
私が好きな絵巻縁起の中に、粉河(こかわ)寺縁起があります。アマゾンで450円で売り出されていたので、買い求めて眺めています。素人が見ていても楽しくて、しかも中世史料としても役立ちます。今回は、この巻頭の猟師の家を見ていこうと思います。テキストは「倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」です。
この絵巻の前半は、紀伊国那賀郡の猟師大伴孔子古(くすこ)が観音の奇瑞により発心し、粉河寺の本尊千手観音が出現する由来です。『粉河寺縁起』の詞書には、次のように記されています。
〔第一段〕(詞書欠失) 兵火で巻頭焼失〔第二段〕さて、七日といふに、件の所に行きて見れば、少し分も違はず、開けたる所もなし。さて、開けて見れば、等人(↓身)におはします千手観音一体、きらきらとして立たせたまへり。仕置きたる童は見え給はず、身を寄せ、すきな口‐‐□物したためたる跡も、屑もなし。猟師あやしみ、深く悲しむ。この由を妻に語りて、うち具しつつ参り、近辺の者共にも、この由を言ひちらして、各々参り、帰依し奉りけり。
第一段を補足して、意訳変換しておくと
紀伊国那賀部の猟師(大伴孔子古)が、山の木の間に据木を設けて、その上に登り、夜ごとに猪や鹿をねらっていた。ある夜、光り輝く地を発見、そこに柴の庵を建て、仏像を安置したいと願っていた。すると、一人の童(わらわ)行者が家にやって来て、猟師の願いをかなえる、と約束して七日の間、庵にこもった。…約束の七日日(正しくは八日目)の朝、猟師が庵に行くと、童行者の姿は見えない。扉を開けると、中に等身の千手観音像が立っていた。猟師は喜び、これを妻や近隣の人々に語ったところ、人々が、つぎつぎに参詣した。
山中での狩猟中に光を放つ地を発見した孔子古は、そこに庵を構え、仏像安置を発願します。すると一人の童子の行者が、家にやって来て宿を乞い、その礼に仏像の建立を申し出ます。行者は庵に入り、七日の内に仏像を作るのでその間は見てはならない、完成したら戸を叩いて報せると告げ、庵に籠ります。しかし、ここまでの内容は、巻頭部が兵火で焼けて焼失してありません。
ここには、猟師の大伴孔子古が童行者の援助によって粉河寺を創建した話が記されています。
最初は、猟師の家にやってきた童行者との対面場面です。拡大して見ましょう。
童行者は垂髪を元結で束ね、袈裟を掛け、数珠を持って片膝を上がり框に載せています。当時の上層階級を描く際のお約束である「引目鉤鼻」で上品に描かれています。それに対して猟師は、口髭を生やして萎烏帽子をかぶり、腰刀を差して武骨な感じです。片膝を立てて坐り、両手を擦り合わせてお礼をしているようです。
童行者は垂髪を元結で束ね、袈裟を掛け、数珠を持って片膝を上がり框に載せています。当時の上層階級を描く際のお約束である「引目鉤鼻」で上品に描かれています。それに対して猟師は、口髭を生やして萎烏帽子をかぶり、腰刀を差して武骨な感じです。片膝を立てて坐り、両手を擦り合わせてお礼をしているようです。
この部分の会話は、詞書が焼失していますが、他の史料から研究者は次のように復元します。
猟師は、柴の庵を建てていましたが、まだ本尊がありませんでした。そこへ童行者がやってきて、自分が仏像を七日で造りましょうと提案しているシーンです。猟師は童行者の申し出をありがたがっているのでしょう。
巻物を開いていくと次のシーンは、猟師一家の食事場面です。
玄関の背後は台所で、猟師が家族と食事中です。緑の筵を敷いた上に坐るのが 猟師の妻です。折敷板に載せた椀を前にして、赤子に乳を含ませています。その向かい側に片肌を脱いで、あぐらをかいて坐っているのが猟師です。大きなまな板上に、あるのは鹿肉です。
台所で大伴孔子古の家族が鹿肉をたべています。まな板の上に肉をおき、それを箸でおさえ、小刀で切ります。まるで刺身か寿司のように見えます。孔子古や妻の碗の中には、切った肉が入っています。夫婦の椀に盛られているのは、御飯ではなさそうです。鹿肉どんぶりでもないようです。よく見ると、食卓には肉以外の野菜などの副食物はありません。当時の猟師達にとっては、肉そのものが主食だったと研究者は考えています。
また、肉を焼いたり煮たりしてたべることも少なかったようです。生でたべるか、あまったものは②串ざしや③薦の上に乾かして乾肉にしています。それが庭先に描かれています。乾したものを鳥獣に食いちらされないように、おどしのための矢がたてられています。
当時の鹿肉の保存方法について、絵巻には次のような情景が見えます。
①庭のカマドで肉を煮る②肉を串に刺して竈(カマド)の前で炙る③筵(ムシロ)の上で乾燥する④串に刺して軒下に吊るして乾燥する⑤生肉を椀に入れ食べる(膾なます、現代風に言えば鹿刺し)
「野菜類も含めて栄養のとれたバランスある食事」というのは、高度経済成長後の日本が豊かになった後の食事法です。かつては、能登地方では米がとれると米の飯ばかりたべ、鱈(たら)がとれると鱈ばかりたべたと云います。対馬などでも古風な村では烏賊のとれるときは烏賊だけ、麦のとれたときは麦だけ、芋のとれたときは芋だけ、そのほかに若干の塩分があれば庶民は事足りたのです。主食と副食物を別にし、さらに副食物の数をふやすようになったのは酒を飲むための献立が求められるようになってからのことです。また、塩蔵や発酵による貯蔵が発達しなけらばなりません。中世の猟師は、肉が主食であったことをここでは押さえておきます。
次の場面は、猟師の家の裏です。
次の場面は、猟師の家の裏です。
