寛政5年(1793)の春、讃岐の香川郡由佐村の菊地武矩が4人で、阿波の祖谷を旅行した紀行文を現代語意訳して読んでいます。由佐を出発しての前回までのコースは以下の通りでした。
4月25日 由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光4月26日 貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 西福寺4月27日 一宇の西福寺 → 小島峠 → 菅生 → 虹の滝 → 久保4月28日 大雨で久保家に逗留し、平家伝説などを聞く4月29日 雨の中を阿佐家の平家の赤旗を見て返ってくる。4月30日 大雨で久保家逗留 いろいろな話を当主から聞く
話に聞いていた栗枝渡の宮や平家窟、善徳の鬘橋、剣の峯(剣山)へも行きたいと思っていたが、雨のために長逗留してしまった。故郷に残した用事もあるので、またの機会にすることにして、今回は讃岐に向けて帰ることになった。主人が案内者を付くれて、往路とは異なる①加茂越で帰路に就くことにした。先日に渡った蔓橋を見て、西北に久保川に沿って、山の麓を伝っていくと、大なる巖が出てきた。これが装束岩で、その上の広さは丈余とである。川に臨んでいて、昔の貴人がここで装束したので装束岩と呼ばれるようになったという。この岩から百余歩で姥か渕川の中に、日照りの時にも涸れない淵がある。さらに百歩ばかりで、大山の麓が崩れて岩根が現れている。祖谷紀行 落合ここが川向で、民家が数軒ある。さらに五百歩行くと高原という谷間の集落があり、民家十軒ばかりがある。ここから一の小坂を下ると、②久保から落合に入る。一の川が東北から流れてきて、久保川と合流するので落合と名付けられたという。坂を下ること百五十歩計にして落合で、ここには喜多磯二郎の家がある。久保より落合まておよそ1里、西北に歩いてきた。落合からの加茂越ルート
落合から讃岐にまで名が知れている③「つくか峯」を登ることになる。しばらく休息して、案内人の先導で登りはじめる。山は八段あって、険しいことは梯立のようである。所々に棧道があり、左右は深く落ち込んでいる。猿射狼、草ハ独活蘭、樹は欅榔櫂櫻などが多い。大木だった松が倒れて、その上に草のが若々しく芽吹いている。これは山が険しく入山して、下草などを刈ることがないためであろう。第七段に達すると、空が近くに見え、阿讃の山川が見えて来て「衆山みな児孫のごとし」である。ただ剣の峯(剣山)だけが孤立して「高き事一層」である。第8段にまで登りたいと思ったが、本当に険しいのでやめた。第八段は、夏中旬までは残雪が残るという。
ここまでの行程を押さえておきます。
①「加茂越」のルートをとって帰路に就くことになった
②「久保 → 装束岩 → 高原 → 落合」を経て、落合から③「つくか峰」に向かって登り始める。
③の「つくか峰」が、私には分かりません。この文面からして、久保から落合に下って、そこから落合峠を越えていくルートだと思うのですが、文中には「落合峠」という地名は出てきません。出てくるのは「加茂越」です。
落合峠の地蔵
以前に紹介したように、かつて落合にあった「寛政十一年」(1799)の銘がある地蔵尊は、道標を兼ねていて台座に「諸人無難是より里谷峠三十五丁半」と刻まれています。ここからは200年前には落合峠が「里谷峠」と呼ばれていたことが分かります。この時には、落合峠という呼称はなかったことを押さえておきます。 また「つくか峰」が分かりません。落合峠周辺の山だろうと思うのですがよくわかりません。ヒントになるのは、「山は八段あって・」という記述ですが、「正解」には至りません。「つくか峰七段」が「里谷峠」で、現在の落合峠だと思うのですが、確証が持てません。
安政5年生れで落合で農業を営んでいた栃溝貞蔵さん(当時95才)は、次のように話しています。
「加茂山の三庄(三加茂)と落合の間には毎日10人位の『仲持ち』という背負運送人が荷物の賃蓮びをしていた。特に塩は、1人1年 に1俵を必要としたので、自分も度々戻り荷に負うて帰った。讃岐塩入(まんのう町)から加茂村鍍治屋敷まで来ている。財田塩を背負う時には桟敷峠を登り、深淵を通って落合峠を越えて帰った。冬の雪の積る頃は、道も氷って大変えらかった。しかも行きに1日,帰りに1日、どうしても2日がかりでないと行けなかった。
ここからは「三加茂 → 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム)→ 落合峠 → 落合」が加茂越ルートで、讃岐からの塩が運ばれていたことが分かります。
つぎに「つくか峰」からの下りについて、見ていくことにします。
落合からここまで(「つくか峰」の第七段)までは、一里足らずというが、実際には一里半はある。まして、要する労力は平地の四・五里分に相当する。ここで暫く休息して、坂を下ると半里ほどで、葡萄が樹にまとわりついて、みち満ちている。しばらくいくと、①渓水の音が聞こえてくる。岩場をつたい落ち、はじけ落ちる清流は、雪のように霧となって飛び散る。白鷺のようでもあり、虹のようでもある。さらに行き桟道を渡ると、②芥場といふ所を過て、③「ひちら」という所に至った。祖谷紀行 木地屋ここに人家が三・四軒ある。ここの家主が西湖の知人であったので、立ち寄って湯茶を求め、しばらく休息した。前の山に珍しい鳥が樹上にとまっていた。大きさは鳩くらいで、模様は翡翠のようであった。休息した「ひちら」から四、五百歩ばかり行くと、谷川を隔てて④捲胎匠があったので行って見る。その家は黒木で作られていて、屋根は櫻の皮で葺かれていた。人が常住している気配はない。樹木の伐採に応じて、山を移っていくという。家の中に婦姑と思える二人が相向ってお茶を飲んでいた。どこから来ているのかと問うと、土佐から来ていると答えた。祖谷に移り住んで十年近くになるという。
