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 私は獅子舞の始まりを、江戸時代の始め頃とおぼろげながら考えていました。
しかし、獅子舞が舞われるようになるのは、もっと後の江戸時代も後半の19世紀になってのようです。それも各集落が獅子を持つようになるのは、明治になってからの所もあるようです。
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村の神社に、獅子が登場するようになる前と、登場してからの変化について見てみます。
 江戸時代に「村」が成立し、近世の神社が讃岐の地に姿を見せるようになるのは18世紀あたりでしょうか。現在に残る各神社の棟札を見てみると、延喜式内神社などの古社を別にすると、社殿や拝殿が建てられるようになるのは18世紀頃のようです。
 もちろんそれまでも「氏神としての神社」はあったのでしょうが、社殿や拝殿を玉垣、鳥居などが整備されていくのは江戸時代後期から明治になります。このような神社のハード面の整備が先行します。そして祭礼が大衆化し、その目玉として獅子舞が登場するという運びになるようです。
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 前回に紹介したように中世15世紀半ばに琴弾八幡神社(観音寺市)の太鼓に合わせて舞う獅子現れ、江戸時代の18世紀後半に式内社・黒島神社(観音寺市池之尻町)に、紙製獅子頭を使った獅子が現れ獅子舞へと「変身」していきます。古社に導入された獅子たちが周辺の新設された神社に姿を現すのは19世紀になってからです。
祭礼記録に獅子たちが残した痕跡を追ってみましょう。 
県下の神社には、獅子舞の経費に関わる文書が数多く残されています。これらの文書を見ていくと、いつ頃に獅子舞が祭礼に定着していったのかが分かります。
その中には、獅子舞の数が増え奉納順を争ったり、新しい芸を稽古したりしことも記されています。

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       綾川町 文政9年 北の宮獅子ほうが(奉賀)帳      
 神社付き獅子(=トウヤ獅子)から組持ちの寄進獅子へ
綾川町の北宮八幡神社には、文政9年(1826)年に獅子頭をつくった時の寄付に関わる記録類が残っています。それによると当屋や獅子舞を4組が交替で務めていたようで、「当屋入目」の記録の翌年に「獅子入目」の記録があります。ここからは当屋があたった翌年に、獅子舞の役目が回ってきたことがうかがえます。
 注目したいのは、江戸時代後期のこの時代には、各組で獅子を持っていたのではないということです。つまり獅子頭は、最初は神社が購入した「神社付き獅子」を、各組が順番で担当していたのです。それが次第に、それぞれの組が持つようになります。なお、これより先の文化12年(1815)の当屋入目にも獅子が出てくることから、この時に「神社付き」獅子用具一式がつくり替えられたようです。ちなみに費用は「銀百八拾目 獅々かしら」とあり高価なものであったことが分かります。
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男山神社蔵(さぬき市寒川町年)では、今でも、各組から出される獅子とは別に「当番獅子」と呼ばれる獅子が奉納されています。当番獅子の順番がくると、自分の組の獅子と当番獅子の二頭をつかいます。これは、神社付獅子を氏子の組が輪番でつかう江戸時代の古いかたちが残っているのでしょう。県内には、他にも宮獅子、当番獅子と呼ばれる神社付の獅子だけを氏子が交替で奉納を続けている神社もあるようです。
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 もう一度整理すると、一番古い形としては神社や氏子全体で持っていて、順番に奉納当番が廻ってくるトウヤジシとかトウバンジシと呼ばれる様式です。でも、次に廻ってくる順番を待ちかねた「獅子ホッコ達」がお金を出し合ってこしらえたり、暮しに余裕ができてきた集落や、モッタサンと呼ばれる旦那衆が居る地区では「うちでも出さんか」といって単独でこしらえるところも出来てきたのでしょう。
 先ほども出てきた綾川町あたりでは、集落持ちの獅子をキシンと呼ぶそうです。これはトウヤ(陶屋・頭屋)獅子に対する言葉で、トウヤジシが祭りの神役の一つとして奉納するのに対して、キシンはすなわち寄進で、氏子から自主的に奉納するということからきた呼び名のようです。この他にも大字(江戸時代の旧村)全体で出す獅子や、広い範囲(数地区連合)で持っている獅子もあり、これらも古い形でなのでしょう。
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北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳
獅子舞の役割は?
