讃岐への真宗興正派の伝播を追いかけているのですが、その際の布教方法が今ひとつ私には見えて来ません。そんな中で出会ったのが   千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66Pです。

千葉乗隆著作集 (2) | 千葉 乗隆 |本 | 通販 | Amazon
飛騨の山村に、真宗教線が伸びていくときに重要な役割を果たしたのが「毛坊主」のようです。今回は、毛坊主と道場、その寺院化がどのように進められたのかを見ていくことにします。

笈埃随筆

江戸時代の飛騨の毛坊主について、百井塘雨の「笈埃(きゅうあい)随筆」には、次のように記されています。

「 当国に毛坊主とて俗人でありながら、村に死亡の者あれば、導師となりて弔ふなり。是を毛坊主と称す。訳知らぬ者は、常の百姓より一階劣りて縁組などせずといへるは、僻事(ひがごと)なり。此者ども、何れの村にても筋目ある長(をさ)百姓にして田畑の高を持ち、俗人とはいへども出家の役を勤むる身なれば、予め学問もし、経文をも読み、形状・物体・筆算までも備わざれは人も帰伏せず勤まり難し。」
意訳変換しておくと
「飛騨には俗人でありながら、村に死者が出ると導師として供養する毛坊主という者がいる。事情を知らない者は、普通の百姓よりも劣る階層で、これとは縁組などは行わないという者もいるが、これは、僻事(ひがごと)である。毛坊主は、どこの村でも筋目のある長(おさ)百姓で、普通以上の田畑を持つ。俗人とはいっても僧侶の役割を務めるので、学問もし、経文も読み、形状・物体・筆算までも身につけた教養人である。そうでなければ、門徒からの信望をえることはできず、務まるものではない。

ここからは、次のような事が分かります。
①毛坊主は剃髪することなく、家庭や社会を捨て去ることもなく、それまで通りの生活を送りながら仏道に生きる人たちだったこと
②しかも、毛坊主たちは、村の政治家・教育者・医者として積極的に地域社会をリードしようとする村々のリーダーでもあったこと
③同時に、彼らは教養人であり、社会事業者でもあったこと

 地域社会のリーダーが毛坊主となることは、本願寺蓮如の方針だったと研究者は指摘します。
もともとの毛坊主の源流は親鸞までさかのぼるようです。親鸞の教えは、家庭を捨て社会を離れ僧になって寺に入ることに、こだわりません。農民・猟師であろうと、官仕であろうと、念仏するものはみな等しく救われるという教えです。つまりそれまでの俗生活を送りながら、仏になる道が歩めました。
 親鸞は阿弥陀仏の救いの対象は、愚かな人たち、つまり凡夫であるとします。凡夫とは「行心、定まらず、軽毛の風に随って東西するが如し」と、世の苦しみ悩みにさいなまれ、羽毛が風にふかれるように、あてどなく右往左往する人間のことです。別の言葉で言うと、戒行を堅持して悟りを開こうという聖道教からは見放された人たちです。そのため、凡夫をめあてとする親鸞の門弟は、庶民階層とくに農民に信者が多かったようです。

 建長7年(1255)頃、念仏者に弾圧が加えられようとした時、親鸞は、次のように説きます。
念仏を弾圧する地頭・名主たちの行いは、釈迦の言葉にもあるように末世に起こる予想されたことである。彼等を怨むことなく、ふびんな人間であると、あわれみをかけよ。彼等のために念仏をねんごろにして、彼等が弥陀の本願のいわれをききわけ、救われるようにしてやれ。

この時点では、地頭・名主という地域社会の政治支配者は、念仏する農民にとっては、対立者としてとらえられています。しかし、もともと親鸞にとっては、どんな階層の人達も弥陀の救いの対象になり得る存在です。共に念仏する人は、貴族・武士・商人・農民みな同朋同行なのです。そこで布教戦略としては、まず念仏を弾圧する地頭・名主にも弥陀の本願をききわけるよう働きかけてやるべきだとします。
 これを受けて蓮如は、村の坊主と年老と長の3人を、まず浄上真宗の信者にひきいれることを次のように指示しています。

