瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

中讃TV「歴史の見方で、満濃池を再築した西嶋八兵衛のことについてお話しました。2月中いっぱい平日の毎日放送されるようです。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。こちらからも御覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw


敗戦後の国民を襲ったのは食糧不足です。そのため政府は、食糧確保と増産に優先的に取り組みます。そして緊急開拓と土地改良が大々的におし進められます。そのような流れの中で、戦争で中断していた満濃池嵩上げ工事が敗戦の翌年1946年9月には再開されます。

再開に当たって戦前の計画は大きく変更されることになります。
まず、前回にお話しした「土器川ダム(塩野池貯水池)」の廃止です。このダムの建設目的は、次の2点でした。
①土器川綾歌の岡田地区などへの農業用水の配水、
②満濃池への取入口

土器川貯水池計画
炭所の常包橋上流に予定されていた土器川ダム
建設予定地は、現在のまんのう町炭所西の常包橋上流で、土器川本流を高さ24m、長さ153mのコンクリート堰堤で締切り、貯水量310万トンの貯水池を築造するものでした。塩田、平野の両集落の百戸あまりの人達は水没のため強制立ち退きが予定されていました。軍部は満州への集団入植を考えていたとも言われます。これは、戦時下の緊急増産の旗印があったから進めることができたことで、戦後になってこれを進めば猛烈な反対が予想されます。「水没予定地の人達の同意を得るのは無理、他の方法を検討すべし」ということになります。こうして土器川から満濃池の導水計画は、根本的に練り直されることになります。
満濃池天川導水路
土器川からの天川導水路と満濃池
 それに代わって提出されたのが「天川導水計画」です。
天川導水計画は、琴南町造田地区(天川神社前)に取水堰を設け、延長約4、7㎞の導水路によって、満濃池に導水する計画です。しかし、満濃池は土器川に関しては水利権を持っていません。そこで財田川と同じように、冬場の時期に限っての導水を求めます。その代償として県が打ちだした対応策が次の二点です。
①満濃池の嵩上げを、さらに1m高くして7mとする。これによって貯水量を150万屯増やして、綾歌側の用水に充てる。
②この満濃池の水を綾歌綾歌側に送水するために、土器川を越え綾歌側(満濃町長尾)に達する「土器川新分水路」を新設する
以上の変更案を、1949(昭和24)年8月に国に申請します。

天川導水口 2
現在の天川導水口

しかし、「天川導水路計画」が公になると、綾歌側から次のような強い反対の声が挙がります。
①「土器川の水は綾歌側のものである」
もともと土器川の水は、大部分が旧長炭村「札の辻堰」から綾歌へ取り入れられ、打越池、羽間池、小津森池、仁池、大窪池などのため池に送られてきた。さらに土器川の中に作られた十数か所の集水暗渠からの取水で、坂出、宇多津、土器の海岸近くまでも灌漑してきた。つまり土器川の水は、綾歌のもので、満濃池は土器川になんの水利権もない。土器川の水は、洪水までも自分たちのもので、それを侵すものは既得水利権を侵害するものであり、黙っておれない。

②県と満濃池水利組合の強引なやり方は、前例を無視した強引なやり方である。

県は綾歌側の水源となる「土器川ダム」計画を、事前の説明もなく一方的に中止した。にもかかわず、それに替わる綾川への水源計画を立てることもしない。その上に、こともあろうか綾歌が水利権を持つ土器川の上流の天川から満濃池への水を取り込もうとしている。これは水泥棒だ。黙っておれない。

 これに対して県は、次のように説明します。
「天川からの導水計画は、綾歌側の既得水利権を侵害してまで満濃池に導水しようというものではない。あくまでも洪水時の余水を取り入れようとするものである」

しかし、県側に最初のボタンのつけ間違いがあるので、入口でつまづいて話は進みません。
 これにたいして満濃池側では、1950年2月に綾歌側に対して天川導水路工事に着手を正式に申し入れます。
しかし、同意を得ることはできません。そこで綾歌側の同意なきまま「たとえ天川導水路が完成しても、綾歌側との話し合いがつかない限り、通水はしない」と、一方的な通告をした上で、天川導水路新設の工事実施に踏み切ります。これは「同意なき見切り発車」です。高圧的なやり方です。綾歌側の「土器川綾歌地区水利用者会」は、代表を東京に送り直接農林省に対し、天川導水路工事の即時中止を、次のように陳情します。
一 綾歌の同意を得ずに強引に天川導水路工事に着工した。
一 県は、約束に反して塩野池貯水池廃上に替わる水源開発に着手しない。
中央にまで飛び火した情勢を受けて県は、収拾のために綾歌側の要求に応える形で次のような具体案を示します。
満濃池右岸水系
①備中地池、仁池新池の二つのため池の新設
②亀越池嵩上げと仁池導水路(札の辻井堰から仁池まで)の改修による用水改良計画
③以上で土器川ダム中止に替わる必要水量225万屯を確保する
この案は綾川側が求めていたものに添ったものだったので、1951(昭和26)年になって綾歌側の了承を得ます。さらに国も、これを「県営土器川綾歌用水改良事業」として採択します。そして、翌年には、土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして、両者の歩み寄りが始まります。しかし、天川導水の合意までには「 札の辻井堰の水利紛争」というもう一波乱を経なければなりませんでした。

以上をまとめておくと
①戦後の食料増産の一環として、満濃池の第3次嵩上げ事業が再開された。
②しかし、戦前の「土器川ダム」建設によって満濃池に導水するという案は、大量の強制立ち退きと移住を前提としたもので、戦後の情勢の中では実施は困難となる。
③替わって、県は造田の天川神社前からの導水計画を出すが、事前説明や根回し不足などから綾歌側の強い反発を受ける。
④県は「土器川ダム」に替わる干害対策を立案し、新たなため池整備などを行うことで綾歌側の理解を得ようとした。
⑤こうして綾歌側も軟化し、1960年に「天川導水計画」の協定書が結ばれる。
以上を見て、現在の我々の高見から「教訓」を学ぶとすれば、県の対応に「上意下達」が目立つという点です。前々回の第二次嵩上げ工事の際の財田川流域の水利組合の対応の際にも述べましたが、事前説明もなければ、各水利組合への個別説明、ましてや根回しもありません。戦前の「土器川ダム」計画廃棄と新たな「天川導水計画」も一方的です。これは綾歌側の水利組合の怒りに油を注ぐようなものです。対応案も「後出しジャンケン」で、最初から示せたらもう少し結果は異なっていたかもしれません。どちらにしても、戦前と変わらない県と満濃池水利組合の対応ぶりを感じます。
 「事前説明+個別説明」などが県の対応に見られようになるのは、五毛地区の水没農家の立ち退きをめぐってのようです。それはまた別の機会に見ていくことします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  満濃池史185P 第3次嵩上げ事業 敗戦と事業の再開
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