瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

中讃ケーブルテレビ「歴史の見方」で、満濃池と長谷川喜平次についてお話ししました。また7月中に毎日放送中です。時間と興味のある方は御覧下さい。
番組は、こちらのユーチューブからも御覧いただけます。
https://youtu.be/t-oyJJ76eok

満濃池堤防断面図一覧
満濃池嵩上げ工事一覧表
満濃池嵩上げ事業一覧表
戦後の嵩上げ工事では、それまでの貯水量の約2倍にあたる1540万立方メートルが求められました。そのため従来の堰堤では耐えきれないので、いままの堤防を前側に抱き込むようにして本堤がその後方に築かれることになります。新堤は旧堤よりも6m高く、堤高は32m、堤長は155mの規模です。
長谷川佐太郎 平面図
1870年 長谷川佐太郎再築の満濃池

満濃池 1959年版.jpg2
      第3次嵩上げ事業で姿を現した現在の堰堤
旧堤の外側に、旧堤に重なるように新堤の天巾を20mも幅広くとったのは、恒例のユル抜きのときに、例年堤防上に出店や屋台が立ちならんで見物客が多数寄り集うことを配慮したからだとされます。

満濃池池の宮
堤防上にあった池の宮(神野神社)
この結果、旧堰堤上にあった池の宮(神野神社)は水没することになり、現在地に移されることになります。

満濃池 現状図

一方、空海伝説の伝わる②の「護摩壇石」は、水没を免れそのままの位置(現在地)に島として残されます。池の宮と、護摩壇岩の標高差は5m足らずです。この対照的な扱いの背景には何があったのでしょうか? 施工計画者の中に「空海=護摩壇岩は沈めずに残す」という意図があったように私には思えます。こうして両者は次のような対照的な道を辿ることになります。
①護摩壇岩は、湖面の中の島として存続
②池の宮の岡は、削りとって平面化し湖底化
満濃池水利組合では、作業人夫の割当表を作って、5反歩に1人の割合で15の旧村に割当てます。
 しかし、当初は事務所も池下の電気もない小屋で、所長を含めて3人の体制だったようで、戦後の混乱期でもあり、「資金 + 機械 + 技術者 + 人夫」など何もかもが不足していました。その上に労働運動の高揚期で、その余波が堤防の工事現場にも及んできて、「満濃池労働組合」が結成されます。特にはげしかったのが1948・49 年頃のようで、満濃池史186pには当時のことについて、次のように記します。
敗戦によって人心は荒廃し、現場労務者の素質は悪く、仲間同士の喧嘩沙汰も絶えず、作業中に怪我でもすれば、大したことがなくても過大な災害補償を要求し、何日も公休をとるような始末だった。昭和22(1947)年9月に結成された満濃池労働組合は、賃金値上げ、労働協約の締結、有給休暇の要求、経営協議会の提唱、慰安行事の実施など、次々と要求を掲げ、労働攻勢を続け、それによる作業能率の低下は今日では想像できないものであった。
また別の職員は次のように回顧しています
「県営事務所」の看板と並んで「満濃池労働組合」の看板が懸けられ、事務所内には組合専従者の机が設けられていた。最盛期には男子1名、女子1名が常勤して組合事務を処理するとことが約1年以上続いた。曰く「労働協約の締結」、曰く「有給休暇の要求」、曰く「経営協議会の提案」と、いとまのない労働攻勢で、所長室に組合幹部の姿が見えぬ日はないと云った状態だった」
昭和34年刊行 「まんのう 満濃池工事竣工記念号」
 組合問題に苦慮した県当局がとった対策は、工事の大半を満濃池普通水利組合(後の満濃池土地改良区)と請負契約することです。
1949(昭和24)年になると、県は一切の工事を、「地元請負」と称して「満濃池土地改良区」に請け負わせることとし、労務者170人のうち百人を解雇します。そして「満濃池土地改良区」に、県から請け負った工事を、建設業者に下請けさせる体制を作り出します。こうして県は、労務問題に直接関わらない体制を作ります。そして人員削減への対応として、当時としては珍しかったベルトコンベアを導入し、一番労働力を要していた盛土運搬の能率化を図ります。これが成功の要因だったと関係者は回顧します。