「此三人サヘ在所々々ニシテ仏法二本付キ候ハヽ、余ノスヱノ人ハミナ法義ニナリ、仏法繁昌テアラウスルヨ」

意訳変換しておくと
各在所の中で、この三人をこちら側につければ、残りの末の人々はなびいてくるのが法義である。仏法繁昌のために引き入れよ

 村の政治・宗教の指導者を信者にし、ついで一般農民へひろく浸透させようという布教戦略です。
蓮如がこうした伝道方策をたてた背景には、室町時代後期の村々で起こっていた社会情況があります。
親鸞の活躍した鎌倉時代の関東農村にくらべ、蓮如活躍の舞台となった室町後期の近畿・東海・北陸は、先進地帯農村でした。そこでは名主を中心に惣村が現れ、自治化運動が高揚します。このような民衆運動のうねりの中で、打ち出されたのが先ほどの蓮如の方針です。彼の戦略は見事に的中します。真宗の教線は、農村社会に伸張し、社会運動となります。惣村の指導者である長百姓をまず門徒とし、ついで一般の農民を信者にしていきます。その方向は「地縁的共同体=真宗門徒集団」の一体化です。そんな動きがの中で村々に登場するのが毛坊主のようです。
   毛坊主は、飛騨・美濃・越前・加賀などの山村の村々に、現在も生きつづけているようです。研究者が、その例として取り上げるのが岐阜県大野郡の旧清見村です。
清見村は広大な面積がありますが、人口はわずか2千人たらずで、17集落に分かれて点在します。各集落があるのは白川街道と郡上街道沿いで、地図のようにそれぞれに道場(寺)があります。
そこでは、次のような蓮如の伝道方策が実行されます。
①まず村の長百姓を真宗門徒に改宗させ
②蓮如から六字名号(後には方便法身の絵像本尊)を下付され
③それを自分の家の一室の床の間にかけ、
④香炉・燭台。花瓶などを置き、礼拝の設備を整える。
⑤これを内道場または家道場という
⑥ここで長百姓が勧誘した村人たちと共に、念仏集会を開く。
⑦その際、長百姓はいわゆる毛坊主としてその集会の宗教儀礼を主宰する。
⑧やがて村人の中に真宗信者が多くなると、長百姓の一室をあてた礼拝施設は手狭となる。
⑨そこで一戸建の道場が、村人たちの手によって造られる。これを惣道場と称する。
⑩この惣道場でも長百姓は毛坊主として各種の行事をリードする。

飛騨の毛坊主が蓮如に引見するときには、仲介の坊主が必要でした。
これを手次の坊主と云います。
飛騨の場合は、白川郷鳩谷の照蓮寺が手次を務めます。

照蓮寺(岐阜県高山市)】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
照蓮寺

照蓮寺は越後浄興寺の開祖善性の子善俊(嘉念坊)が創始したと伝えられる寺です。善俊は、はじめ美濃国白鳥に道場を構えますが、やがて北上して飛騨国鳩谷を拠点に布教したようです。

「草に風をくはふるが如く、人悉く集り、国こぞりて帰依し、繁昌日々に弥増て」

とあるので、多くの真宗門徒が結集し、「終に当国の真宗道場の濫腸」となったと伝えられます。
以上をまとめておくと、文明年間に飛騨国では、照蓮寺を手次に蓮如から本尊の授与をうけ道場を開設した者が多数います。清見村の道場もすべて照蓮寺を手次としていることが、それを裏付けます。これが後の時代には、中本寺の役割を果たすようになります。真宗興正派の讃岐布教センターとなった阿波の安楽寺や、三木町の常光寺が私にはイメージされます。

図026 野尻道場の平面見取図
野間道場の平面見取図

 惣道場が設立されると、この時点では全村民が真宗門徒となっていました。
そうなると道場の行事は、単なる宗教行事だけでなく、村の共同事業などすべて惣道場で相談して行われるようになります。惣道場は信仰だけでなく、村の議決機関としての役割も果たすようになったのです。
 こうして江戸時代中頃になると、惣道場は、本寺から木彫の阿弥陀仏像(木仏)を下付され、寺としての形態を整え、寺号を名乗るようになることは、まんのう町の尊光寺を例にして、以前にお話ししました。飛騨の真宗寺院が他と違うのは、寺を管理し儀礼を執り行うのは、相変わらず毛坊主だったことです。飛騨では、毛坊道場が寺院へ移行したあとも、毛坊主が門徒集団を指導していたことを押さえておきます。
福井県 浄土真宗唱える施設「道場さん」の現状とは 使われる建物、地域性豊か|北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ
越前の真宗道場
 この時期には、道場だけでなく有力門徒の中にも手次寺を通じて蓮如や実如の名号を授与されているものがいたことが残された各家に残された名号から分かります。

 以上をまとめておきます。
①道場とは、六字名号を掲げ、それを自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花瓶などを置き、礼拝の施設を整えたもの。
②村人たちは、村長(むらおさ)を先達として正信偈をとなえ法話を聞く。この導師を毛坊主と称した。
③毛坊主は普段は百姓をしながら、村に葬儀や法事には導師をやっていた。
④江戸時代に本末制度が調えられると、本寺から六字名号や寺号を得て寺院化する所も現れた
⑤しかし、門徒の少ない所ではそのまま道場として存続した
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献         千葉乗隆 飛騨国清見村の毛坊道場  地域社会と真宗66P
関連記事