一遍の踊り念仏が民衆に受け入れられた理由のひとつに「祖霊供養のために踊られる念仏踊り」という側面があったからだと研究者は考えているようです。
それを今回は、一遍上人絵伝に出てくる近江の関寺で見ていくことにします。テキストは、「大森恵子 信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。
それを今回は、一遍上人絵伝に出てくる近江の関寺で見ていくことにします。テキストは、「大森恵子 信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」です。
浜から関寺の間の両側の家並みが大津の街並みになるようです。ほとんどが板葺き屋根です。その中でとりつきの家は入母屋で、周りに生け垣がめぐらしてあり、有力者の家のようです。大津が琵琶湖の物産集積港として繁栄して様子が見えてきます。その港の管理センターの役割を果たしていたのが関寺のようです。
④関寺の築地塀沿いには、乞食達が描かれています。前身に白い包帯を巻いたハンセン病患者もいます。大きな寺院は、喰いあぶれた弱者の最後の避難場所でもあったようです。その前を俵を積んだ荷車が牛や馬に引かれて行き交っています。
門の向こう側にあるのが番小屋です。番小屋の中には白幕が張られて、中には二人の僧がいます。ここで研究者が注目するのが、裸足の男が差し出している白いもの(米?)です。参拝客からの喜捨でしょうか。境内ではなく、、門外で収めています。そして、この小屋の手前の壁に、▲頭の4本の棒が立て掛けられています。
大津の関寺番小屋に立て掛けられた卒塔婆(一遍上人絵伝)
よく見ると大小の卒塔婆のようです。研究者はこれを「木製柱頭五輪(高卒都婆)」と判断します。そうだとすると、この関寺では先祖供養のために「塔婆供養」が行われていたことになります。その供養のための喜捨受付が、この小屋だったようです。ここでは、卒塔婆の存在を押さえておきます。 多くの参拝社たちが境内に入っていきます。中では何が行われているのでしょうか。巻物を開いていくと見えてくるのは・・・
関寺の踊り屋
池の正面は本堂です。そこには圓城寺からやってきた白い僧服の衆徒達が肩をいからせて見守ります。その中に、稚児らしき姿もあります。寺の山法師立ちが見守っています。奇妙なのは本堂の建物です。よく見ると床板もないし、壁もありません。仮屋根はありますが柱組だけなのです。どうやら関寺は造作中だったようです。そのため勧進が行われていたようです。それが、先ほど見た門前の受付小屋だったのかもしれません。
大津の関寺全景
詞書は、次のように記します。
圓城寺の衆徒の許可が下りて、関寺での踊り念仏が許可された。最初は7日間の行法予定だったのに、(踊り念仏目当ての)多くの人々の参拝があり、27日間に延長されて「興行」された。
つまり、関寺改修の勧進興行として、踊り念仏が27日間にわたって興行されたのです。それを、民衆や圓城寺の衆徒も見物しているようです。ここからは、
①関寺では本堂改築資金集めのために勧進が行われていたこと②踊り念仏は「勧進興行」として資金集めのために長期間踊られたこと
そうだとすると時衆僧は、勧進僧としての性格も持っていたことになります。以上を整理すると
①山門を入る右側に卒塔婆が四本立てられていたこと。②縁側で二人の僧が俗人から骨壷を入れた灯籠型の飾り箱を受けとっていること。③死者供養が行われる伽藍中央に仮屋が建てられ、念仏踊りが踊られていること。
この3点を結びつけると、納骨を受け付けた後で、供養塔婆を立てられ、念仏踊りが、死者供養のために踊られていたと研究者は判断します。
今度は石清水八幡詣の際に、淀の上野で踊り念仏をしている場面を見ておきましょう。
踊屋の構造は切妻板屋の簡単な作りです。高床を張った舞台では、 一遍をはじめ、時衆僧たちが鉦を打ちながら、無我の踊りに興しています。そのまわりには、念仏踊りを見るために多くの人々がさまざまないでたちで集まっています。踊り屋の周辺には、例によって乞食小屋が、いくつもかけられています。
これを裏付けるのが『一遍上人絵伝』の第十二の次の記述です。
上野の卒塔婆(一遍上人絵伝)
右下から田園の中をくねりながら続く街道には、いろいろな人達が行き交っています。柳の老樹の下には茶店もあります。小板敷きの上には、椀や皿が並べられています。研究者が注目するのは、この茶屋から街道沿いに並んでいる何本かの棒です。これは先ほど大津の関寺で見た高卒塔婆(木製柱頭五輪塔婆)のようです。数えると9本あります。 一遍は、ここでも人々から死者供養の申し出を受け付け、死霊鎮塊のための踊り念仏を催したと研究者は考えています。これを裏付けるのが『一遍上人絵伝』の第十二の次の記述です。
廿一日の日中のゝちの庭のをどり念仏の時、弥阿弥陀仏聖戒参りたれば、時衆皆垢離掻きて、浴衣着てくるべき由申せば、「さらばよくをどらせよ」と仰らる。念仏果てて皆参りて後、結縁。」
ここで一遍は自分の臨終に際して、時衆聖たちに、庭で踊り念仏を行うことを許可しています。踊り念仏は、死者を極楽浄上に導く呪法とも信じられたことがうかがえます。一遍の時衆の中で姿を見せた死者供養のための踊り念仏は、その後にどのように受け継がれ、姿をどう変えていくのでしょうか?
