瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

善通寺 足利尊氏利生塔
足利尊氏利生塔(善通寺東院の東南隅)
 善通寺東伽藍の東南のすみに「足利尊氏利生塔」と名付けられた石塔があります。善通寺市のHPには、次のように紹介されています。

   五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔が「足利尊氏の利生塔」です。暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じました。寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺、利生塔は善通寺の五重塔があてられました。利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔が形見として建てられています。

要点を挙げておきます
① 石塔が「足利尊氏の利生塔」であること。
②善通寺中興の祖・宥範によって、五重塔として建立されたこと
③その五重塔が焼失(1558年)後に、この石塔が形見として建てられたこと
  善通寺のHPには、利生塔の説明が次のようにされています。

 足利尊氏・直義が、暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念し、国ごとに一寺・一塔の建立を命じたことに由来する多層塔。製作は鎌倉時代前期~中期ごろとされる。

ここには、次のようなことが記されています。
①こには、善通寺の利生塔が足利尊氏・直義によって建立を命じられた多層塔であること
②その多層塔の製作年代は鎌倉時代であること
これを読んで、私は「???」状態になりました。室町時代に建立されたと云われる多層塔の制作年代は、鎌倉時代だと云うのです。これは、どういうことなのでしょうか。今回は、善通寺の利生塔について見ていくことにします。テキストは「山之内誠 讃岐国利生塔について 日本建築学会計画系論文集No.527、2000年」です。


善通寺 足利尊氏利生塔.2jpg
足利尊氏利生塔(善通寺東院)
利生塔とされる善通寺石塔の形式や様式上の年代を押さえておきます。
①総高約2,8m、角礫凝灰岩制で、笠石上部に上層の軸部が造り出されている。
②初層軸石には、梵字で種子が刻まれているが、読み取れない。
③今は四重塔だが、三重の笠石から造り出された四重の軸部上端はかなり破損。
④その上の四重に置かれているのは、軒反りのない方形の石。
⑤その上に不釣り合いに大きな宝珠が乗っている。
⑥以上③④⑤の外見からは、四重の屋根から上は破損し、後世に便宜的に修復したと想定できる。
⑦二重と三重の軸部が高い所にあるので、もともとの層数は五重か七重であった
石造の軒反り
讃岐の石造物の笠の軒反り変化
次に、石塔の創建年代です。石塔の製作年代の指標は、笠の軒反りであることは以前にお話ししました。
初重・二重・三重ともに、軒口の上下端がゆるやかな真反りをしています。和様木造建築の軒反りについては、次のように定説化されています。
①平安後期までは反り高さが大きく、逆に撓みは小さい
②12世紀中頃からは、反り高さが小さく、反り元ではほとんど水平で、反り先端で急激に反り上がる
これは石造層塔にも当てはまるようです。石造の場合も 鎌倉中期ごろまでは軒反りがゆるく、屋根勾配も穏やかであること、それに対して鎌倉中期以後のものは、隅軒の反りが強くなるることを押さえておきます。そういう目で善通寺利生塔を見ると、前者にあてはまるようです。
また、善通寺利生塔の初重軸石は、幅約47cm、高さ約62,5cmで、その比は1,33です。これも鎌倉前期以前のものとできそうな数値です。
 善通寺利生塔を、同時代の讃岐の層塔と研究者は比較します。
この利生塔と似ているのは、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。

櫛梨
櫛梨城の下にあった時宝院は、島津氏建立と伝えられる

もともとは、この寺は島津氏が地頭職を持つ櫛無保の中にあったようです。それが文明年中(1469~86)に、奈良備前守元吉が如意山に櫛梨城を築く時に現在地に寺地を移したと伝えられます。そして、この寺を兼務するのが善通寺伽藍の再建に取り組んでいた宥範なのです。
 ここにあった層塔が今は、京都の銀閣寺のすぐ手前にある白沙村荘に移されています。白沙村荘は、日本画家橋本関雪がアトリエとして造営したもので、総面積3400坪の庭園・建造物・画伯の作品・コレクションが一般公開され、平成15年に国の名勝に指定されています。パンフレットには「一木一石は私の唯一の伴侶・庭を造ることも、画を描くことも一如不二のものであった。」とあります。