柴垣には、鹿皮を干すために、紐を編んで付けた木枠に張られて立て掛けられています。なめし革にしているようです。鹿革は、衣類にされるほか、靴や馬の鞍にされたりする重要素材で、猟師の収入源でした。そのそばでは、犬が何かを食べています。鹿皮から削ぎ落した肉片でも貰ったのでしょうか。
獣皮をやわらかにする技術は朝鮮から伝えられたことが、「日本書紀」仁賢天皇の六年の条に次のように記されています。
日鷹吉士が高麗から工匠須流枳・奴流枳等をともない帰って献じた。朝廷はこれを大和国山辺郡額田邑においた。熟皮高麗(かわおしのこま)がこれである
「令義解」には大蔵省の条に、次のように記します。
典履典革という役目があり、靴履・鞍具をつくる者をつかさどっていた。靴履・鞍具をつくる者は高麗人・百済人・新羅人などであり、雑戸として調役を免ぜられていた。
これらの人びとの技術が、時代を下ると供に、民衆の間へも伝播浸透していったのでしょう。なめし方については、「延喜式」には、「雑染革・洗革」について、次のように記します。
洗革というのは鹿皮を洗って毛を除き、よくかわかして肉をとり去り、水につけてふやかし、皮をあら削りして草木の汁(成分不明)に和して後に乾す。牛皮の場合は、樫の木の皮が用いられている。樫皮を煮つめてそのタンニンをとり、タンニン液にひたして膠をとり去る
私には、森の木立とした見えませんでした。ここには、猟師の狩の工夫が描かれていると研究者は指摘します。股になった木の間に材木を渡したものがそれです。これが獣道(けものみち)の上に設けられた、据木(スワリギ)と呼ばれる足場で、ここから下を通る獣を弓で射りました。
猟師が木上上から下を通る鹿をねらいうちしています。少人数で狩をしようとする場合には、動物が通る通路で待ち伏せるのが、最も効率がいいようです。特に、鹿は決まったルートを通ります。「高忠聞書」には「か(狩)りといふは鹿狩の事なり」とあります。こうした野獣の通る道をウジ、ウチ、ウトなどと呼んでいました。山城宇治なども野獣の通道の意であり、それが広域の地名となったと研究者は考えているようです。
そういうところに待ち受けて狩ることを、ウチマチ、ウジマチなどと云いました。日本の狩猟はこうしたねらい射ちを主として発達します。そこで使われるのが長弓です。長弓は獲物に気付かれないように近くからねらい射ちすることが得手な武器です。
猟師は、木の上で獲物をまつために、木の股を利用して丸太をわたしてその上に潜みます。詞書には据木(スワリギ)と記します。これをマタギと呼ぶ地域もあるようです。東北地方では、狩のことをマタギとよび、狩人もまたマタギと呼びます。これはウチマチをするための装置からきている言葉と研究者は推測します。
猟師は、木の上で獲物をまつために、木の股を利用して丸太をわたしてその上に潜みます。詞書には据木(スワリギ)と記します。これをマタギと呼ぶ地域もあるようです。東北地方では、狩のことをマタギとよび、狩人もまたマタギと呼びます。これはウチマチをするための装置からきている言葉と研究者は推測します。
以上から、平安時代にも肉食で生活していた人がいたことが分かります。ただ、肉は供給量が少なくて大衆に日常食品として出回ることはなかったようです。仏教により肉食が避けられたと従来は言われてきましたが、ほとんど根拠のない俗説と研究者は考えています。
確かに肉食禁止について「日本書紀 29巻 天武天皇四年夏四月」に、次のような詔が記されています。
庚寅の日(17日)、諸国に詔(みことのり)したまひしく、「今ゆ後、諸の漁(すなどり)り猟(かり)する者を制(いさ)めて、檻(おり)穽(おとしあな)を造り、また機槍等の類を施(お)くことなかれ。また四月の朝以後九月の三十日以前には比彌沙伎理(ひみさきり)の梁を置くことなかれ。また牛馬犬猿鶏の宍(にく)を食ふことなかれ。以外は禁例にあらず。もし犯す者あらば罪せむ」と宣りたまひき。
意訳変換しておくと
庚寅の日(17日)、諸国に次のように詔した。「今後、漁業や狩猟する者に対して、檻や穽(おとしあな)を造り、また狩猟のための槍などを置くことを禁止する。また四月の朝以後は、九月三十日以前には川に梁を設置することを禁止する。また牛馬犬猿鶏の肉を食ねることのないように。これ以外の動物については禁例としない。もし犯す者れば罪する。
研究者が注目するのは、最後の部分の「これ以外の動物については禁例としない」です。つまり、肉食禁止令には、猪、鹿は含まれていません。そして、その後も延喜式には諸国から貢進される産物として、信濃、甲斐などからの調物には肉製品が入っています。肉食によって生きていた人達がいて、その文化があったことは押さえておきます。
確かに、平安貴族は四つ足の獣は汚れとして忌まわれ、仏教の殺生を禁じる教えもあって鳥肉以外の肉食をほとんどしませんでした。しかし、庶民は別です。肉食をしていたのです。生き物を狩り、それを食するのが猟師です。これは、仏教の教えに背く生業です。粉河寺縁起には、猟師である者でも信心を持てば、救われる存在であることを語っています。本尊の千手観音は、千の手それぞれに眼があり、すべての人を救うとされます。このあたりに、粉河寺の人気の源がありそうです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし
西岡常一『粉河寺縁起絵・吉備大臣入唐絵』 日本絵巻物全集6、p.23~(角川書店)1977











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