比叡山焼き討ちや、一向一揆殲滅作戦などから織田信長は「仏法の敵」とされてきました。しかし、これに対しては研究が進むにつれて異論が出されるようになっています。どんな所に光を当てて「信長=仏法の敵」説を越えて行こうとしているのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「一向一揆の特質 躍動する中世仏教310P」です。
躍動する中世仏教 (新アジア仏教史12日本Ⅱ) | 末木文美士【編集委員】, 松尾剛次 佐藤弘夫 林淳 大久保良峻【編集協力】 |本 | 通販 |  Amazon

まず一向一揆についての定説を押さえておきます。
一向一揆は、幕府、守護大名、荘園領主など支配者層が応仁の乱によって弱体化した状況下で、民衆の宗教運動が一揆という形をとって現れたものされてきました。この見解は、次の二つの論拠に支えられています。
①その運動や武装蜂起が浄土真宗門徒を主たる担い手としていること
②一向一揆は、統一政権の担い手として登場した織田信長に弾圧され、解体された
①については、一向一揆の場合は真宗本願寺派という教団に属する武士や「百姓」が武装峰起の担手で、これを本山の本願寺僧侶が指導するというというのがパターンとされます。そのため阿弥陀信仰が団結の核となり、一揆の紐帯となっていたとします。
②については、織田信長によって解体されたとされます。一向一揆の場合は、信長が足利義昭を擁立して入京し、将軍に就任させて間もない元亀元(1570)年、浅井・朝倉など反織田勢力の大名に呼応して蜂起し、信長との断続的な交戦を展開します。そして石山戦争の末に天正8(1580)年、本願寺の本拠地大坂を引き渡して退去するという条件で信長と講和します。これが本願寺の実質的全面降伏で、一向一揆は解体された、というのが従来の説です。しかし、近年の研究は、一向一揆を中世ヨーロッパの異端運動になぞらえたような闘争モデルを下敷きとする従来の宗教一揆像に対して、批判・再検討を加えらっれてきました。
宗教一揆の場合、その原因には次の2つが考えられます
①信仰弾圧に対して信徒が一揆を結び蜂起した護教運動
②教祖の教義に基づく宗教王国を実現しようとした王国建国運動
この宗教運動の結果、起こされるのが宗教一揆と研究者は考えています。例えば島原の乱の場合は後者になります。宗教一揆は、このどちらかを指すのが普通です。しかし、一向一揆の場合は、どちらにもあてはまらないと研究者は指摘します。「一向宗」が戦国大名から「取り締り」を受けたことは事実です。しかし、取り締まりを行った動機は、政治的要因からの本願寺教団への介入か、山伏、下級神官、陰陽師、琵琶法師など呪術的民間宗教者に対する警戒かのいずれかです。宗旨そのものに対する弾圧はなかったと研究者は考えています。別の言い方をすると、真宗の教義そのものが戦国大名に危険視された事例はないということです。
 また一向一揆を②の宗教王国運動とみることもできないとします。本願寺教団の使っていた「仏法領」の語について、かつては「本願寺門徒が現世に実現することをめざした宗教王国」を指すとする研究者もいました。しかし、これに多くの研究者は否定的です。「仏法領」については、今では次のように説明されています。

現世を否定した宗教王国を指すものではなく、現世の秩序と併存する「仏法の領分」を指すものである。世俗法の支配する領域と棲み分けられた信仰活動の領域を指し、具体的には現実の本願寺教団を指す。この世ならぬ宗教王国の理想を現世で実現する意図は、戦国の本願寺教団には見出されていない。

