残した切紙からも分かるようです。
切紙とは、教義の伝授などで用いられるもので、師匠から弟子に秘密異に伝授するために一枚の小紙片に、伝授する旨を記し、弟子に与えるものです。石川県永光寺(ようこうじ)所蔵の「罰書亀鑑(ばっしょきかん)」には仏教の戒律の一つ、「妄語」戒を守る際の誓約の対象に、仏祖とともに「日本国大小神祗」や白山権現などの諸神祗があげられています。他にも「住吉五箇条切紙」「白山妙理切紙」などがあります。

禅宗の教線拡大の力となったものの一つに、葬祭活動や、信徒とのの結縁を行う授戒会(じゅかいえ)があります。
最初に見た松堂高盛は、信徒の葬儀法要に際して下矩法語を作成しています。その中にはパトロンである国人領主原氏に対するものがあります。それだけでなく農民層に対するものも含まれています。例えば「道円禅門」のように「農夫」としての56年の生涯が記されているものや、「祐慶禅尼」のように村人としての52年間の人生が記されていて、「農務」に従事していた人達が登場します。

乾坤院
愛知県乾坤院(けんこんいん)の「血詠衆」と題する帳簿や「小師帳」は、15世紀後期の授戒会の実情が記されています。その中の受戒者は水野氏のような武士層の一族からその従者、農民、酒屋・紺屋・大工などの商人、職人や女性など階層・身分の人々が登場します。
また近江の大名浅井氏の菩提寺徳昌寺(滋賀県長浜市)には、16世紀中頃の授戒会のありさまを伝える「当時前住教代戒帳」が伝わります。そこには浅井氏当主の内室をはじめとする一族、井関、北村、今井、岩手、河毛、速水などの家臣、在地武士層の一族、女性たちが参加していたことが分かります。これらの「授戒会帳」は近世以降一般的となる過去帳の原型と研究者は考えています。こうした葬祭・授戒活動を禅僧は、主催していたのです。
埼玉県東松山市正法寺に伝わる元亀四(1573)年7月1日付の「引道(導)相承之大事」が残っています。これは密教で行う口訣(くけつ)とよく似た印信(秘法伝授を証明する文書)です。葬礼の際の祭式である引導の伝授が行われていたことが分かります。禅僧にとって葬祭は、大事な活動となっていたことが分かります。

戦国時代には、僧侶による葬礼・法要が重要な習俗として浸透していたようです。
イエズス会宣教師ジョアン・フェルナンデスはキリシタンたちの行った豪華な葬式が「異教徒」にも大きな衝撃を与えたことを、次のように報告しています。
「彼らは死者のために祈り、祭式を行うことに非常に熱心であり、その資力のない者達は、僧侶を呼び盛大な消費を行うために借金をするほどです。それは魂の不滅を確信しているからそうするわけではなくて、古くからの習慣であるためであり、世俗的な評判のためである」、1561年10月8日書翰、
ルイス・フロイスは1565年1月20日の書翰で、次のように報告しています
「日本人は、大部分が死後には何も残らないと確信しており、子孫による名声において自分が永続することを望んでいるので、何をおいても尊重し、彼らの幸福の大きな部分としているものの一つは、死んだ時に行われる葬儀の壮麗と華美とにある」
ここからは次のようなことが記されています。
①当時の日本人が葬儀の壮麗さと華美を求めてること。②そのためには金に糸目をつけないこと③その理由は「子孫が名声を得ることで、自分が永続することを望んでいる」で「世俗的な評判」第1に求めていたこと
僧侶らが取り仕切る葬礼は一般人に至るまで広く習慣として行き渡っていたことがうかがえます。前回に、律宗西大寺教団が中世に死者を供来うようになったことを見ました。それが戦国期には、新仏教の禅宗や浄土真宗などにも拡がっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「 戦国期の日本仏教 躍動する中世仏教310P」




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