前回は、1934(昭和9)年に香川県に大きな被害を与えた旱魃について見ました。しかし、その5年後の1939(昭和14)年には、これを上回る「想定外の大旱魃」が襲ってきます。
1939(昭和14)年の月別降水量(広島気象台)
上の表は広島気象台の1939年と平年の月別降水量をグラフで比較したものです。ここからは次のようなことが分かります。
①4月・5月と例年の半分程度の降水量で、ため池が満水にならないまま田植え時期を迎えた。②6月も空梅雨の様相で、例年の半分程度の降水量で、田植えができない所が出てきた。③梅雨が早く明けて、7・8月になっても雨は降らず酷暑が続いた。7月の降水量は極端に少ない。④9月に入っても、降水量は少なめで推移した
1934年の旱魃と同じような推移を見せていますが、違う点は7月の降水量です。前回の1934年の時には、7月末に集中豪雨的な雨がもたらされせて、一息つくことができました。しかし、今回は7・8月の2ヶ月に渡って、雨が降っていません。
この時の年間降水量は693㎜で、平年の半分以下で、河川の水は枯れはて、ため池も干しあがってしまいます。6月になっても約1400㌶が田植ができず、地下水を利用して田植えを行った水田も約2000㌶の稲が枯れ果ててしまいます。
旱魃に対する県の対応を見ておきましょう。 藤岡長敏(ふじおかながとし)県知事は、菅原道真が雨乞いを祈願したという城山神社(坂出市)に参拝し、雨乞いを行っています。そして、市町村に雨乞い祈願と、学童が朝夕に稲株一株ごとに、土瓶を使って水をかける「土(ど)びんみず灌水」を行うよう通達を出しています。これを受けて、各町村ではさまざまな雨乞い祈願が行われます。その時に、佐文で踊られたのが綾子踊りです。しかし、綾子踊りを最初から踊ったようではないようです。どんな過程を経て、綾子踊りが踊られたのでしょうか? 今回は1939年の大干魃の時の佐文の人々の動きを見ていくことにします。テキストは「綾子踊の里 佐文誌14P 干ばつの歴史」です。
佐文誌
佐文誌には白川義則氏の当時の日記の一部が載せられています。7月16日 田に水は無く池の水、大に減少、心細き事なり。7月18日本日、新池の水全部使い果し大勢にて小鮒・うなぎ等取りたり、昼頃より①中筋婦人会が龍王山に登り清掃、雨乞い参りをして居たところ、空模様は良くなり待望の雨来たり、雷など鳴りしも、大した雨を落す事なく飛び去る。7月28日 ②龍王山に拝殿小屋を建てる為に労力奉仕、夕方までに屋根ふきのみ残して終る。7月30日 今日また雨無く、水田の乾きと稲の姿見るに偲びず。
最初だけ意訳変換しておくと
7月16日 田んぼに水はなく、池の水も大きく減った。(これから先のことを考える)と心細くなってくる。7月18日今日、岡の新池の水を全部抜いて、みんなで小鮒(ふな)・うなぎを獲った。昼頃から①中筋婦人会が龍王山に登って、清掃、雨乞参りをしたところ、雷が鳴って待望の雨が少し降ったが、まとまった雨にはならずに雲は飛び去った。7月28日 ②龍王山に拝殿小屋を建てるために労力奉仕に参加した。夕方までには、屋根葺きだけを残して終了した。7月30日 今日また雨は無い。田んぼの乾きと稲の姿を見るに偲びない。
ここまでで気になった部分を見ていきます。
7月18日
新池が干上がったので、魚を獲っています。その午後に①中筋集落の婦人会が龍王山に登って、清掃・雨乞いを行っています。この竜王山というのが私には分かりません。現在では、竜王山というと地図上では「四国の道」の竹の尾越の東側のピラミダカルな姿のいい山を指します。しかし、この当時は違ったようです。それは追々見ていくことにします。ここでは、「中筋婦人会」が龍王山の管理を行っていることを押さえておきます。ちなみにここに龍王社(リョウモサン)が祀られ、三所神社ともよばれていたようです。それが現在は、加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。
佐文の加茂神社境内 正面が加茂神社拝殿 右が上の宮(三所神社)
雨が降らず状況は、ますます悪化していきます。
そこで10日後の7月28日に②「竜王山に拝殿小屋を建てる」と出てきます。これは、雨乞い祈祷に向けての準備のようです。この日から京都から招いた行者(山伏)が降雨祈願のお籠りに入ったようです。
