滝宮神社と龍燈院と滝宮天満宮(讃岐国名勝図会)
幕末の讃岐国名勝図会に描かれた滝宮神社と天満宮です。右上の表題には「滝宮 八坂神社(天皇社) 菅神社(天満宮) 龍燈院」とあります。絵図からは次のようなことが読み取れます。
①綾川沿に、天皇社があり、これが滝宮牛頭天皇(ごずてんのう)社(権現)であったこと。②天皇社の前には、牛頭天皇の本地仏である薬師如来を安置する薬師堂や観音堂があったこと。③隣接して別当寺の龍燈院があり、もっとも大きい建物であること。④その向こうに滝宮天満宮がある。⑤社人宅もあるが小規模である。
龍燈院拡大図
以上から、滝宮神社は神仏分離以前には、天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれ、天満宮と供に別当の龍燈院の管理下に置かれていたこと、この3つはひとつの宗教施設として運営されていたことが分かります。しかし、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消しました。その跡地は、現在は分譲されて住宅地となって、ポツンと記念碑が立っているだけです。龍燈院の繁栄を伝える物は、観音堂に安置されていた十一面観音立像だけです。
龍燈院観音堂の十一面観音立像(像高180㎝)
この優美で美しい観音さまは、綾川町の管理下に移され生涯学習センター(図書館)で参観することができます。部屋の中央に、ガラスケースに安置されているので、どの方向からも観察できます。天衣、裳、 条帛 や天衣の折り返しなどをじっくりみることができます。(註 現在は県立ミュージアムで補完されているようです。)
専門家の評を見ておくことにします。
一木造で内ぐりはなく、垂下する右手は手首まで、前に差し出して花瓶を持つ左手はひじまでを共木で彫り出す大変古様な像である。条帛や下肢には渦巻きの文が見られる。しかし顔つきは優しく、またことさらに量感を強調したりしていないことから、平安時代も中期になっての像と思われる。ほぼ直立し、顔は小さめ。手は長くあらわす。目はあまり切れ長とせず、若干つり目がちとする。口も小さめ。顎はしっかりとつくる。胸のラインやへそは陰刻で強調、また下肢の左右の衣のつれも強調するが、全体的には誇張を避け、上品で落ち着いた姿となっている。
以上を次のように整理しておきます。
①滝宮神社は神仏分離以前は、滝宮牛頭天王(権現)とよばれ、牛頭天王信仰の宗教施設であった。②別当寺は龍燈寺で、その名の通り熊野信仰に由来をもつ寺院で、中世は修験者や聖達のあつまるお寺であった。
ここで疑問になるのが、龍燈院が、これだけの宗教施設が維持できたのはどうしてなのということです。その経済基盤は、どこにあったのでしょうか? それを伝えてくれる史料はありません。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。
そこで同じ牛頭天王を祀る播磨広峯(ひろみね)神社の経済基盤を、今回は見ていくことにします。
広峯神社は、姫路市の広峰山山頂にある神社です。今は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神としますが、明治の神仏分離以前には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王を祀って、広峯牛頭天王と呼ばれていました。
京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説も流布したことがあるようです。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。
神仏分離以前の本殿内には、牛頭天王の本地仏をされる薬師如来が祀られていたようです。その管理運営を行っていたのは、別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)です。この山の宗教施設は別当寺の社僧の管理下に置かれていました。ちなみに、この寺は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の末寺として、大きな権勢を持っていたようです。
社家(御師=修験者)の社務は、播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆)などにある村単位の信徒(檀那)へのお札配りでした。
牛頭天皇=スサノウ
御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
牛頭天皇=スサノウ
御師は自分の檀那村をまわって次の三種類の神札を配布しす。
居宅内の神棚に祀るもの苗代に立てるもの田の水口に立てるもの
その対価として御初穂料を得て収入としていました。
蘇民将来のお札(牛頭天王=素戔嗚尊)
苗代に立てるお札
水口に立てるお札
江戸時代には、社領はわずか72石でだった広峯神社が繁栄できたのは、お札を配布できる信徒集団を抱えていたからです。 「御師」というのは寺社に属して、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者のことです。
檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)
御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
檀那宅をお札や土産を持って訪れる伊勢御師(江戸時代)