1950年代になると工事は、昼夜三交代になり本格化していきます。
この年の2月15日には、工事中の満濃池堤防を天皇が行幸して、工事状況を視察しています。この時は新堤は、まだ旧堤よりもはるかに下にあって、現場はまるで広場のような写真が残っています。

満濃池第3次嵩上げ事業 2
       満濃池堰堤工事現場 1951年
西側の山からベルトコンベアで運ばれてきた土を、ブルドーザーがならしている。これらの「新兵器」は米軍払い下げ。

満濃池第3次嵩上げ事業 1
満濃池嵩上げ工事1951年
3人1組のリヤカーで埋め立て地まで運び、それをローラで固めている。まるでグランド整備のように見える。ここが堰堤になっていく。

こうして、2年間で7万立方メートルを超える盛土が積まれていき、堰堤がみるみると高くなっていきます。1952年7月には、嵩上げ新堤姿が見えてくるようになります。
 満濃池1951年本堤
1951年11月29日の満濃池堰堤
(堤防越に見える樹木の推移に注目)
1952年満濃池
       1952年7月17日 満濃池堰堤の進捗状況
1953年満濃池堤防
1953年2月2日 満濃池堰堤の進捗状況

1952(昭和27)年3月28日の四国新聞には、次のように報じられています。

工事は高松市玉藻建設が土砂運搬を請け負い、延長190mの大型コンベアで一日200立方メートルもの土砂を運ぶという大がかりなもので、水漏れを懸念してコンクリートは全然使わず、このため付近の小山六か所は変形するほどにつぶされ、毎朝午前四時頃から寒風にさらされ、野鳥の不気味な声を聞きながら総燭光5000ワットの投光器の光りの中で最後の仕上げを急いでいる」

  こうして1950(昭和25)年以後に本格化した堤防工事は、1953(昭和28)年に最後の仕上げに入ります。
盛上約18000立方メートル + 前法石張り3270平方メートル」を終えて、堰堤6mの嵩上げ工事が完了します。その際に、旧堤の弘法人師ゆかりの護摩壇は、その姿を残す形で石張りがおこなわれたようです。
P1240743 レンガ取水塔 1914年
大正時代の赤取水塔取水塔

堤防工事が終わると、最後に残されたのが新取水塔の建設です。
大正時代に作られた赤レンガの取水塔は、満濃池のシンボルタワーとして人々に親しまれてきました。しかし、堰堤が6m嵩上げされるために、水面も当然6m高くなり、水没していまします。そのため新しい取水塔を建設する必要が出てきます。
P1260822
旧取水塔と新取水塔(かりん会館展示室)

 取水塔の工事は、1955(昭和30)年度に実施されました。
取水塔は湖底の一番低い所にあります。そのため工事のためには、池を干し上げる必要があります。かつての底樋工事のように、秋から冬に行って、水をためる期間を出来るだけ長くとり、6月のユル抜きの時には満水で迎えるというのが「流儀」でした。たまたま1955(昭和30)年が大旱魃だった干ばつに見舞われ、秋には満濃池にはわずか50万屯の水が残っているだけです。その池水が吐き出され、池底が見えて来たのは10月半ばだったようです。
 新しい取水塔は、旧取水塔の立っている基盤が悪いために、その位置を堤防中心寄りに移し、旧堤防の先を掘削して設置されることになります。塔自体の計画原案は東京教育大学の松田教授に依頼し、細部は現地に合わせて県営事業所が設計しています。

