瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

史談会へのお誘い
手作り講演会・史談会の今回の講師は白川琢磨氏です。白川先生は、福岡大学で英彦山など九州の霊場のフィルドワークワークを数多くこなしてこられた方です。退官後、郷里讃岐にお帰りなり、地元の山林修行者や修験者などの痕跡を辿っておられます。その中から見えて来たことを、「学問」の遡上にあげて語っていただけるようです。時間と興味のある方の来訪を歓迎します。
日時 9月21日 17時~19時
場所 まんのう町四条公民館(四条小学校前)
場所が、新しくできた四条公民館になっています。四条小学校の前です。

満濃池の近代になってから次の2つの嵩上げ事業が行われてきたことを見てきました。
①1905(明治28)年 第一次嵩上げ事業
②1930(昭和 5)年 第二次嵩上げ事業
満濃池嵩上げ工事一覧表
満濃池嵩上げ工事比較一覧
上記の2つの工事で満濃池は、約3割近く貯水量を増やし、総貯水量は780万屯になりました。これで満濃池掛かりは旱魃から逃れられると多くの人達は安堵したようです。しかし、1934(昭和9)年、1939(昭和14)年と、連続して「想定外的の未曾有の旱魃」が西日本を襲います。これについては以前にお話ししましたのでそちらを御覧下さい。
昭和14年の旱魃新聞記事
昭和14年の旱魃を伝える香川新報

P1260818

簡単に昭和14(1939)年の県の対応を見ておきましょう。
7月23日 香川県知事が滝宮天満宮で雨乞い祈祷実施
8月 2日 県下市町村長に対し、12日間一斉に雨乞い祈祷を行うように県が通達
9月 7日 県下各小学校に児童が日の出と日没前に土瓶水を稲にやって枯死を防ぐよう通達
知事も神頼みと雨乞い祈祷などしか打つ手がありません。小学生まで動員して、用水確保に努めています。しかし、苦労は報われません。全く米の獲れない田んぼが続出し、収穫があっても、全耕地の約半分が平均収穫の半分以下の大減収になります。
 この年の干ばつは、満濃池の水掛かりにも襲いかかってきます。
8月初めには「証文水」の水位まで下がり、残り水は僅かで一合水になってしまいます。ほとんど底を見せることのない満濃池も、8月21日になると昭和9年に続いて再び池底を見せます。そのため用水の最下流にあたる丸亀市や、多度津の白方村の収穫は皆無で、郡家・四箇村辺りも8割以上の大減収と記録されています。

その年の9月に、満濃池の池の宮(神野神社)で、満濃池水利組合の幹部らと県の耕地課の課長らの間で会談がもたれます。目の前の満濃池は、池底2、3尺だけの残水状況でした。組合の幹部らは干あがった池底を指差して、県の役人につぎのように訴えます。

「9年前の昭和5年に満濃池の堤防を5尺かさ上げして、貯水量は2割増しになりました。しかし、それでも足りなかった。再度かさ上げして、さらに池水をふやしたい。ついてはあらたに土器川から取水するつもりです。ご協力を願いたい」

こうして水利組合では、3度目の満濃池嵩上げを決議し、国や県に早期実現を訴えていきます。政治家達も「農業用水の確保」が至急の政治課題であることを改めて痛感し、国に働きかけます。その結果、農林省は1940(昭和15)年1月、係官を現地に派遣し、調査・設計に当たらせ、1941(昭和16)年度から工事に着手することが決まります。
この計画の特徴は、戦時体制下の食料増産とも結びついたもので、満濃池の導水や嵩上げだけでなく、土器川右岸の岡田などの綾歌郡へも用水補給を目的とした「農業総合計画」的なものでした。
 計画は、次の2つの柱で構成されていました。
①「土器川貯水池(ダム)」築造と土器川右岸への用水供給
②「満濃池の嵩上げ」工事で、大幅な貯水量アップ
②の嵩上げ計画では、堤防を6m嵩上げして貯水量を倍増させようとする画期的なものでした。また、水掛かり区域(水利エリア)も、旧白方村、四箇村、吉原村、川西村、豊原村の区域を加え、4600㌶に拡大しようというものです。しかし、この計画には問題点がありました。それは前回の第2次嵩上げ事業と同じく、満濃池を大きくしても、満水にできるかどうかです。1930年の第2次嵩上げ工事の時には、財田川から冬場に限っての導水ということでなんとかクリアしました。第3次の場合は、土器川からの導水案が出されます。
①の「土器川貯水池(ダム)」は、満濃池への導水のためと、土器川右岸(綾歌郡岡田側)水田2050㌶の用水源とするという二つの目的を併せもつものでした。

