①底樋を隧道化し、半永久的なものとした。しかし、 竪樋やユルは木製のままで定期的な交換が必要であった②あくまで再築であり、嵩上げのは行われず貯水量は増えず、慢性的な水不足は続いた。③用水末端エリアの多度津藩などは、水掛かりから脱退・離脱した
明治期の満濃池の最大の課題は、貯水量の増加と竪樋の改良でした。
今回は明治の第一次嵩上げ事業と、大正のレンガ取水塔について見ていくことにします。テキストは「満濃池史134P」です。幕末に決壊した満濃池は、多度津藩などが脱退したので、受益面積は35%も減りました。これで池掛り全体に水を供給できるようになったのかと思います。ところが水不足は、変わらなかったようです。これを逆に見ると多度津などの脱退地域には、以前から十分な配水が出来ていなかったことを裏付けるものとも云えます。
次に讃岐を襲った干ばつを年表化したものをみてみましょう。
今回は明治の第一次嵩上げ事業と、大正のレンガ取水塔について見ていくことにします。テキストは「満濃池史134P」です。幕末に決壊した満濃池は、多度津藩などが脱退したので、受益面積は35%も減りました。これで池掛り全体に水を供給できるようになったのかと思います。ところが水不足は、変わらなかったようです。これを逆に見ると多度津などの脱退地域には、以前から十分な配水が出来ていなかったことを裏付けるものとも云えます。
次に讃岐を襲った干ばつを年表化したものをみてみましょう。
讃岐への旱魃来襲年表
上記の年表を見ると讃岐には明治初年から27年間に、9回もの旱魃が襲っています。これは3年に1度の割合になります。この時期の旱魃の多発化の背景には、次のような2つの新たな要因があると研究者は指摘します。
上記の年表を見ると讃岐には明治初年から27年間に、9回もの旱魃が襲っています。これは3年に1度の割合になります。この時期の旱魃の多発化の背景には、次のような2つの新たな要因があると研究者は指摘します。
①新田開発による水田面積の増加②サトウキビなどの商品作物栽培から水稲への作付転換増加 → 水不足
ちなみに香川県の水稲作付面積は
1889(明治22)年 31100㌶1906(明治38)年 37500㌶
で約6400㌶増加しています。水に乏しい讃岐では、江戸時代後期に水稲に代えて節水作物の棉、砂糖きびを奨励しました。それが幕末から明治になると輸人製品に押されて価格が低迷し、サトウキビなどの大部分が水稲に転換していきます。サトウキビと綿花の作付け面積は、次のように激減します。
サトウキビ
1865(慶応元)年 3800㌶ → 1910(明治42)年 600㌶綿花
1889(明治22)年 2500㌶ → 1906(明治38)年 100㌶
減った分は稲作に転換されます。これにあらたな水田開発などが加わり、農業用水の年を追って逼迫します。日清戦争が勃発した1894(明治27)年には大旱魃を受けます。そして、1904年・05年にも連続して旱魃に見舞われます。旱魃になると激増するのが水争いで、社会不安まで拡がります。このような現状を治政者たちも放置できなくなり、日露戦争が終わった1906(明治38)年に満濃池の第一次嵩上げ事業」が着工します。
この事業についての要点を整理すると次の通りです。
①授業主体は「満濃池普通水利組合(明治25年設立」②堤防を三尺(91㎝)嵩上げして、水深を2尺8寸4分(86㎝)深くし、貯水量を83万屯増加③総貯水量は約660万屯、満水面積は、94、3㌶となった。④堤防西端にあった余水吐を、堤防東瑞の移設し、トンネルを穿って放水路とした。⑤旧余水吐は、弘法大師修築の遺跡「お手斧岩」として保存⑥灌漑面積は約3861町⑦工事費用は16761円で、明治39年1月完成
しかし、②を見ると分かるとおり、堤防の嵩上げは1mに達せず、貯水量の増加は1割少々に留まりました。これは水需要に十分に答えられるものではありません。農民達が求めていたのは、大幅量増加だったのです。
レンガ造りの満濃池の取水塔
貯水量が大きく変わらない中で、大正時代になって大きく変わったのは取水塔の出現です。
幕末に決壊した満濃池は明治3年に再築されます。このときの従来との変化点は木造底樋に換わって、池の宮の岩山をトンネルで抜いて石穴底樋としたことです。しかし、 竪樋や取水櫓などは今まで通り木造でした。このため30年近く経つと木造部分が腐食し、明治31年には竪樋の取り替えを行っています。それから20年も経たない1914(大正3)年になると、再び竪樋交換が論議にあがります。
幕末に決壊した満濃池は明治3年に再築されます。このときの従来との変化点は木造底樋に換わって、池の宮の岩山をトンネルで抜いて石穴底樋としたことです。しかし、 竪樋や取水櫓などは今まで通り木造でした。このため30年近く経つと木造部分が腐食し、明治31年には竪樋の取り替えを行っています。それから20年も経たない1914(大正3)年になると、再び竪樋交換が論議にあがります。
この時の満濃池普通水利組合の管理者であったのが仲多度郡長の乾貢です。
彼は前任地の愛知県の人鹿池の取水塔方式の採用を提案します。議員達も現地視察のうえで新方式の検討を開始します。しかし、これに反対する組合員もいました。取水塔にした場合、今までの水利慣行が損なわれると危惧する人達です。具体的には江戸時代からの慣行である「樋外五十石」(樋外地域の常水の特権)と「証文水」(上流地域の用水独占使用の特権)の権利を失うエリアの人達です。
彼は前任地の愛知県の人鹿池の取水塔方式の採用を提案します。議員達も現地視察のうえで新方式の検討を開始します。しかし、これに反対する組合員もいました。取水塔にした場合、今までの水利慣行が損なわれると危惧する人達です。具体的には江戸時代からの慣行である「樋外五十石」(樋外地域の常水の特権)と「証文水」(上流地域の用水独占使用の特権)の権利を失うエリアの人達です。
そこで「配水塔方式になっても、旧来の水利慣行はこれを尊重し存続させる」ことを、組合議事録に明記することで反対議員を説得し、配水塔建設は議決されます。工事は1914(大正3)年9月起工、総工費18921円で、その年の11月に完成します。全高19,7m 円筒形の基底部径7,3m 上部径4,6mで、「仲多度郡史」(1918年刊行)には、次のように絶賛します。
赤レンガ取水塔完成以前のユル抜き 池の宮の前
昔の満濃池の「ゆる抜き」は二十数人の男が取水櫓に上がり、長さ二間の桧丸太棒八本を梃子にして、「エーヤ、エーヤ」の掛け声で筆木を抜き上げていました。そんな勇壮な景観に大勢の見物人が集まり、歓声を上げたようです。取水塔の完成によって、そんな姿も昔の語り草となってしまいます。
赤レンガ取水塔
この取水塔は湖面から就きだした赤い屋根が印象的で、絵はがきなどにも取り上げられ、新たな観光資源になっていきます。こうして、「明治維新の底樋の隧道化 + 大正期の赤レンガ取水塔」の実現で、木造底樋や 竪樋・ゆるなどは姿を消します。300年間にわたって続けられてきた掛け替え工事から解放されることになったのです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
参考文献 「満濃池史134P」
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