戦国時代になると人々は、来世の往生菩提を願って生存中に供養塔を立てたり、石灯籠や石鳥居を寄進するようになります。
また六斎念仏の講員となって念仏を唱えることもしています。それは生前に「逆修」の功徳を得ようとしたからです。奈良県や大阪府では、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初頭の年号をもつ石造物は、「逆修」供養の目的で建てられたものが多いことからもこのことは裏付けられます。
ちなみに、六斎念仏にも歌う念仏と踊る念仏があります。
また六斎念仏の講員となって念仏を唱えることもしています。それは生前に「逆修」の功徳を得ようとしたからです。奈良県や大阪府では、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初頭の年号をもつ石造物は、「逆修」供養の目的で建てられたものが多いことからもこのことは裏付けられます。
法然上人逆修塔(善通寺東院)
千利休が天正十七年(1589)に記した寄進状にも、「(略)一、利休宗易 逆修 一、宗恩 逆修(略)利休宗恩右灯籠二、シュ名在之」とあります。ここからも16世紀後期には、逆修信仰が盛んであったことがうかがえます。ちなみに、六斎念仏にも歌う念仏と踊る念仏があります。
逆修供養の石造物の碑文に見える「居念仏」が歌う念仏で、「立念仏」が踊る念仏です。居念仏と立念仏が出現した時期は、ちょうど逆修供養が流行した時期と重なります。そして、次のような「分業」が行われていたと研究者は推測します。
①居念仏は老人や長老が当たり、座ったままで念仏を詠唱し②立念仏衆は若者が担当分業
その後、立念仏の方で風流・芸能化が進みます。その方向性は、
①念仏に合わせて素朴に踊る大念仏から
②種々の被り物や負い物、採り物を身に付けて踊る風流念仏・風流大念仏へと「発展」していったと研究者は考えています。
①念仏に合わせて素朴に踊る大念仏から
②種々の被り物や負い物、採り物を身に付けて踊る風流念仏・風流大念仏へと「発展」していったと研究者は考えています。
「歌う念仏」から「踊る念仏」への変遷には、どんな背景があったのでしょうか。
①戦死者の霊を供養したり自分の死後を弔うために、死霊を鎮める呪術である六斎念仏が好んで修され、②それが次第に集団の乱舞に変わっていった
逆修供養の目的で踊られる六斎念仏は、自らの死後の供養を目的として自らが念仏を唱えながら踊るものです。『一遍聖絵』に描写された踊り念仏の踊り手自身は、自己陶酔して、反開を踏みながら旋回しています。一方で時には、念仏を唱えるだけで踊らず、他者に自分の死後の供養のためになんらかの代償を渡して、踊り念仏を修してもらうこともあったかもしれません。そうだとすれば、踊り念仏は「生まれ清まり」「擬死再生儀礼」のひとつの形だったともいえます。
以上をまとめておくと
①一遍によって布教手段として踊られたのが踊り念仏
②それが時衆聖たちが逆修・死者供養の両面から民衆を教化するようになる。
③その結果、元寇という対外危機の恐怖や不安から人々を救う手段として、聖たちは踊り念仏は頻繁に開催するようになった。
④それを見物した人々の間に踊り念仏が流行するようになり、芸能化・風流化した踊り念仏が全国で踊られるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大森恵子 信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」
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一遍聖絵を読むNO11 丹波久美での踊り念仏は、悪霊・祖霊などを鎮め祀る呪的乱舞であった。
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大森恵子 信仰のなかの芸能 ―踊り念仏と風流― 踊り念仏の風流化と勧進僧123P」
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