新池が干上がったので、魚を獲っています。その午後に①中筋集落の婦人会が龍王山に登って、清掃・雨乞いを行っています。この竜王山というのが私には分かりません。現在では、竜王山というと地図上では「四国の道」の竹の尾越の東側のピラミダカルな姿のいい山を指します。しかし、この当時は違ったようです。それは追々見ていくことにします。ここでは、「中筋婦人会」が龍王山の管理を行っていることを押さえておきます。ちなみにここに龍王社(リョウモサン)が祀られ、三所神社ともよばれていたようです。それが現在は、加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。
佐文の加茂神社境内 正面が加茂神社拝殿 右が上の宮(三所神社)
雨が降らず状況は、ますます悪化していきます。
そこで10日後の7月28日に②「竜王山に拝殿小屋を建てる」と出てきます。これは、雨乞い祈祷に向けての準備のようです。この日から京都から招いた行者(山伏)が降雨祈願のお籠りに入ったようです。
佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
昭和14年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。
ここに書かれている要点を挙げておくと
①渓道(たにみち)の竜王祠の火を松明にともして、竹の尾峠の山道をかけ下って持ち帰って、竜王宮で火を燃やした。
②そこで住民総出で火を燃やして「おこもり(祈願)」した。
③御盥池の堤防に小屋掛けして、そこで行者が1週間祈祷した。
渓道(たにみち)神社(財田町財田上)
①の渓道(たにみち)龍王宮というのは、三豊市財田町財田上の渓道神社のことです。この神社は国道32号の工事の際に、現在地に移されたようです。龍王宮という名前からもわかるように、善女龍王を祀り雨乞い信仰の霊地だったようで、雨乞い踊の「さいさい踊り」が奉納されていた所でもあります。渓道神社の説明版
高瀬町の地蔵寺の「善女龍王勧請記」 文化7(1810)年に、渓道神社から善女龍王が勧進されたことが次のように記されています。(意訳変換)
上勝間村の①地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。⑤すでに龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。中之村伊舎那院 現住法印宥伝欽記上勝間村地蔵寺現住 智秀同庄屋 安藤彦四郎同組頭 弥兵衛願主 惣氏子中別当 地蔵寺
ここからは次のような事が分かります。
①上勝間の地蔵寺に財田郷上之村の②善女龍王(渓道(たにみち)龍王)が勧請されたこと
②渓道龍王(善女龍王)は、財田中之村の③伊舎那院の管理下におかれていて、④降雨祈願に霊験があるとされていたこと
⑤すでに龍神社があった八つ山に、渓道龍王は勧進されパワーアップがはかられたこと。
この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったとも記されています。この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年)は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。このように上勝間村で行われていた龍神や善女龍王の勧進が佐文でも、この時期に行われていたことが分かります。
佐文誌には、明治時代の雨乞いの際に、財田上の渓道龍王宮の御神体と佐文の龍王山の御神体を入れ替えという話が載せられています。①上勝間の地蔵寺に財田郷上之村の②善女龍王(渓道(たにみち)龍王)が勧請されたこと
②渓道龍王(善女龍王)は、財田中之村の③伊舎那院の管理下におかれていて、④降雨祈願に霊験があるとされていたこと
⑤すでに龍神社があった八つ山に、渓道龍王は勧進されパワーアップがはかられたこと。
この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったとも記されています。この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年)は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。このように上勝間村で行われていた龍神や善女龍王の勧進が佐文でも、この時期に行われていたことが分かります。