満濃池取水塔
満濃池の新取水塔設計図

 貯水開始が12月20日と決められたので、2か月間で基礎部分を完成させ、それ以後は日増しに高まる池の貯水位と競争しながら、塔を高くしていくという工法です。
11月1日、旧取水塔の取り壊しが始まります。
取り壊しは、塔体の最下部を大本を伐採するように、ちきり形の切り込みを入れて、最後はダイナマイトを用いて、掘削しておいた池底に横倒しにするという工法です。こうして旧取水塔は、1955(昭和55)年11月15日午前11時、巨体を池底に横たえます。
満濃池 旧取水塔の取り壊し
倒れる瞬間の旧取水塔(1955年11月15日)
新取水塔の工事を監督した県担当者、横山伝治氏の記録が「満濃池史」に次のように収録されています。

取水塔の仮締め切りは普通するように土俵で行った。基礎岩盤の掘削が終わるとともに土俵を積み始め、二重ないし四重に高さモメートル程積み上げ、第一回のプレパクトコンクリートを打った。これは岩盤掘削の形どおりに型枠も使わず打ち込むわけで、このとき我々は、これなら大丈夫と安心するとともに、少しなめてかかる結果となった。

満濃池 新取水塔
湖底に姿を現した新取水塔
第二回日の打設も基礎部分で、これも苦もなく終わった。ただ気温が昼間でも三度、四度と下がり、とくに夜間には零下四~五度も珍しくなく、凍害を心配したが、まず失敗はなかった。次の第三回目は、打ち上げた基礎の上に塔体型枠を立てプレパクトコンクリートを打ち込む初めての作業でした。これはとくにモルタル乳の流出を防ぐため、型枠は相欠ぎ状として、幅五センチメートルの布を、その継ぎ手に厳重にパテで貼った。何しろ相手はドロドロのモルタル、型枠の僅かな隙問からでも漏れるのは当然のことで、用心に用心を重ねて施行した。これも成績は良かった。これなら大文夫と誰しも安堵した。
ところが、次は大きな失敗をした。そのときは、二日前の雨で高さ三メートルの締切り土俵の天端まで、おおよそ七〇センチメートルに水位が迫っていた。しかし、この程度の雨なら計算上まだまだ大丈夫であり、模様を見た上で、明朝でも土俵を嵩上げすればよいと楽観していた。しかし、その夜の増水は格別で、あっという間に土俵を押し流し、型枠越しに塔体内に溢水し始めた。一月十九日の夕方のことである。下手をすると、再び貯水を全部排除して、基礎だけを残してやり直しを覚悟しなければならない。県営事業所の所長以下一同顔色を失ったのも当然と言える。早速、雨の中を応急措置に走り回り、ともかくどうにか食い止めたのは二十日も真夜中のことだった。後で調べてみると、やはり予定外のことだった。今回の雨ではおおよそ二〇センチメートルの増水となるのが関の山であるはずが、貯水を心配した満濃池土地改良区が、折角の雨を無駄にしてしまうのはと、財田川からの取り入れを始めていたのであった。
満濃池土地改良区としては、六月二十日の間抜きまでには何とか貯水を増やし、組合員に迷惑をかけないようにしたいという、水に対する執念が、このような予想外の事態に直面する結果を招いたが、県の寝食を忘れた適切な対応で、これを乗り切ることができた。
満濃池 新取水塔2
完成間近の新取水塔
 新しい取水塔は、色々なデザインの中から近代的なものを選び、塗装の色も専門家を現地に招き、周囲の山と水にふさわしい純白色が採用されます。その結果、軽量感のある洒落たものに仕上がったと評判だったようです。取水塔建設費は、おおよそ三千万円でした

以上をまとめておくと
①戦前に開始された満濃池第3次嵩上げ工事は、戦争のために中断されていた。
②戦後の食料増産運動の一環として、戦後直後に再開されるが戦後混乱期の物不足の中で、工事は遅々として進まなかった。
③また戦後の労働運動の影響を受けて、労働問題が深刻化して現場の混乱に拍車をかけた。
④嵩上げ工事が本格化するのは1950年代に入ってからで、機械化が進む中で軌道にのり、1953年に完成した。
⑤こうして貯水量は従来よりも倍増したが、池の宮などは池に沈み、護摩壇岩だけが残った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 辻 唯之  戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢 18
満濃池史194P 満濃池の嵩上げ 嵩上げ堤防工事、本格化 
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