綾川町陶の北宮八幡神社の獅子入目人別割付帳天保3年(1832)には、獅子役割として、獅子遣・太鼓打・曲太鼓・鉦・摺鉦・狸々舞などの役が記されています。この記録からは、獅子遣に2名の名前があり「二人遣い」だったことが分かります。また、獅子舞に「狸々舞」という獅子あやしのような芸が付いていたようです。
また、天保7年(1836)の記録には「ならし」と呼ばれる獅子舞の稽古について「獅子拍子始テミタチ流二相改候二付彼是ならし夜数例年より席数余分二相成候」などとあり、ミタチ流という新たな獅子舞の芸に改めたために稽古数が増えたことを記しています。私は祭礼の奉納のための獅子舞ですから先祖から受け継いだ物を大事に継承しているものとばかり思っていました。ところが、旧来の流派から新たな流派に変更することも頻繁に行われているのがうかがえます。
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             「獅子三頭始より究書」
獅子舞の奉納順番をめぐって争った高屋神社
嘉永3年(1850)の坂出市高屋町に「獅子三頭始より究書」と題された記録があります。もともと高屋神社には獅子が1頭だけでした。ところが、やがて南北2頭になって争いが起きるようになり、ついには獅子舞が奉納できなくなる事態になります。そこで嘉永3年(1850)に遍照院の仲裁で、もう1頭新設してより3頭に別れて奉納することになりました。獅子の数が1頭から2頭へと増えたことで、その順番をめぐって争いが起こっていたようです。神社で1頭の獅子しかいなかった頃には、起きなかった争いが何頭もの獅子が登場することで、奉納順や位置をめぐっての争いが各地でおきたことが残された文書から分かります。
獅子舞をめぐる取り決めを額にして随身門に掲げた国分八幡宮
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         国分八幡宮獅子順番定書(上)と追條目(下)
国分八幡宮蔵(高松市国分寺町)の定書も、安政6(1859)年の幕末期のものです。獅子舞を出していた下所・大東・東奥・馬場の4組では、神前の席順で争論が絶えませんでした。そこで安政6年(1859)未年と翌申年の奉納場所を取り決めたものがこれです。
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「追條目」は、定書を定めたのに翌年にまた争いが起こったので、獅子奉納については総代頭と相談して争いのないようにすること、獅子舞の宰領等は羽織袴で来るようになどと定められています。威儀を正して、争いの起きないように監視せよと言うことでしょうか。この神社では、この定書を額にして随神門に掲げてきました。争いの激しさと、それを収めるための智慧がうかがえます。
 ところが同社に伝わる「祭典奉納獅子席次帳」(昭和10年・1935)によると、その後も争いは絶なかったようです。そこで明治22年(1889)には、祭礼前日のトウヤ、当日の神殿前、お旅所それぞれの獅子組の奉納席順を定めています。また、昭和15年(1940)には、江戸時代に取り決めた6ヶ條の追條目で獅子舞奉納についての責任の所在などについて、坂出警察署国分駐在所巡査の立ち合いのもと協定をしているのです。獅子舞をどの場所で奉納するか、何番目に奉納するのかは獅子組にとって非常に重要だったのです。
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獅子頭の大型化は?
 江戸時代後半の天保年間に由佐の大溝の人たちによってつくられた「由佐古河の大獅子」と称される獅子頭です。獅子が各神社に姿を見せるようになった2百年前には獅子頭の大型化という現象も見られるようになりますます。現在の獅子頭は明治24年(1891)につくり替えられたものと伝わり、頭には「大正十口年」「昭和五十一年修繕/三豊郡三野町丸岡光信」などの銘があります。修理が重ねられて百年以上も使われてきたことが分かります。
 冠綴神社の祭礼には、池内大獅子(ともに県有形民俗文化財)と夫婦獅子として供奉されます。高さ90cm、幅160cm、奥行100㎝ 重さ50kg、油単の長さ12mで、運行には25人ほどの人手が必用です。
昭和の獅子舞大会がもたらした物は?