蓮如像 文化遺産オンライン
蓮如
一向一揆が起きるのは、蓮如登場以後のことです。
それまでは、真言門徒が武装蜂起をした例はありません。最初の例は、応仁の乱の十年程前のことで、延暦寺のお膝元である近江国(滋賀県)で起きます。背景は本願寺の教線が、自分のお膝元に近江に及んでくるのに警戒心をもった延暦寺の衆徒の反発と過剰反応です。延暦寺衆徒は、京都東山にあった大谷本願寺を襲撃・破壊し、近江の門徒にも攻撃を加えます。これが「寛正の法難」です。近江門徒の一部は、金森に集結して衆徒らと戦います。これが最初の一向一揆とされています。つまり、最初の一向一揆は延暦寺の攻撃に対して武装防衛のために立ち上がったものと云うことになります。これまでは延暦寺衆徒による本願寺破却と近江門徒への攻撃は、「顕密仏教勢力による鎌倉新仏教への弾圧」という流れの中で捕らえられてきました。
しかし、「寛正の法難」からは、従来の説とは矛盾する次のような点があったことが分かります。
①比叡山衆徒から攻撃されたのは本願寺派だけであること。
②真宗高田派については、「本願寺派とは異なる」というその主張を受け入れて攻撃していない。
③仏光寺派は天台宗妙法院の庇護によって山門の政撃を免れている。
④山門衆徒と本願寺との停戦斡旋したのは本願寺を「候人」(保護下の存在)として庇護する大台宗三門跡の一つ青蓮院であったこと。
以上からは、この争いが「顕密仏教の天台宗と鎌倉新仏教の真宗との宗派対立」という見方では、とらえきれいないと研究者は判断します。
親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年記念企画展(第91回企画展)近江堅田 本福寺 | 大津市イベント情報集約サイト

16世紀の近江国堅田の真宗寺院本福寺の記録『本福寺跡書』を見ておきましょう。
『本福寺跡書』によると延暦寺の山門衆徒にとっては、宗旨が問題だったのではなく「礼銭(示談金)」をとることが目的であったと記します。そして最終的には、次のような協約でけりがつけられています。
①蓮如の嫡子順如が本願寺後継住持の地位を放棄し、五男実如を後継者とすること、
②本願寺は延暦寺山門西塔院末として「末寺銭」三十貫を納入すること
ここには宗教的なことは何も出てきません。両者の抗争原因が、宗旨問題ではないことが分かります。実態は、幕府要人の支持を背景に教線を伸ばした本願寺教団と、それに警戒を強めた山門延暦寺との私闘と研究者は判断します。延暦寺の本願寺攻撃は「顕密仏教勢力による鎌倉新仏教教団の弾圧」というモデルには、当てはまらないことを押さえておきます。そしてこれが最初の一向一揆の登場モデルなのです。


加賀一向一揆は、現地の政治対立に関わる一向一揆でした。
それに対して、幕府の権力争いにからんで一揆が起こった例もあります。将軍家が分裂して将軍候補者二人が並立し、また幕府内最大の勢力細川家もまた分裂して家督争いを繰り返すという政治状況が、16世紀になると続きます。このような中で将軍家や諸大名と密接な関係にあった本願寺は、これに頭を突っ込んでいきます。そして、諸国の門徒に武装蜂起を指令しています。信長との石山合戦も、このような一向一揆の一つのパターンと研究者は考えています。これらを石山合戦型一向一揆としておきます。
その一例が永正3(1506)年の、永正の争乱をめぐる一向一揆です。
これは細川政元後の将軍相続をめぐる抗争で、この中で香西氏などの多くの讃岐国人衆が没落していったことを以前にお話ししました。
本願寺は足利義澄を将軍として擁立する細川政元方に荷担して諸国の門徒に蜂起を命じます。越中、越前、加賀などの本願寺門徒が政元方として戦った他、河内、丹後、能登、美濃、三河などで本願寺門徒の蜂起や足利義澄方の軍勢の侵攻で、大量の戦死者が出ています(『東寺光明講過去帳』)
 これは本願寺門徒による大規模な武装蜂起でしたが、その要因は将軍家内の対立や、幕府有力者間の政治対立への介入です。これも教義や信仰とは無関係です。「仏法」のため以外の動員はしないという原則を、蓮如はもっていました。そのため「本願寺の危機=仏法の危機」という論理を持ち出して、門徒動員を行う必要があったと研究者は考えています。ここでは将軍家や幕府内部の政治抗争に、本願寺教祖が介入し、門徒が動員されたことを押さえておきます。