同時に財田上から竹の尾峠を越えて、神火を持ち帰って火を高く燃やし、雨乞いを行ったというのです。ここからも佐文では、龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)が龍王講によって行われていたことが裏付けられます。以上から龍王山は善女龍王の山として雨乞い信仰の山とされ、その山腹に龍王祠が祀られていたこと、それを佐文の中筋の人達を中心に龍王講を組織して、お奉りしていたとしておきます。
綾子踊の芸司の大団扇(表が太陽、裏が月)
そして、雨は1ヶ月以上降らないまま8月に入っていきます。
7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)
③は31日に、青年団員が金刀比羅宮に参拝して、雨乞い用の聖火を貫い受けてきます。布などを縄状にしたホテ・火縄・スボキなどとよばれるものに神火をいただきます。その時に注意することとして、次のような事が云われていました。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいています。
しかし、先ほど見た「佐文誌」には、持ち帰ったのは財田の渓道龍王社の神火とありました。ふたつの記述が異なります。これをどう考えたらいいのでしょうか。これはまた別の機会にするとして、先を急ぎます。
しかし、先ほど見た「佐文誌」には、持ち帰ったのは財田の渓道龍王社の神火とありました。ふたつの記述が異なります。これをどう考えたらいいのでしょうか。これはまた別の機会にするとして、先を急ぎます。
8月1日山神池の最後の水について、総寄合で反別の一割分と決まった。早速、水を引く。午後、待望の雨が降るがほんの埃を湿す程度であった。
金毘羅さんの神火の霊験でしょうか、8月3日には待望のまとまった雨が降ります。8月3日は「龍王講の日」でもあったようです。8月3日朝、(煙草の)乾燥当番だったので少し寝過ぎた。起きてみると待望の雨だ。我等農民だけでなく山野の一木一草まで歓喜雀躍、どうかいつまでも降り続いてもらいと祈る。そして⑤今日は龍王講の日だ、中筋講中として龍王山に総参りをする。午前十時より(雨乞成就の)御礼のために、⑥先日いただいた御神火を金刀比羅宮に青年団として御返しに行く。今朝の雨で繩が湿って途中で御神火が消えそうになって困難を極めた。
これが先ほど見た龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)です。これについては、佐文誌252Pに次のように記されています。
龍王祠は前山の頂上やキノエハン(甲子山)にまつられ、その祭りをリョウモウシと呼び、旧六月十八日に祭りを行なっていた。リョウモウシをするために、佐文では龍王講を組織していた。現在、天保二年(1831)から昭和十三年までの頭家帳が残っている。
佐文の龍王祭頭家帳(天保2年)
龍王社に中筋講中で、お参り後に10時からは青年団員として「雨乞成就のお礼参り」のために、御神火を金刀比羅さんに返しにいきます。天保二年の記録を見ると、夕方、三名の頭家は加茂神社へお神酒と米を供えて、朝は龍王祠へお神酒とお供えをささげていたことがわかる。明治十年の龍王祭の記録を見ると、三名の頭家は米とお神酒銭を集め祭りを執行し、祭礼後は地区民一同が頭家のつくったオコワやお神酒で会食をしていたことがわかる。大千ばつの時には善女龍王に降雨の祈願をして加茂神社の境内で綾子踊を奉納した。次に前山のリコウハンやキノエハン(甲子山)でも踊った。 一般の人びとは一束の麦わらを持ってリョウハンヘ行き、リョウハンで大火をたいた。また、ある者は山伏姿でおこもりをした。おこもりの期間中は、ほとんど断食に近いようなそば粉の食事を取りながら善女龍王に降雨を祈願した。降雨の祈願をすると、必ずオシメリ(降雨)があったという。それほど佐文のリョウハンは霊験があらたかであった。
8月6日今日は⑦大祓の農休の日である。⑧龍王宮の「おこもり」に朝から参加、夕方7時過ぎまで⑨行者による火物断ちの雨乞いが行なわれた。⑩中筋隣組が当番だったので雑用に当った。