昭和になると獅子舞がさらに風流(ふりゅう)化しショウアップされるようになります。それが獅子舞大会の各地での開催でした。
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        県下獅子競技大会の優勝旗 昭和6年(1931)
 昭和6年に昭和天皇の御大典記念事業として多度津町に桃陵公園が開園します。その記念行事として「桃陵公園開園記念県下獅子競技大会(第1回)」(多度津商工会)が開かれ、ます。その時に優勝した家浦二頭獅子舞(三豊市仁尾町)が保存する優勝旗です。これをきっかけに開戦までは、県内各地で獅子舞大会が開かれるようになります。各獅子組は、県内から集まった獅子組との競演によって刺激を受けることになります。獅子頭や油単にも贅がこらされ、演技方法にも今までにないものが取り入れられ、獅子舞の「差別化」が進みます。この上に、現在の獅子舞はあります。そういう意味では獅子舞の歴史は、そんなに古い物ではないといえるのかもしれません。
さまざまな油単(ゆたん)
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          獅子舞油単  奥村定義製作(宇多津町) (戦後)
 獅子舞の胴をあらわす布は、香川県では油単(ユタン)、着物(キモノ)、幕(マク)などと呼ばれます。栗林公園の民芸館が所蔵するのり染の油単は、香川県の伝統的な絵模様の一つです。獅子油単の絵模様は、武者絵や龍虎などの絵模様が多いのですが、他にも毛模様や神紋などを配した油単、馬のたてがみを植えた油単も現れ、趣向が競われるようになります。
大漁旗が継ぎ当てされた油単
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 坂出市の白峰宮に奉納している原獅子舞保存会が使用していた稽古用の油単です。
古くなった油単に大漁旗の継ぎ当てされています。
戦争中は獅子舞が中止されていましたが、戦後になると混乱の中でも獅子舞を復活しようとする動きが出てきます。しかし、物がありません。最初は布団地の布を急造の油単にして復活させます。それでお花を集めてお金を貯め、新しい油単や獅子頭を購入したというところが多いようです。用具が十分でなくても獅子舞の復活を望んでいたのでしょう。
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  神風号東京-ロンドン間最短飛行時間樹立記念 白方自治会蔵(さぬき市鴨庄)
 さぬき市鴨庄の白方自治会の獅子に使われていた油単です。昭和12年(1937)に、朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間の最短時間新記録樹立(51時間19分23秒)しました。これは当時の日本にとっては、大きなニュースとして報じられ国民の心を揺さぶりました。それをテーマに図案化された油単です。中央は飯沼操縦士と塚越機関士で、当時のヒーローとなりました。油単には、社会の流行テーマも取り入れたのです。それは、中世以来の祭礼の風流(ふりゅう)化の流れを受け継いだ物なのでしょう。
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      獅子舞油単(乃木希典)  陶大宮八幡神社西川南組(祓川町)
 善通寺第11師団初代師団長として香川県にもゆかりの深い乃木希典の騎乗姿を図案化した油単です。乃木将軍は国定教科書に取り上げられるなど知名度も高く、庶民にも親しまれる人物だったので、英雄視されて油単にも登場しています。しかし、近代人が油単に登場するのはごく稀です。
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        虎頭の舞用具    東かがわ市白鳥虎頭舞保存会蔵
 東かがわ市の白鳥神社には獅子頭でなく虎頭舞が奉納されます。和唐内、虎つかい、鉦打ち、太鼓叩き、笛吹き 笹張り、拍子木、頭取で構成されます。面白いのは近松門左衛門の「国姓爺合戦」にちなんで、歌舞伎の趣向を取り入れて、隈取りをした少年扮する和唐内が虎を退治するストーリーが演じられるのです。大正11年(1922)に摂政宮であった昭和天皇が陸軍大演習の視察のため来県したおりには、善通寺第11師団で演じたようです。県内には、三本松・富田・津田でも虎頭が舞われていますが珍しいものといえます。

さて獅子舞がさかんに舞われる讃岐ですが、いろいろな問題に直面しています。
さきほど、大漁旗を貼り縫いして油単にしていた原集落では、それ以後も子舞存続のためのさまざまな取り組みをしています。
昭和30年(1955)頃、戦後休止していた獅子舞を青年会で復活。
平成10年(1998)若者不足により青年会による獅子舞奉納を中止。代わって年齢制限のない保存会発足。同時に中学・高校生による後継者育成開始
平成15年(2003)中学生、高校生による獅子舞開始
平成16年(2004)女子中学生による獅子舞(つかい手)開始
平成17年(2005)太鼓打ちに小学生女子児童がデビュー。
 原獅子舞保存会をはじめ、県内の多くの獅子組で、地域社会の変化に対応したさまざまな工夫が重ねられているようです。
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参考史料 香川県立ミュージアム 香川・瀬戸内の風流 祭礼風流