こうして見ると石山合戦も幕府をめぐる権力闘争の一コマということになります。
その一方の主役が織田信長で、もう一方の主役が前将軍・足利義昭と云うことになります。本願寺が最初に信長に対して峰起したのは元亀元(1570)年のことです。信長に擁立された将軍足利義昭と信長とが畿内を制圧します。一方、信長に追い出された三好三人衆も反政を開始します。これに近江六角氏、越前朝倉氏、近江浅井氏なども続いて蜂起します。本願寺顕如は、三好三人衆を支援する反信長勢力の一員として、諸国門徒を動員します。
どうして、本願寺顕如は信長との戦端を開いたのでしょうか?
 本願寺法主顕如は、門徒に対して信長が本願寺に無埋難題をふっかけ、遂に本願寺を破却するとの宣戦を行ったたために「本願寺防衛」のために戦うと訴えています。しかし、研究者はそうした史実は見当たらないとします。織田信長が本願寺教団に圧迫を加えたことはないというのです。それまでそのような素振りを見せなかった本願寺の突然の蜂起に、信長方は「仰大した」(『細川両家記』)と記します。そもそも顕如は、当初は足利義昭を擁立した信長の人京を歓迎する旨を信長に書き送っています。ここからは、両者の間には公然たる敵対関係はなかったことがうかがえます。
 本願寺が蜂起した時、義昭・信長の軍勢は大坂本願寺近くの野田・福島に籠る三好好三人衆を攻撃中でした。そのため信長側は、本願寺に対しては全く無防備でした。信長と浅井・朝倉両氏との抗争には、近江国の本願寺門徒が浅井軍を加勢しています。また伊勢国長島願証寺が蜂起し、信長の弟織田信興を攻めて自殺させるなど本願寺は、浅井・朝倉方に味方して戦っています。更に元亀3(1571)年後半になり、武田信玄が浅井・朝倉氏と通じ、信長に叛旗を翻し、足利義昭が信玄に呼応するようになります。このような反信長包囲網が完成し、信長が圧倒的不利と見られたときに、本願寺顕如はパワーゲームに参加したことになります。しかし、信玄の病死により武田軍は撤退し、義昭は信長に敗れ京都を去り、信長は浅井・朝倉氏を滅ぼします。同盟軍を失った本願寺は信長に和睦を申し入れます。信長は、この時も了承して天正元(1573)年には、和睦が成立しています。

 ところが翌年に越前で一向一揆が蜂起します。
一揆側は朝倉氏滅亡時に織田方に寝返り、越前の大名となっていた朝倉氏家臣前波長俊を滅ぼし、越前領国を制圧します。本願寺からは一揆集団支援のために、戦闘指導者が派遣されます。この時に本願寺顕如は、織田信長に対して再度蜂起します。これに対して信長は佐久間信盛、細川藤孝、明智光秀らを大坂方面に派遣して本願寺を攻撃させます。そして自らは軍勢を率いて伊勢国(三重県)長島の一向一揆を包囲し兵糧攻めにします。ここでは信長は長島一揆側の降伏の申出を許しません。殲滅作戦を行い、降参した一揆を欺し討ちにして無差別殺戮を行い、籠城した一揆衆を焼き殺すなど凄惨な殺戮の末に、伊勢長島一向一揆を殲滅します。それにとどまらず一揆の残党を捜索して皆殺しにし、本願寺門徒を同じ真宗高田派に強制改宗させます。これは門徒に対する信仰上の迫害には違いありません。しかし、高田派も真宗です。真宗の教義それ自体を信長が敵視したわけではないことを押さえておきます。進退窮った本願寺は和睦を乞い、信長も「赦免」します。前回に続き、2度目の本願寺の停戦要望に信長は同意しています。
念慶寺縁起(8)元亀騒乱④第1次信長包囲網と一向一揆 | 速水馨のブログ