8月6日の「⑦大祓の農休」は、旧暦6月30日の夏越(名越し:なごし)のことです。
この日は忌 (い)み日として、祓いの行事が行われました。そのひとつが輪くぐりで、神社に設けた大きな茅 (ち)の輪をくぐって、災厄を祓いました。これも虫害・風害・旱魃などを鎮める祓いの行事のひとつです。小麦饅頭や団子をつくって、農仕事は休みます。池や川で身を清め、牛馬も水に入れて休ませたりしました。この日だけは河童が出ないそうで、池や海で泳いでもおぼれることはないとされました。しかし、この年は旱魃で池には水がありません。
そして⑧「龍王宮の「おこもり」に朝から参加」と出てきます。
龍王山ではなく「龍王宮」であることを押さえておきます。「おこもり」とは何なのでしょうか? それは次の⑨「行者に依る火物断ちの雨乞い」のようです。 つまり、この時点でも行者(山伏)が「龍王宮」に籠もって「火物断ちの雨乞い=護摩祈祷?」を行っていたことが分かります。⑩「中筋隣組では当番にて雑用」というのも、行者の護摩祈祷を支える雑用だったことが考えられます。ちなみに中筋の一番奥に位置する真鍋家には、この時に山伏の食事などを真鍋家で準備して、「龍王宮」に持ち上がったという話が伝わっているようです。金毘羅山からのご神火以外にも、行者による「お籠もり祈祷」など、いろいろなな雨乞いが同時進行で行われていたことが、ここからはうかがえます。 それでも雨は降りません。そんな中で、いよいよ綾子踊りが踊られることになります。
本文 8月9日佐文部落にて⑪雨乞のために、綾子踊りを実施する事が決り、⑫(私は)地歌読みに中筋より指名せれた。早速⑬加茂神社での練習に参加するが、大方が年輩の方で、歌と言っても何を言っているのかさっぱり私には解らない。果して責任を果し得るだろうか。その後、毎日昼休みを利用し神社で練習する。10日 米が取れそうにないので、救荒作物のイモづるを挿すが乾燥がひどく、収穫はないだろう。
11日から16日まで綾子踊の練習をする。16日は、踊り手が全員が神社に集まり、明日にそなえて練習の仕上げをする.
8月17日昨夜から父は⑭煙草の乾燥当番だったが、朝食を終る頃に帰って来て、⑮雨乞いの衣裳を着付けてくれた。今日は、綾子踊の総踊りの日であるので、生れて始めて⑯紋付の着物に衿を着用した。紙諧の草履も父が念入りに作ってくれた。午前8時頃に王尾村長様宅に集合、⑰神事場にて一踊りして、加茂神社で行列を整え、⑱龍王山に向って山を登る、神前で一踊りして、雨を祈り力一杯踊る。その後⑲帰りて加茂神社でて二踊りした。見物人多く盛観であった。夕方早々終りたるも御利生の御雨は何時の日か。
金毘羅山からの神火も、京都から招いた行者の雨乞いも、効果がありません。
8月9日なると「⑪雨乞の為、綾子踊りを実施」とあります。綾子踊りを踊ることになったようです。「⑫地歌読みにと中筋より指名」とあるので、17歳の白川義則少年は、地唄に指名されたようです。「⑬加茂神社での練習に参加」とありますので、練習は賀茂神社で行われていたことが分かります。歌詞の内容はちんぷんかんぷんでよく分からないが、託された責務を果たそうと毎日昼休みに加茂神社にいって、長老から手ほどきを受けたようです。確かに綾子踊りの地唄の歌詞は、雨が降ることを祈るようなものはほとんどありません。その内容は、瀬戸内海各地の港町の遊女と船乗りの恋歌などで、まるで「港町ブルース」的なものが多いことは以前にお話ししました。それを聞いて17歳の白川少年が戸惑ったのも頷けます。踊りの練習は10日から16日迄の1週間です。そして17日が綾子踊り当日になります。
8月9日なると「⑪雨乞の為、綾子踊りを実施」とあります。綾子踊りを踊ることになったようです。「⑫地歌読みにと中筋より指名」とあるので、17歳の白川義則少年は、地唄に指名されたようです。「⑬加茂神社での練習に参加」とありますので、練習は賀茂神社で行われていたことが分かります。歌詞の内容はちんぷんかんぷんでよく分からないが、託された責務を果たそうと毎日昼休みに加茂神社にいって、長老から手ほどきを受けたようです。確かに綾子踊りの地唄の歌詞は、雨が降ることを祈るようなものはほとんどありません。その内容は、瀬戸内海各地の港町の遊女と船乗りの恋歌などで、まるで「港町ブルース」的なものが多いことは以前にお話ししました。それを聞いて17歳の白川少年が戸惑ったのも頷けます。踊りの練習は10日から16日迄の1週間です。そして17日が綾子踊り当日になります。