時宝院石塔
   時宝院から移された十一重塔
旧讃岐持宝院にあったものです。風雨にさらされゆがんだのでしょうか。そのゆがみ具合まで風格があります。凝灰岩で出来ており、立札には次のように記されています。

「下笠二尺七寸、高さ十三尺、城市郎兵衛氏の所持せるを譲りうけたり」

この時宝院の塔と善通寺の「足利氏利生塔」を比較して、研究者は次のように指摘します。
①軒囗は上下端とも、ゆるやかな真反りをなす。
②初重軸石の(高 さ/ 幅 ) の 比 は1,35、善通寺石塔は、1,33
③両者ともに角礫凝灰岩製。
④軒口下端中央部は、一般の石塔では下の軸石の上端と揃うが 、両者はもっと高い位置にある(図 2 参照 )。

善通寺利生塔初重立面図
善通寺の「利生塔」(左)と、白峰寺十三重塔(東塔)
⑤基礎石と初重軸石の接合部は 、一般の石塔では、ただ上にのせるだけだが 、持宝院十一重塔は 、基礎石が初重軸石の面積に合わせて3,5cmほど掘り込まれていて、そこに初重軸石が差し込ま れる構造になっている。これは善通寺石塔と共通する独特の構法である。
以上から両者は、「讃岐の層塔では、他に例がない特殊例」で、「共に鎌倉前期以前の古い手法で、「同一工匠集団によって作成された可能性」があると指摘します。
 そうだとすれば両者の制作地候補として第一候補に上がるのは、弥谷寺の石工集団ではないでしょうか。
石工集団と修験
中世の石工集団は修験仲間?
時宝院石塔初層軸部
旧時宝院石塔 初層軸部
 善通寺市HPの次の部分を、もう一度見ておきます。
   利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の僧正・宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられましたが、焼け落ちた後、高さ2,8mの角礫凝灰岩の石塔が形見として建てられています。
 
ここには、焼け落ちたあとに石塔が形見として造られたありますが、現在の「利生塔」とされている石塔は鎌倉時代のものです。この説明は「矛盾」で、成立しませんが。今枝説は、次のように述べます。

『続左丞抄』によれば、康永年中に一国一基の利生塔の随一として同寺の塔婆供養が行なわれて いることがしられる。『全讃史』四 に 「旧有五重塔 、戦国焼亡矣」 とあるのがそれであろうか。なお、善通寺には 「利生塔」とよばれている五重の石塔があるが、これは前記の五重塔の焼跡に建てられたものであろう。

この説は戦国時代に焼失した木造五重塔を利生塔と考え、善通寺石塔についてはその後建てられたと推測しています。本当に「讃岐国(善通寺)利生塔は、宥範によって建立された木造五重塔だったのでしょうか?
ここで戦国時代に焼け落ちたとされる善通寺の五重塔について押さえておきます。
利生塔とされているのは、善通寺中興の祖・宥範が1352年に再建した木造五重塔のことです。それまでの善通寺五重塔は、延久2年(1070)の大風で倒壊していました。以後、南北朝まで再建できませんでした。それを再建したのが宥範です。その五重塔が天霧攻防戦(永禄元年 (1558)の時に、焼失します。

『贈僧正宥範発心求法縁起』には、宥範による伽藍復興について、次のように記されています。 
自暦應年中、善通寺五重.塔婆并諸堂四面大門四方垣地以下悉被造功遂畢。

また奥書直前の宥範の事績を箇条書きしたところには 、
自觀應三年正月十一日造營被始 、六月廿一日 造功畢 。
 
意訳変換しておくと
①宥範が暦応年中 (1338~42)から善通寺五重塔や緒堂整備のために資金調達等の準備を始めたこと
②実際の工事は観応3(1352)年正月に始まり、6月21日に終わった
気になるのは、②の造営期間が正月11日に始まり、6月21日に終わっていることです。わずか半年で完成しています。以前見たように近代の五重塔建設は、明治を挟んで60年の歳月がかかっています。これからすると短すぎます。「ほんまかいなー」と疑いたくなります。
一方 、『続左丞抄』に収録された応安4(1371)年 2月の 「誕生院宥源申状案」には 、宥範亡き後の記録として次のように記されています。
彼宥範法印、(中略)讃州善通寺利生塔婆、同爲六十六基之内康永年 中被供養之時、

