弘法大師と衛門三郎(徳島県杖杉庵)
弘法大師伝説の中で、有名なものが遍路の元祖とされる衛門三郎伝説です。
これは四国八十八筒所霊場51番石手寺の「石手寺刻板」(予州安養寺霊宝山来)に、天長8年(831)のこととして記載されています。真念の『四国遍礼功徳記』に、次のように記されています。(意訳)
予州浮穴郡の右衛門三郎は貪欲無道で、托鉢に訪れた僧の鉢を杖で8つに割ってしまう。その後、8人の子が次々に亡くなり、それが僧(実は弘法大師)への悪事の報いであると悟った衛門三郎は、発心して大師の跡を追い四国遍路に旅立つ。21回の遍路で、ついに阿波国の焼山寺(四国霊場第12番)の麓で、臨終に大師と出あい、伊予の領主河野家に生まれ変わることを願う。大師は石に衛門三郎の名前を書いて手に握らせた。その後、河野家にその石を握った子が生まれる。その子は成長して河野家を継ぎ、安養寺を再興して、神社を多く立て、その石を納めて石手寺と寺名を改めた。
「四国辺路日記」の「石手寺」項には、次のように記されています。
「扱、右ノ八坂寺繁昌ノ御、河野殿ヨリモ執シ思テ、衛門三郎卜云者ヲ箒除ノタメニ付置タル.毎日本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ。此男ハ天下無双ノ悪人ニテ怪貪放逸ノ者也」
意訳変換しておくと
「八坂寺の繁昌に対しては、太守河野殿からも保護援助があり、衛門三郎という云者を掃除のために八坂寺に付置き、毎日本社の長床の塵を払わせた。この男は天下無双の悪人で怪貪放逸の者であった」
ここには、衛門三郎のことを大守河野殿の下人で「本社ノ長床二居テ塵ヲ払フ」=「石手寺の熊野十二社権現の掃除番」=「長床衆(修験者)」と記します。また、石手寺に伝わる衛門三郎伝説は熊野信仰隆盛の中で作られたもので、衛門三郎伝説に八坂寺、焼山寺など熊野信仰が濃厚にみられる寺院があらわれるのは当然のことです。もともとは衛門三郎伝説は石手寺の熊野信仰の由来でした。それが江戸時代に「大師一尊化」が進むと、四国遍路の由来を説明する説話に作りかえられたと研究者は考えています。
衛門三郎伝説は、現在の八坂寺の縁起には詳しくふれられていません。
しかし、八坂寺には2種類の「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が残されています。これはかつては八坂寺が、弘法人師と衛門三郎の伝説を重要視して積極的に流布していた証拠とも云えます。今回は、八坂寺の2種類の刷り物「弘法大師と衛門三郎」を見ていくことにします。テキストは、今村 賢司 「弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺 四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年」です。
八坂寺版「弘法大師と衛門三郎」の刷り物Aを見ておきましょう。
この大きさは縦82,5㎝ 横33㎝ 軸鼻含37㎝で、
右側に「大師修行御影 八坂寺」と記された修行姿の弘法大師像が立姿で左側に衛門三郎像が座って描かれています。朱印が押されているのが、右上側に札所番号印「四十七番」と宝印(菊桐重ね紋)、下部に寺印・山号印「熊野山妙見院」です。銘文は次のように記します。
【銘文l
四国拝祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎大師二十一遍目 御たいめん(対面)なされ候時姿弘仁六乙未より安永五申迄千八十六星至ル
何が描かれているかを、研究者は次のように説明します。
①右側の弘法大師は「修行大師像」は立像で、大師の視線の先には「衛門三郎」がいて、寄り添うような構図である。②大師は法衣姿で墨の等身、垂領、有襴、袈裟を巻いてかける。頭巾(立帽子)を被り、右手に杖、左手に念珠、脚絆を巻き、草韓をはく.穏やかな表情③衛門三郎像は磐座に腰かけ、巡礼姿で正面を向く。長髪、額に彼、眉毛や目がさがり、虚ろなまなざし、頬がこけ、髭を生やし、口をへの字に曲げる。胸前には首から紐を掛けた「札はさみ」とと、左手で負俵を抱えているて、右手に杖(自然木)、足に脚絆を巻き、草軽(足半)をはく。④衛門三郎は札挟み、負俵、杖、足半などの巡礼用具を身に着けているが、菅笠は描かれていない。
⑤彩色されていなので、白装束かどうかは分からない。巡礼者が衣服の上に着る袖無しの笈摺も描かれていない。
この刷り物の舞台は、いつ頃のものなのでしょうか
銘文に、次のようにあります。