御師がいた神社としては、熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社が知られています。御師は各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、お札を配布したり社参を代行(代参)を行うほかに、檀那が参詣にやってきた時には、宿坊を提供したりしました。ひとりで各地の檀那を廻ることはできないので、伊勢御師と同じように廻国性のある修験者を手代として「雇用」していたようです。こうして広峯牛頭天王社の周りには、数多くの修験者や聖が集まってくるようになります。
広峯牛頭天王社の御師を見ておきましょう。
鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約30家の社家(御師)がいました。彼らは各地を回り、信者を集めて檀那を組織していきます。広峯社の檀那は、播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった中国地方東部から近畿地方にかけてが広峯社の信仰圏であったことを押さえておきます。
広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那所在地についての史料が数点残されています。
廣峰社の因幡の檀那所在地
この表は「肥塚文書」の檀那所在地を一覧表にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那がいたことが分かります。ひとりの御師の活動が広いエリアに及んでいたことがわかります。 廣峰社の檀那所在地分布図
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
檀那所在地を地図に落としたものが上図です。ここからは次の所に檀那が多く一円化していたことが分かります。
①播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜②美作との国境付近に位置する智頭③高草郡の有富(ありどめ)川流域(鳥取市)
この表に出てくる「わかさいちは(=若狭の市場)」で、若狭には市場があったことがうかがえます。御師と地域経済と関わりが垣間見えます。
研究者が注目するのは鳥取市の有富川流域についてです。このエリアには特定の檀那名ではなく、多くが「一円」と記されています。このエリアでは村単位で多数の信者を集めていたことがうかがえます。
これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。
ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
これと同じように、滝宮牛頭天皇社の御師達も中讃の各郷に檀那を持ち、一円化したのではないかと私は考えています。
ちなみに江戸時代中期編纂の『因幡志』には、有富川流域の神社の多くが牛頭天王を祀っていることが分かるようです。ここからは中世以来の広峯信仰が続いていたことが裏付けられます。
広峯から御師がやってくると、檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しています。
では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は、彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。また、若桜については、次のように記されています。
「おふね(小船)村なぬしやと」「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」
ここからは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。名主は、祭礼の際の宮座の構成メンバーです。彼らの相談を受けながら、村の祭礼に御師が関わり、風流踊りや念仏踊りを伝えたことも考えられます。
ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。
ここでは、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供し、彼らと御師は親密な関係を維持していたとしておきます。
御師の肥塚氏は、それらの国々の檀那村付帳を残しています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
そこには各荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといった情報まで記されています。
例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見ると、現在の小字集落に当たる村が丹念に調べられて記録に残されています。ここからは広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んで記録していたことが分かります。広峯社の御師たちは各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していたようです。
御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。これが、村々の寺社を結びつけて行くエネルギーになっていくと研究者は考えています。 以上を要約しておきます。
①中世の広峯神社は、牛頭天王とその本地仏薬師如来が祀られる神仏混淆下の宗教施設であった。②牛頭天王社の社殿を管理する別当寺の増福寺(広嶺山増福寺)で、その社僧の管理下に置かれていた。③社僧達は御師として、自分の檀那村をまわって神札を配布し、御初穂料を得て収入としていた。④村の檀那は、宿泊施設や伝馬を提供し、お札と供に地域の情報を手に入れた⑤村々を歩く御師は、情報伝達者として村々を結び、宗教的なネットワークや交流を作りだしていった。⑥その中には風流踊り等の芸能なども、伝えたことが考えられる。