加茂神社への入庭(いりは)
前日の夜から「⑭煙草の乾燥当番」に出ていた父が、朝早くに帰ってきて、⑮衣装の着付けをしてくれます。
⑯裃を身につけるのは初めてなので緊張気味です。午前8時に王尾村長宅に集合し、ここで行列を調えて加茂神社に向けて出発。踊りの奉納順は次の通りです。
⑰神事場(御旅所) → ⑱龍王山の神前 → ⑲帰りて加茂神社で二踊り
8月18日、笛の本池の水をすべて放出して、池が空っぽになった。23日、地区で一番大きい空池(そらいけ)と井倉池が干上がった。底水に集まった小魚を皆で獲って持ち帰った。24日、琴平町から東方面では雷雨があったが、佐文地区にはまったく雨の気配すらない。25日、救荒作物のコキビの種を蒔いた。30日、立ち枯れた田んぼの稲は、真白く変色した。9月に入っても夕立が少しある程度で、上旬は晴天が続いた。
9月2日には、⑳北山集落から再度綾子踊を奉納しようという相談があった。9月3日、救荒作物のソバを蒔いた。この日、㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした。4日、山上池の水が底をつく6日、青年団員が集まり、金刀比羅宮へ行き総参りをした。翌日、雨が少し降る。
17日の綾子踊り奉納後も、雨は降りません。状況は悪化の一途です。そんな中で9月2日に、次のようにあります。
「⑳北山集落の人から再度綾子踊をしようという相談があった。」、「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
とあります。これを、どう考えたらいいのでしょうか。
「⑳北山集落の人から再度綾子踊をしようという相談があった。」、「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
とあります。これを、どう考えたらいいのでしょうか。
綾子踊りの団扇
以前に、綾子踊りの記録文書を残した尾﨑清甫のことをお話ししました。
尾﨑清甫の残した記録
彼が文書を書いた時期は、1934(昭和9)年と1939(昭和14)年の両年のものがほとんどであることを指摘しました。この両年は、大干魃で県から雨乞いを行うように通達が出された年です。そして、佐文でも今見てきたように、さまざまな雨乞い祈願が行われていたことが分かります。そのような中で、雨乞い踊りが最後に踊られることになります。
ここで注目しておきたいのは、最初から綾子踊りが踊られた訳ではないことです。佐文もいくつかの小さな集落の集まりで、その小集落の属する水系(ため池用水路)や属性が異なります。つまり、一枚岩ではないのです。例えば先ほど見たとおり、中筋は龍王山を信仰の対象として、龍王講を組織していました。一方、北山集落は綾子踊りを継承していたようです。そのためすぐには、綾子踊りは踊られません。いろいろな雨乞い行事が行われ、それでも駄目なときに、佐文全体で綾子踊りの奉納を行ったと私は考えています。
尾﨑清甫
1934年の大干魃が去った秋に、尾﨑清甫は次のように記しています。 紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す 尾﨑清甫写之
これを意訳変換しておくと
佐文の戸数も百戸を越えるようになって、綾子踊について協議・実施することが困難になってきた。そこで(佐文全体ではなく)「北山講中」だけで「村雨乞い」の規模で、1週間雨が降ること祈った。(それでも雨が降らなかったので)再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが利生は少なかった。ところが旧暦7月29日になって十分な雨が降った。そこで俄なことではあるが旧暦8月1日に、雨乞成就のお礼踊りを奉納した。
ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと
尾﨑清甫の残した綾子踊り文書
また「団扇指南書起」には、次のようにあります。
また「団扇指南書起」には、次のようにあります。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」
意訳変換しておくと