「四国舞祀伊豫松山八っつか(束)右衛門三郎」「大師廿一遍日御たいめん(対面)なされ候時姿」
ここからは、伊予国松山の八塚衛門三郎が四国巡拝21遍目に弘法人師に対面した時の姿が描かれていることが分かります。そのためか、弘法大師と再会を果たした衛門三郎は疲弊して後悔に満ちた表情で、懺悔の念を全身で表しています。
衛門三郎が弘法大師と対面した場所は、徳島の焼山寺の麓にある番外霊場の杉杖庵(徳島県名西郡神山町)とされます。阿波でも「弘法大師と衛門三郎」の刷り物が発行され、そこには同じように衛門三郎と大師が再会する場面が描かれています。同じ刷り物が八坂寺でも摺られていたことを押さえておきます。
銘文にある「弘仁六乙未る安永五申迄千八十六星至ル」について、見ておきましょう。。
安永元年(1772)に鋳造された八坂寺の梵鐘銘には「四州四十七番札所予州松府城南 高祖弘法大師霊刹」とあります。しかし、それ以前の八坂寺史料には弘法大師は出てきません。出てくるのは熊野信仰なのです。ここから八坂寺が自らを四国霊場の札所として称するようになったのは近世半ばになってからと研究者は指摘します。
八坂寺の木札や梵鐘銘などからは、この頃に八坂寺の伽藍整備や寺史整理が行われていたことが分かります。熊野信仰の影響を受けた修験寺院であった八坂寺は、この時期に四国八十八箇所霊場の札所へと、立ち位置を移していったようです。そのような中で、弘法大師と衛門三郎ゆかりの霊場であることを強く主張するようになります。この刷り物Aは、そうした背景のもとで製作されたものと研究者は考えています。
それでは刷り物Aの製作時期は、いつなのでしょうか。
それでは刷り物Aの製作時期は、いつなのでしょうか。
この点について手がかりを与えてくれるのが、今回の調査で発見された下の版木です。
弘法大師修行御影の版木
先ほど見た「弘法大師と衛門三郎」の刷り物の右側の弘法大師立姿と、瓜二つです。大きさも一致するようです。とすると、この版木から先ほどの刷り物Aは摺られていたことになります。つまり、刷り物Aは、一体型の版木ではなく、2つの版木を組み合わせて刷られたのです。ちなみに、左側の衛門三郎像の版木は見つかっていないようです。表面は「大師修行御影 八坂寺」と刻まれ、裏面は「文政七申年九月吉祥日 四国第四拾七番熊野山八坂寺什物判」と墨書
ここからは、文政7年(1824)に彫られた版木であることが分かります。以上から「刷り物A」は、八坂寺所蔵の「大師修行御影」版木で、文政7年(1824)以降に摺られたと云えそうです。
こうして八坂寺で摺られた「弘法大師と衛門三郎」の版画は、参拝土産と売られたり、修験者によって配布されたことが考えられます。どちらにしても、八坂寺にとっては、非常に重要な版木であったはずです。それが、幕末には姿を見せていたことを押さえておきます。
「弘法大師と衛門三郎」刷り物B
もう一枚の「弘法大師と衛門三郎」刷り物Bを見ておきましょう。
大きさは縦36㎝横26,3㎝です。構図は先ほど見た「刷り物A」とほぼ同じです。銘文及び絵像の内容を見ておきましょう。
意訳変換しておくと伊豫国下浮穴郡恵原郷ノ産ニテ八ッ束右エ門三郎ハ当山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ為菩提請願ノ四國八十八ヶ所順逆舞礼遍路ヲ始ム姿ナリ 満願シテ同國旧領主河野伊豫ノ守ニ二度生レ替ル人餘此二略ス弘仁六乙未年
伊豫国下浮穴郡恵原郷生まれの八ッ束衛門三郎は、当山八坂寺で、弘法大師の御教喩を受けて、善道に立直り改心して四國八十八ヶ所巡礼遍路を始めた。その姿を描いている。満願適い伊予の旧領主河野守に生まれ変わることがでした。その他のことは省略する。弘仁六乙未年
構図を見ておきます
刷り物Aと構図や装束は、ほとんど同じです。異なるの次の2点です
①衛門三郎の表情が、衛門三郎像が発心して四国遍路を始めようとする姿なので、険しい決意の表情で描かれている②首から掛ける札挟みは「札バセ」と書かれている。
刷り物Bは刷り物Aに比べると、衛門三郎伝説が次のようにより詳しく記されています。
①「八ツ束右工門三郎」は伊予国下浮穴郡恵原の出身である②当山(八坂寺)で、弘法大師が衛門三郎に対して教え諭した。③衛門三郎は善道に立ち直り発心した④菩提請願のために四国八十八箇所を順打ち・逆打ちして拝礼した⑤刷り物Aは、衛門三郎が遍路を始める姿である⑥衛門三郎は願いが満たされ、伊予国領主河野伊予守に生まれ変わった
文末に「その他は略した」と記されています。省略された点を補足すると次の通りです。