ここには善通寺僧であった宥範が利生塔の供養を行ったことが記されています。同じような記録 は 『贈僧正宥範発心求法縁起』にも、次のように記されています。
一 善通寺利生塔同キ御願之塔婆也。康永三年十二月十日也 。日本第三番目之御供養也。御導師之 時被任法印彼願文云賁秘密之道儀ヲ、艮法印大和尚位権大僧都爲大阿闍梨耶云云 。

これは「誕生院宥源申状案」よりも記述内容が少し詳しいようです。しかし、両者ともに「善通寺利生塔(婆)」とあるだけで、それ以外の説明は何もないので木造か石造かなどは分かりません。ただ、この時期に利生塔供養として塔婆供養が行なわれていたことは分かります。

中世善通寺伽藍図
中世善通寺の東院伽藍図
以上を年表にしておきます。。
1070(延久2)年  善通寺五重塔が大風で倒壊
鎌倉時代に石塔(利生塔)建立
1331(元徳3)年 宥範が善通寺の僧侶集団から伽藍修造の手腕を期待されて招聘される
1338(暦応元)年 足利尊氏・直義兄弟が国ごとに一寺一塔の建立を命じる。
1338(暦応元)年9月 山城法観寺に利生塔として一番早い舎利奉納
1338~42(暦応)宥範が五重塔造営のために資金調達等の準備開始
1342(暦応5)年3月26日 宥範が阿波の利生塔である切幡寺利生塔の供養導師を勤める。
1342(康永元)年8月5日 山城法観寺の落慶法要
1344(康永3)年12月10日 宥範が善通寺の利生塔供養を行った
1346(貞和2)年 宥範が前任者の道仁の解任後を継いで、善通寺の大勧進職に就任
1352       宥範が半年で五重塔再建
1371(応安4)年2月に書かれた「誕生院宥源申状案」に宥範が利生塔の供養を行ったことが記載されている。
1558(永禄元)年    宥範建立の五重塔が天霧攻防戦の際に焼失(近年は1563年説が有力)
この年表を見て気になる点を挙げておきます。
①鎌倉時代の石塔が、16世紀に木造五重塔が焼失した後に形見として作られたことになっている。
②宥範の利生塔再建よりも8年前に、利生塔供養が行われたことになる。
これでは整合性がなく矛盾だらけですが、先に進みます。
15世紀以降の善通寺の伽藍を伝える史料は、ほとんどありません。そのため伽藍配置等についてはよく分かりません。利生塔について触れた史料もありません。18世紀になると善通寺僧によって書かれた『讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記』(『善通寺之記』)のなかに、次のように利生塔のことが記されています。

持明院御宇、尊氏将軍、直義に命して、六十六ヶ國に石の利生塔を建給ふ 。當國にては、當寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。

意訳変換しておくと
持明院時代に、足利尊氏将軍と、その弟直義に命じて、六十六ヶ國に石の利生塔を建立した。讃岐では、善通寺伽藍の辰巳(東南)の隅にある大石の塔がそれである。

利生塔が各国すべて石塔であったという誤りがありますが、善通寺の石の利生塔を木造再建ではなく、もともとのオリジナルの利生塔としています。また、東院伽藍の「辰巳の隅」という位置も、現在地と一致します。「大石之塔」が善通寺利生塔と認識していたことが分かります。ここでは、18世紀には、善通寺石塔がもともとの利生塔とされていたことを押さえておきます。

 以上をまとめておきます。
①善通寺東院伽藍の東南隅に「足利尊氏利生塔」とされる層塔が建っている。
②これは木造五重塔が16世紀に焼失した後に「形見」として石造で建てられたとされている。
③しかし、この層塔の製作年代は鎌倉時代のものであり、年代的な矛盾が生じている。
④18世紀の記録には、この石塔がもともとの「足利尊氏利生塔」と認識していたことが分かる。
⑤以上から、18世紀以降になって「足利尊氏利生塔=木造五重塔」+ 石塔=「形見」再建説がでてきて定説化されたことが考えられる。
どちらにしても宥範が善通寺中興の祖として評価が高まるにつれて、彼が建てた五重塔の顕彰化が、このような「伝説」として語られるようになったのかもしれません。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

コメント

 コメント一覧 (2)

    • 2. 広田良吾
    • 2024年01月17日 16:36
    • 中山輝也
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    • 1. 足利尊氏
    • 2024年01月17日 16:36
    • 足利尊氏
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