少々乱暴ですが、これを、讃岐の滝宮牛頭天皇と龍燈院に落とし込んでみます。
①龍燈寺傘下の修験者や聖も手代として、中讃の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集めた。
②同時に彼らは、いろいろな情報や芸能を各村々に伝える媒介者となった。
③各村々に風流踊りや念仏踊りを伝えたのも修験者や聖である。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
④この踊りが各村々では、盆踊りとして踊られるようになった
⑤それが滝宮牛頭天皇の夏祭りに奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、かつての滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだと私は考えています。
牛頭天王坐像
別当寺龍燈院の住職が代々書き記した念仏踊りの記録『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」
意訳変換しておくと
中世(先代)には、踊りは讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた。しかし、今は4郡だけになっている
ここからは、松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて「中断」していた念仏踊りを慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたことが分かります。高松藩領西部の阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡の4郡ということになります。それが具体的には、次の4組です。
①阿野郡北條
②阿野郡南条③鵜足郡の坂本組(坂本郷周辺:丸亀市)④那珂郡の七箇組(真野郷・吉野郷・小松郷:まんのう町+琴平町)
この4つの踊組エリアが、滝宮牛頭権現の信仰圏だと私は考えています。
ちなみに、松平頼重は踊りの復興の際に、幕府の監視を考慮して「雨乞い祈願のための踊り」と正当化するフレーズを付け加えます。こうして、もともとは盆踊りで踊られる風流踊りが、雨乞いに結びつけられ、「菅原道真の雨乞い成就に感謝」する踊りと称されプロデュースされるようになります。注意しておきたいのは、ここでも、まだこの踊りが雨乞い踊りのために踊られるおどりではなかったことです。
この時点では、「雨乞い成就感謝のため」でした。中世には「雨乞いは空海など修行で験を超人のみがおこなえることで、普通の人が行っても神はお聞きにはならない」というのが庶民の考えでした。それが変化するようになるのは、近世後半になってからのことです。
「讃岐の国内のすべての13郡から当社への踊りの奉納が行われていた」ということについて考えて見ます。
大きな勢力を寺社が競合するところでは、神札の配布はできません。そればかりでなく周辺の寺社は取り込まれ、つぶされていくこともあります。讃岐において中世に強勢を誇った修験者を数多く擁した山伏寺を思いつくままに挙げて見ると次の通りです。
①東讃の水主神社・与田寺②志度の志度寺③五色台の白峰寺④多度郡の善通寺⑤三野郡の弥谷寺⑥三野郡の本山寺(牛頭権現信仰の宗教施設)
これらの寺社が競合するエリアで、滝宮牛頭権現社がお札を配り、新たに信者を獲得するのは至難の業であったはずです。このため滝宮牛頭権現が讃岐全体に信仰エリアを拡げていたとは、私には思えません。その信仰圏は、先ほど見た踊り奉納されていた周辺の郷に限られていたと私は考えています。
坂本念仏踊りの檀那分布想定エリア
ここでは、滝宮牛頭権現社は高松から西の4郡の一部の郷に信者を確保し、そこから踊りが奉納されていたとしておきます。
補足(2024年4月19日)
今日手元に届いた「まんのう町文化財協会報第18号 令和5年度版」に、香川県教育委員会文化行政課の佐々木涼成氏が「香川県の念仏踊とまんのう町」を寄稿しています。そこには、滝宮神社(牛頭天王社)と別当寺の龍燈院の布教戦略が次のように記されています。
滝宮神社へは島を除く讃岐国十一郡からの奉納があったと伝えられているが、なぜこれほど広範囲の信仰圏を持っていたのだろうか。寛政年間成立の『讃岐廻遊記』では、念仏踊の成立過程を以下のように書いている。空海が、千疋の子を産む牛を清水で清めて落命させた。天皇にその話をすると、その場所に滝宮三社(滝宮神社)の違二を命じら より数多念仏踊」となる。さらに牛の絵が描かれた御守が国中家々に配布された、というものである。伝説の入り混じるこの記述を全て信用することは出来ないが、ここからは、滝宮天王社建立→参詣者の増加と「名主」による組織化→念仏踊の発生 → 御守配布による信仰の更なる普及という過程の中で信仰圏を拡大してきたことが読み取れる。確かに東かがわ市歴史民俗資料館には、庄屋の家から見つかった大量の滝宮牛頭天王社の絵札が収蔵されており(図三)、牛頭天王社からの絵札を社僧や山伏等の宗教者が庄屋へ渡し、各家へ配布していた経路を想定できよう。滝宮牛頭天王社の絵札
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 因幡における広峯御師の活動 鳥取県史たより 第56回
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