①貪欲無道の衛門三郎の性格②大師の托鉢を拒んだこと③大師の鉢が割れた後に衛門三郎の人人の子が亡くなること④弘法大師への悪事の報いであると悟ること⑤四国遍路を21回行ったこと⑥焼山寺の麓で大師と再会したこと⑦臨終の衛門三郎は、大師か為石を手に握らされたこと⑧安養寺から石手寺と改称したこと。
八坂寺に関係しない細部のストーリーが省略されています。八坂寺が舞台となる部分だけを切り取っているのです。八坂寺にとって、焼山寺の麓(杖杉庵)や石手寺の話は必要ないのです。中でも、研究者は注目するのは「当山山ニヲイテ弘法大師御教喩有り依テ弥善道二立直り奎心致シ」とあることです。衛門三郎は、当山(八坂寺)で弘法大師の教えと導きによって四国遍路を始めたと主張されています。つまり八坂寺自身が「衛門三郎の発心の旧跡」であると云っているのです。この認識の上で八坂寺は、刷り物を発行していたのです。刷り物Bは、衛門三郎が発心して遍路を始める姿であることを押さえておきます。
刷り物Bの制作時期についての手がかりは、銘文に「下浮穴郡」とあることです。
ここからは、下浮穴郡が発足する明治11年(1878)以降のものであることが分かります。明治になって神仏分離後の八坂寺が四国霊場の札所として衛門三郎発心の旧跡であること主張し、それを広めていたことが分かります。
ここからは、下浮穴郡が発足する明治11年(1878)以降のものであることが分かります。明治になって神仏分離後の八坂寺が四国霊場の札所として衛門三郎発心の旧跡であること主張し、それを広めていたことが分かります。
同じような資料として、研究者が挙げるのが調査で確認された版木の「大師堂再造勧進状」(明治期)です。その冒頭に次のように記されています。
「夫当山ハ四国八拾八箇所霊場順拝開祖八束右衛門三郎初発心奮跡ナリ」
大師堂再建にあたって、八坂寺が衛門三郎発心の旧跡であることが主張されています。また、納経印にも次のように刻されています。
「奉納経 弘法大師宝前 四国八十八(ヶ)所順舞遍路開基 八(ッ)津(ヶ)右ヱ門二(ママ)破心旧跡 事務所」
この勧進状にも、八坂寺は衛門三郎発心の旧跡と記されています。その一方で、熊野権現については何も触れていません。明治になって、八坂寺の縁起の中心が熊野権現から衛門三郎に変更されていくプロセスが見えてくるようです。
以前に八坂寺の縁起はよく分からないことをお話ししました。
江戸時代初期には、八坂寺は、衛門三郎発心の旧跡とは書かれていません。ところが明治12年(1885)の「寺院明細帳」には「四国八十八箇所順拝遍路開基八ツ束右工門三郎初発心ノ旧跡所也」と記さています。そして、明治・大正時代の案内記には、これが定番になっていきます。こうした背景には、明治元年(1868)の神仏分離令に続き、明治5年(1872)に修験宗廃止令が出されて修験道が禁止されたことがあるようです。近代の八坂寺は、熊野信仰よりも四国八十八箇所霊場の札所寺院として立ちゆくことを戦略とします。そして、その中心に「衛門三郎発心の旧跡」という縁起を据えたのです。そうすることで、衛門三郎伝説の始まりの聖地として、より多くの遍路や参詣者を誘い、大師堂再建などの勧進などにも役立てようとしたのでしょう。江戸時代末の刷り物Aから明治のBへの変化は、そのような八坂寺の戦略変化を反映したものと云えそうです。
以上をまとめておきます。
①八坂寺はもともとは、熊野信仰の影響が強い修験寺院であった。
②八坂寺は、ふたつの「弘法大師と衛門三郎」の刷り物を発行している
③刷り物Aは、八坂寺に残る文政7年銘「大師修行御影」版本から刷られたもので、江戸時代後期の製作と考えられる。
④刷り物Aは、遍路の参拝土産や、修験者が配布することで広められた
⑤明治になると、八坂寺は神仏分離政策で熊野神社を奪われた。そのため寺の存在意義を四国霊場に移した経営戦略をとるようになった。
⑥その一環が、「衛門三郎発心の旧跡」という主張で
⑦これに合わせて、刷り物Bは戒心した衛門三郎が八坂寺から遍路に出立するものへと解釈変更が行われた。
⑧それが昭和以降は「衛門三郎から役行者」へと移り変わる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献
今村 賢司(愛媛県歴史文化博物館 専門学芸員)
「 弘法大師と衛門三郎」の刷り物と八坂寺 四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺229P 愛媛県教育委員会2023年
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