土器川貯水池計画
土器川ダム予定地は堰堤が常包橋上流附近

「土器川貯水池(ダム)」の建設予定地は、まんのう町炭所西の常包橋上流で、土器川本流を高さ24m、長さ153mのコンクリート堰堤で締切り、貯水量310万トンの貯水池を築造するものでした。水没地予定地の塩田、平野の両集落名の二字を合わせ塩野池貯水池(以下は土器川ダム)と計画書には命名されています。  
 こうして1941年4月、土器川ダムの築造と、満濃池の第3次嵩上げ工事が着工します。
まず土器川ダムの建設される常磐から満濃池への導水隧道工事が下流の満濃池側から始められます。同時に満濃池の嵩上げ工事についても盛土・余水吐放水路、付替道路等の工事が始まります。このまま進めば、ダム水没予定地の平野・塩田集落の集団立ち退きもスケジュールに入ってきたかもしれません。ところがその年の12月に、真珠湾攻撃が行われ日米開戦となります。それでも工事は続行されたようですが、次第に資材や労力が日増しに欠乏するようになります。国は1944年7月に「決戦非常措置」の名のもとに、戦争に直接関係のない公共事業の中止を命じます。このため土器川沿岸用水改良事業の工事も、全て中断されます。この間に進んだ工事は、次のような僅かなものにすぎなかったようです。
①導水隧道延長約200mの開削
②堤防盛土、3000㎥
③樋管、余水吐放水路・取付道路工事の一部を施行
ちなみに、このときに計画された塩野貯水池について「満濃池史184P」には「特集 まぼろしの土器川ダム」として、次のように紹介されています。
戦時中、土器川の本流をせき止めて巨大ダムを造る計画があった。建設予定地点は、まんのう町常包橋上流で、湖底に沈む長炭村や造田村(琴南町)の一部は、ごっそり満州に移民させようというものである。今から考えるとずいぶん乱暴な計画だが、戦時下の有無を言わさぬ「国家総動員法」のもとでは、泣き寝入りするほかなかったのかもしれない。この計画は「土器川沿岸用水改良事業」と名付けられ、土器川をはさんで丸亀平野一帯の用水を確保しようという、壮大なものであった。 満濃池は直接流域が狭いため、せっかく大きくしても水の貯まりが悪い。そこで近くを流れる土器川の本流を締め切って、高さ24m・貯水量310万屯のコンクリートダムを築造し、その貯水をトンネルで満濃池に導水しようというものである。
満濃池の高上げ工事は、昭和15年に着工されたが、その翌年に大平洋戦争に突入した。ダムと満濃池を結ぶトンネルも両側から掘り進められましたが、戦局は次第に悪化し、セメントや鉄筋などの建設資材や、労力も極度に不足してきた。そのうち昭和19年には「決戦非常措置要項」が発令され、不急の工事はすべて中止せよとのお達しである。
満濃池の工事も中止に追い込まれ、やがて敗戦を迎えた。こうして湖底に消え去る運命にあった村は、危うく満州移民から逃れることが出来た。満濃池の嵩上げ工事は戦後間もなく再開されたが、ダム建設計画は大きく変更される。すなわち土器川上流の天川(琴南町)に取入関を設け、ここから、直接トンネルを抜いて満濃池に取水することとなった。このため戦時中の土器川ダム計画は「まぼろしの計画」として消え去り、今では当時の事情を知る古老も少なくなってしまった。
(平井忠志)
また戦前に掘られた「①導水隧道延長約200mの開削」部分は、今も残っているようです。
満濃池 塩野池(土器川ダム)隧道
塩野池(土器川ダム)から満濃池への隧道の一部(かりん会館)

以上をまとめておきます
①明治以後の2回の嵩上げ事業によって、満濃池の貯水量は3割近く増加し、旱魃への対応も整ったと思っていた。
②ところが昭和9・14年の旱魃は想定外のもので、社会不安にさえなった。
③そこで第3次の嵩上げ工事が昭和16年から行われることになった。
④この事業の目玉は土器川からの導水で、そのために「土器川ダム」が計画された。
⑤しかし、第3次事業は着工後の12月に太平洋戦争に突入し、ほとんど工事進展を見ないまま終わった。
⑥そのため土器川ダムの湖底に沈む予定であった集落も、集団移転を免れた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池史176P 第3次嵩上げ工事と土器川流域取水

 

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