③の巻胎匠は、ろくろ(轆轤)師のことで、木地師ともよばれました。
祖谷を中心とするこのエリアには、土佐などからろくろ師が入り込んで、半田の敷地屋に白木地を納入していたことは、次の史料からもうかがえます。 享保二十年(1725)11月、土佐韮生(香美郡物部村)久保山に、近江の筒井八幡宮の巡国人が到着し、周辺の木地屋から上納金を集金します。その中に、次のような記録があります。
一、三分 初尾 半田村二而ぬし屋(塗物師) 善六」『享保二十乙卯九月吉祥日 宇志こか里帳』(筒井八幡宮原簿十一号)
ここからは、善六がもともとは物部の木地師であったのが、半田に移って、「ぬし屋 (塗物師)」となっていたことが分かります。同時に1725年には、半田地方に祖谷周辺の木地師から白木地が送り込まれ、塗りにかけていたことが分かります。これは土佐からの木地師がこのエリアに入り込み、小屋掛けしていたことを裏付ける史料になります。
菊地武矩の祖谷紀行は1793年のことでした。
それよりも35年前の宝暦八年(1758)に、半田漆器業の開祖といわれる敷地屋利兵衛が、半田村油免に漆器の店を開きます。そのころには三好・美馬両郡には、25世帯の木地師が住んでいただけでした。それが開業から42年後には、家族を含め304人に増えています。急速な発展ぶりです。この時期に、土佐などから大量のろくろ師が祖谷周辺に流入したことが考えられます。そのろくろ師の小屋を、菊地武矩は訪ねたことになります。そして、女房達と交わした
「どこから来ているのか?」「土佐から来ている。祖谷に移り住んで十年近くになる」
という会話を記録したのは、大きな意味を持ってきます。
車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。「あそこは蔭の名(みょう)、おそくまで雪が残るところ、馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登って来ました。平坦地から海抜700mの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。
東祖谷山村の落合までは直線距離で25キロ、尾根道を登り降りすると40キロ。陽の高い春から秋にかけては、泊まらずに往復してしまう中持人もいたとか。さすがプロです。しかも肩に担う天秤棒にふり分け荷物で13貫(約50㎏)という重量があり、いくつも難所があったのに町から塩、米、麦、味噌、醤油、衣料、菓子類までも持ってゆき、そして半田の里にむけての帰り道は木地師が作った木地類を持ち帰ります。運賃の駄賃をもらう専門職でした。「祖谷紀行」にもどって深淵附近から桟敷峠にかけてを見ておきましょう。
もとの道に帰り、谷川を右に見て山の中腹を一里ほどいくと、①萱の久保といふ所に出た。傾斜も緩やかで、人家も多い。里に帰ってきた心地がしてきた。ここから②半田へと通じる道がある。ここに西湖の友人がいて用事があるということで、西湖とはここで分かれた。さて萱の久保から谷を下り、山をよじ登ることしばらくすると峠にでた。ここが③祖谷と加茂との境である。ここで暫く休息した。祖谷の山々をかえりみると、雲霧が立ちのぼり見え隠れする。さて、④坂を下っていくと里は、折しも五月の節句である。これを見て郷愁を感じ、王摩詰の「独在異郷為異客、毎逢佳節益思親」の句を思い出し、吟字ながら行く。早、太陽は西山に傾いた。久保よりの案内者はこの辺りで煙草の用事あるというので、久保家の主人に書簡をしたため厚意を謝し、案内者には少々の引出物を渡した。⑤加茂には旅屋が一軒あった。権二郎が行って一宿を依頼した。しかし、ちょうど妻子が外出中で、しかも明日は田植なので、泊客は断っていると素っ気なく断られた。夜に入て暗くなり、家々の燈の光が灯り始める。権二郎がいうには、ここから東北半里ほどで⑥吉野川に出る。川を渡れば壱里足らずで芝生に着く。⑦芝生は、阿波土佐往末の道で賑やかな町で旅籠もある。そこまで行って泊まろうと云って、先に立て歩き出した。吉野川の渡場に着くと。夜は川船は出せないという船頭を、すかしてながめて、船を出させて芝生に渡った。こうして⑧宮田伯家という「くすしの家」に宿をとった。この日は、着かれていたので、早くから床について寝た。
A ①萱の久保は人家も多く、半田と加茂の分岐点であること
B ①萱の久保からすぐに③祖谷と加茂との境に出たとあるので、ここが③桟敷峠
C ③の桟敷峠の展望を楽しんで、④坂を下っていくと西庄集落
D さらに川を下ると⑤加茂。そこの旅館に宿泊を断られたので、⑥吉野川を渡って⑦対岸の芝生の宿へ
作者らのとったコースを確認すると、次のようになります。
落合 → 「つくか峰(落合峠?)」 → 芥場 → 「ひちら」 → 萱の久保 → 桟敷峠 → 西庄 → 加茂」
これは落合峠・桟敷峠経由の加茂越コースです。しかし、「つくか峰・芥場・ひちら・萱の久保」の地名が、現在のどこにあたるのかは分かりません。今後の課題としておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
竹内久雄編集 『うるし風土記 阿波半田』東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
姫田道子 半田漆器レポート? 宮本常一と歩いた昭和の日本23
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