天正4(1576)年、信長から畿内追放になった足利義昭は備後国鞆に亡命し、反信長包囲網形成に尽力します。

毛利氏の庇護を受けて自分の京都復帰を支援するようにとの書簡を各地の有力戦国大名に送っています。これを受けて越後国(新潟県)の上杉謙信、甲斐国(山梨県)武田勝頼、相模国(神奈川県)北条氏政が毛利氏に呼応し、反信長包囲網が形成されます。本願寺も義昭の呼びかけに応じて信長と三度目の交戦を開始します。諸国門徒も動員され大坂石山本願寺に籠城し、信長軍とあしかけ五年にわたる戦いを繰り広げます。これを「石山合戦」と呼びます。

織田信長の天下布武

天正七(1579)年末、劣勢に立った本願寺顕如に対し、信長が朝廷を動かして天皇から本願寺・信長の和睦が勧告されます。
これを受けて本願寺は寺地を手放して大坂を退去することを代償に、本願寺教団の存続を認めることが協定で約されます。それに対して、顕如の嫡子教如を担いだ抗戦続行派の抵抗もありましたが、結局は信長に屈し、前記協定の線で石山合戦は終息します。

このような石山合戦の経過をみて、気がつくのは交戦開始は、いつも本願寺顕如側にあることです。
元亀元(1570)年の開戦
天正三(1574)年の開戦
天正四(1576)年の開戦
すべて戦いは本願寺側から戦端が開かれています。これに対して信長側から事前に、本願寺教団への弾圧があったことを示す史料はないようです。
これと対照的なのは織田信長の和睦承認や本願寺に対する「赦免」です。
①天正元(1573)年の和睦も劣勢に立った本願寺に対し信長が停戦を承認したもの
②天正三(1575)年の和睦では伊勢長島、越前では徹底した皆殺し作戦をとっていますが本願寺に対しては穏やかな「赦免」
③天正八(1580)年には、わざわざ天皇の権威を持ち出し、本願寺教団の存続を認め、さらには教如を擁立した抗戦続行派の抵抗という事態にも、これを咎めることなく和睦
最後の和睦の際に信長が要求した大坂退去は、戦国大名同士の和平協約の際の「領土の一部割譲」と同じと研究者は評します。ここからは、信長は本願寺と本願寺教団を滅亡させるために戦っていたという説は成り立たないと研究者は判断します。
天正十(1582)年2月、本願寺顕如が拠点としていた紀伊国雑賀で、在地領主同士の紛争が起こります。調停しようとした本願寺が逆に巻き込まれて窮地に立ちます。この時に信長は「門跡(顕如)」の「警固」のために、家臣野々村三十郎を派遣しています。また諸国の本願寺門徒が、顕如のいる紀伊雑賀に参詣する際の通行安全も保障しています。
古書】正徳二年板本 陰徳太平記(全六巻)米原正義 東洋書院 www.thesciencebasement.org
陰徳太平記
 織田信長が本願寺を攻撃したのは、大坂の寺地を重要戦略拠点として獲得したいと信長が望んだためだという説があります。
これは17世紀末に成立した『陰徳太平記』に始めて書かれる見解です。これが世間では定説化されていきします。しかし、信長が大坂の寺地を望んだのなら、天正元年、天正三年の本願寺が劣勢に陥って和睦を乞うた時に、信長は寺地譲与を条件とするはずです。その時点では、石山からの退出は、停戦条件となっていません。信長が大坂の寺地を和睦の代償に要求したのは、天正八年の和睦になってからです。