「世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、色々な行事を行う際にも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。
ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見が分かれていたことがことがうかがえます。これを裏付けるものとして「佐文誌197P 綾子踊のこぼれ話」には、次のように記されています。
明治の末期からこんな話が残されている。ある日照りの年、村人の意見で村長が雨乞踊の奉納を決定しようとしたところ、一人の村人いわく「今、如何なる踊りを奉納しようともその甲斐なし。その踊る時間と労力をもって池の泥を出せ。さすれば来年はそれだけ多くの水を貯えられるなり。」これを聞いた村長は、次のように答えたり。「そなたの言もっともなれど、今、村人の欲するものは来年の水に非らず、明日の水なり。事ここに至りて神仏にたのまずして何に頼れるか。」この一言で、踊りを決定したという古老の話しである。
綾子踊りを奉納することについては「村内の者の心が同心に成りがたい」状況が生まれていたことが分かります。
そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。 そんな視点で白川義則氏の9月2日の日記を見てみましょう。
「北山集落の人から⑳再度綾子踊をしようという相談があった。」そして、翌日に「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
これは再度の踊り奉納を北山集落が求めてきて、翌日にその対応を中筋集落が話し合ったということでしょう。その答えは、「NO」だったようです。日記には、踊ったとありませんから・・・。
その後の記録を見ると
9~10日の朝までに十分な雨が降ったので、11日は㉒お礼の踊りを神社で二回踊った。中旬も三度だけ少雨が降ったのみで、水不足は続いている。
ここからは、9・10日に一定の雨が降ったことが分かります。そこで翌日の11日に「雨乞成就」のお礼のために、佐文全体で綾子踊りを2回踊っています。雨が降ったことを歓ぶ佐文の人々の感謝の気持ちが爆発して、この時の踊りは総踊りになって盛り上がったはずです。この高揚感が、尾﨑清甫に「綾子踊文書」を書かせる大きなエネルギーになったのではないかと私は考えています。
こうして見ると、明治以来忘れ去られようとしていた綾子踊りは、昭和の2回の大干魃という危機的な状況の中で復活したとも云えそうです。その時に、踊りに必要な団扇や花笠などが改めて制作されました。それを後世に伝えるために、記録に留めようとしたのが尾﨑清甫だったのです。
綾子踊の団扇
以上をまとめておきます
①讃岐には各地にさまざまな雨乞い踊りが伝承されていた。
②しかし、明治以後に文明化が進む中で、それらは迷信とされ踊られることが少なくなった。
③そのような中で襲来した昭和の2回の大干魃は、県知事に雨乞祈願をするようにという通達を出させるほど深刻なものであった。
④これに対して、各町村では伝えられるさまざまな雨乞い行事が行われた。
⑤その中で、佐文では忘れ去られようとしていた綾子踊りを佐文全体で復活させた
⑥それを後世に残そうとして、尾﨑清甫は由来や花笠・団扇などの記録を書残した。
⑦これがあったために、戦後に綾子踊りを再度復活させることができた。
そういう意味では、この時の大干魃がなければ綾子踊りは、忘れ去られていたかもしれません。
「2つの大干魃 + 尾﨑清甫の存在 = 綾子踊り文書の作成・保存」という図式がえがけそうです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾子踊り 雨を乞う人々の歴史 18P 綾子踊のはじまりと歴史
綾子踊の里 佐文誌14P 干ばつの歴史
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コメント
コメント一覧 (1)
中筋と北山とで文化が異なっていたことや旱魃を景気に復活していった経緯を知れて大変勉強になりました。
社会科の資料(私たちの香川県)の原稿を来年度以降修正して教えていただいたことを追記していきたいと思います!
tono202
がしました