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 織田信長と一向一揆との敵対関係を示すものとして引き合いに出されるのは、伊勢長島一向一揆です。
しかし、近年の戦国史研究が明らかにしてきたことは、大量虐殺は戦国期の大名間の合戦では当たり前の戦術だったことです。例えば伊達政宗が天正十三(1585)年に大内定綱の軍勢が立て籠もる小手森城を攻略した際には城主・親類五百人余りを殺害し、女性、子供はもちろん犬まで無差別に殺傷しています。その結果、大内方の四カ所の城が降参し、他の四カ所は逃亡した、と政宗が戦果を誇っています。(『佐藤文右衛門氏所蔵文書』八月二十七日伊達政宗書状)、これは敵方の殲滅を意図したものではなく、戦術であり、敵方へのアピールだったと研究者は考えています。信長は一向一揆に対して降参の申し出を許したり、非戦闘員の赦免を指示したりしている事例もあります。 一向一揆との戦闘において総て皆殺しや大量殺数を指向してはいないと研究者は評します。
 また信長が無差別殺頷を行うのは、 一向一揆の場合のみならず、大名同士の合戦でもありました。ここでは、無差別殺戮戦術が信長の一向一揆対する唯一の対処法と考えるのは誤っていることを押さえておきます。ちなみに比叡山焼討も山門衆徒が、僧侶として遵守すべき中立を破り、密かに浅井・朝倉に味方したことへの報復です。宗教人や宗教集団であることが理由で行われたものではないと研究者は指摘します。
それならどうして信長が仏教を軽視し、否定的に扱ったという見解が生まれてきたのでしょうか。
確かに、信長が寺院を統制し、宗教団体や宗教勢力にある局面では敵対したこともあります。しかし一方で、仏教者や仏教寺院の特権を承認していた事例も数多くあります。当時の戦国大名は領国内で俗的支配と宗教者や宗教団体の存続との両立をめざしていました。信長の対応もその延長線上で考えるべきだと研究者は指摘します。信長は畿内の寺社領に対して、「守護不入」の特権を認め、寺院の自治を認めている例もあります。信長も、宗教者や宗教団体との共存を目指したいたと研究者は考えています。

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 信長が仏教に対して否定的だったという見解は、イエズス会宣教師の信長像によるところが大きいようです。
イエズス会は信長を自分たちの有力なパトロンとして宣教活動を進めていきます。そして、仏教諸勢力と対立し、キリシタン大名に働きかけて寺社を破壊させ、僧侶を迫害することも行っています。高山右近や小西行長の領土では、そのような動きがあったことを以前にお話ししました。そのため宣教師達は、本国への報告の際には、仏教を「偶像崇拝=迷信」と迫害する信長像のみが正義として強調されます。仏教を保護する信長の一面を伝えることはありませんでした。
   どちらにしても信長の仏教観や宗教政策は、江戸時代の仏教指導者や同時代のイエズス会の宣教師の目を通して記されたもので「色眼鏡」で見られていることを押さえておきます。織田信長が「一向一揆解体を目指して、抑圧的な姿勢で臨んだ」とされる通説には根拠がないと研究者は指摘します。

一向一揆が大名の軍勢と交戦したことも、その反権力性の証などではありません。本願寺が反信長包囲網の一員として参加したために、そのパワーゲームのメンバーとして軍事力を提供する義務が生じていたのです。同盟関係を結ぶと云うことは、義務を負わされると云うことです。政治的勢力となった本願寺顕如が取らざる得なかった外交政策の結果であるとみるほうが合理的です。
 一向一揆を反権力的で、中世ヨーロッパの異端運動とダブらせるような宗教一揆像は、どこから形成されたのでしょうか?
こうした一向一揆像は17世紀になってから歴史書に登場すると研究者は指摘します。つまり近世の創作物です。創作の要因は次の2点です。
①東西両本願寺派の正統性をめぐる論争
②江戸時代に本山が門徒たちに、先祖の篤信の物語として喧伝した石山合戦譚。
前者については、本願寺は江戸時代になって家康の宗教政策で東西両派に分裂します。その分裂要因の一つは、法主顕如とその嫡子教如との対立です。
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天正八(1580)年3月に、信長との講和に顕如とその子教如は同意します。
ところが直後に、教如はこの同意を翻し、大坂本願寺に留まり抗戦続行を諸国門徒に呼びかけます。紀伊国雑賀に退去した父顕如と、大坂に残留して信長への抗戦続行を叫ぶ教如とに教団は分裂します。この対立は、教如が信長に降伏し、顕如に詫びを入れて本願寺教団に復帰したことで収められます。しかし、教如は法主の地位を継ぐことができません。それが後の東木願寺創始につながります。こうして両本願寺が並び立ち、17世紀に東西両派はその正統性をめぐる論争を繰り広げます。
その際に、西本願寺側は教如を非難するために「鷺森(さぎもり)合戦」という事件を捏造します。その物語を見ておきましょう。
  天正十年(1582)6月2日未明の本能寺の変の時に、信長は子の信孝に鷺の森を制圧するよう命じていたという。『陰徳太平記』巻第六十七「紀州鷺森合戦並本願寺表裡分派事」に次のように記述されています。
 天正十年6月3日の早朝、織田勢先鋒の信孝殿の兵が「鷺の森」に押し寄せてきた。この地にとどまる門徒らは、如来の助けや祖師のご恩に報いるために、骨が砕かれ身が裂かれても惜しくはないと思っていた。恐れるものがないので、これが最後だと決心して大砲を構え、さんざん撃ちまくったところ、寄手は、踏ん張ったけれども楯や竹束が打ち壊され、たまらず数十町引き下がった。一息ついて、また敵が押し寄せるかと思っていると、巳の刻のころに寄手は陣を引き払って大坂に退いてしまった。だが、こんなに急に退くとは思わなかったので、後追いすることはしなかった。これほどの勢いで攻め寄せ、先鋒が鉄砲を突き付けておきながら急に引き返したことは、どうにも解せなかったが、後から聞くと、信長公が殺されたとの報告があったために、そうなったとのことだ。
こには教如の違約に遺恨をもった信長が、密かに本願寺を滅ばそうとして軍勢を派遣したという物語です。顕如上人は危機一髪のところを御仏の御加護により助かった、というオチです。これを事実として西本願寺は喧伝し、教如は本願寺教団を危機に陥れた張本人である批判・攻撃します(『本願寺表裏間答』)。
 この物語で研究者が注目するのは、次の二点です。
①本願寺に敵意のなかった信長が教如の違約を恨み本願寺職滅を企てたこと
②信長の怒りには顕如もまた共感を示して教如を非難したとして、教如の違約を批判していること
この物語を捏造した西本願寺側には、違約でもない限り信長が本願寺を敵視するはずがないと認識していたことが前提としてうかがえます。ところが反論する東本願寺も、再反論する西本願寺も、信長はもともと本願寺を敵視し、滅ぼす意図があったとの言説を論争の中で創り出していきます。信徒が求めていたのは、信長と戦う先祖門徒の活躍する英雄譚だったのです。そのために、「明智軍記』『陰徳太平記』など一般読者を対象とする軍記物に「鷺森合戦」が取り入れられるようになります。この過程で、本願寺門徒は言うに及ばず、世間的にも「本願寺に敵対的な信長像」が定着したと研究者は考えています。こうして、本山側が門徒に行う説教にも「信長=仏教破壊者・本願寺の敵」として流布されるようになり、唱導本にこの文脈で石山合戦譚が取り入れられます。こうして「本願寺潰滅を期す信長」という信長像は、東西本願寺の論戦を離れて一人歩きするようになります。両本願寺の門徒集団の中で「石山合戦は、法敵信長と篤信で本山に忠義な門徒との合戦物語」として語り継がれるようになります。
 軍記物に、篤信門徒の武装蜂起として「一向一揆」の言葉が登場するのは、18世紀になってからです。
こうして一向一揆像は、戦後歴史学でも十分な検討なしに受容されていきます。民衆の宗教運動である一向一揆の蜂起と、天下人・織田信長による圧殺という筋書は、こうして通説化します。信長の実像は、近世に伝えられた虚像のむこうにあります。その全貌はなかなか見えてこないようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
一向一揆の特質 躍動する中世仏教310P