戦後の満濃池第3次嵩上げ事業の「かなめ」となったのは、大川頭首工と天川頭首工でした。
前回まで見てきた堤防嵩上げや取水塔工事は、あくまで土木工事次元の問題で、技術的には大きな問題があった訳ではありません。最大の障害は、水利権のない土器川からどのようにして、満濃池に水を引くかということでした。これは、土器川の水利権をもつ右岸(綾歌側)と、交渉を通じて打開の道を探るしかない極めて政治的な課題でもありました。満濃池側が、どのようにしてこの課題に対応したのかを今回は見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池 香川大学経済論叢18」です。
これまでの土器川から満濃池への導水計画の経緯を振り返っておきます。
これまでの土器川から満濃池への導水計画の経緯を振り返っておきます。
①戦前の第3次嵩上げ事業は、満濃池の導水や嵩上げだけでなく、土器川右岸(綾歌側)への用水補給を目的とした「農業総合計画」的なものであった。
②内容の柱は「土器川ダム(塩尾の貯水池)」を築造して、土器川右岸への用水供給をすると同時に、その代償に満濃池の導水を綾歌側が認める内容であった。
③つまり、綾川側の水源確保の代償として、土器川への導水を認めるという政治的な妥協の上に成立した内容だった。
③しかし、戦後の計画では、多くの水没家屋を出すことになる「土器川ダム」計画は頓挫し、天川神社付近から満濃池に導水する「天川導水路計画」に変更された。
④これは綾歌側からすれば、上流で土器川のを満濃池にとられて、その見返りは何もないということを意味した。
⑤そのため綾歌側は「天川導水路計画」に反対の声を挙げたが、満濃池側では、1950年2月に綾歌側の合意をえないまま天川導水路工事を「見切り発車」させた。
⑥これに対して綾歌側の「土器川綾歌地区水利用者会」は、農林省に対し天川導水路工事の即時中止を陳情した。
⑦中央にまで飛び火した情勢の収拾のために県は、綾歌側の要求に応える形で、「備中地池、仁池新池の二つのため池の新設 + 亀越池嵩上げ」土器川ダム中止に替わる必要水量225万屯を確保を綾歌側に提案。
⑧この案は綾川側が求めていたものに添ったものだったので、1951(昭和26)年になって綾歌側は了承します。そして翌年には、今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
土器川右岸(綾歌側)の水系
つまり、県は備中地池や新池などの新池築造で綾歌側の水源確保に答えようとしたのです。こうして、満濃池側と綾歌側は歩み寄りのテーブルにつくことができる条件が整ったかのように思えました。
そのような中で発生したのが長尾の札ノ辻井堰で起こった水争いでした。
その経過を見ていくことにします。満濃池第3次嵩上の堰堤工事が完成に近づく中、1955(昭和30)年は大旱魃に襲われます。水不足になると頻発するのが「水争い(水論)」です。
そのような中で発生したのが長尾の札ノ辻井堰で起こった水争いでした。
その経過を見ていくことにします。満濃池第3次嵩上の堰堤工事が完成に近づく中、1955(昭和30)年は大旱魃に襲われます。水不足になると頻発するのが「水争い(水論)」です。
札の辻バス停(まんのう町長尾) 左が土器川、石碑は「大川神社」
長尾の札の辻井堰でも水争が起きます。長尾はかつては鵜足郡に属していて、ここには高松藩の札場がありました。今でも、バス停名は「札の辻」で、すぐそばに「大川神社」の大きな石碑が建っています。この地が雨乞い祈祷の場でもあったことがうかがえます。また、ここには土器川から岡田・綾歌方面への最大の取水口が開かれていました。それが札の辻井堰です。ここから取り入れられた土器川の水は、長尾を経て打越池へ送られ、綾歌各方面のため池に配分されます。つまり、綾川用水網の取り入れ口として最重要ポイントであった所です。 ちなみに「岡田」は、その名の通り台地状地形で近世まで開発が遅れた地域でした。そこに水田開発が進められるようになるのは近世になってからのようです。谷間の一番上に、「谷頭池」を築くことで水田化が進められます。そして水田化が進むと水不足になり、ため池を築くと云うことを繰り返して、「岡田」は開発されていきます。そして「ため池飽和状態」になると、満濃の山の中に亀越池を築きます。そこから土器川に用水を流し、札ノ辻井堰で長尾側に取り入れ打越池に入れることが行われるようになります。つまり江戸時代から土器川自体が亀越池の用水路として利用されてきたのです。
8月15日付けの四国新聞は、辻の札での水争いの様子を「土器川を挟んで水げんか 約百名が座込み」という見だして次のように報じています。
「(8月)13日午後一時頃、綾歌郡長炭村長尾部落(耕地面積四十五町歩)が、土器川の取入れ口、札の辻井堰を同川全体に作り、川の水を同部落に引き入れようとした。このため対岸の吉野地区野津郷、宮東、宮西部落(耕地面積四十五町歩)では、従来二分されていた土器川の水を全然こちらへ流さないようにするのはもってのほかだと長尾側が作った井堰を直ちに切って落としたため、川をはさんで両部落の農民が対立、それぞれ約五十名ずつが同日午後七時ごろからクワ、ツノレハシを持って川をはさんで座り込み、不穏な形勢を示した」
現在の大川頭首工と札の辻井堰
札の辻井堰直下の左岸(吉野側)には興免、荒川の出水があって、これらの出水の水は吉野地区に入ります。札の辻井堰は、これまで土器川の右岸堤防から川の中央部まで築き、そして長尾地区は右岸寄りの水を、吉野地区はその下流で左岸寄りの水を取るならわしでした。しかし、1954(昭和29)年の台風で河床の状況が変わり、翌年の夏の土器川は川水が左岸寄りにしか流れなくなったので、長尾地区は札の辻井堰を川幅一杯に築く措置をとったようです。これでは下流の吉野側の興免・荒川の出水に水が落ちなくなります。そこで、吉野村の農民達が井堰を切り落としたようです。こうして両地区がにらみ合う中で、昼間は警官が井堰の堤上に座り込み、夜間はパトカーの照明灯が明々と現場を照らすというものものしい警戒が続きます。
ところが19日になって事態はさらに悪化します。
この日の午前中に、亀越池のユルが抜かれ、この池水を確保しようと長尾側がふたたび堰を川幅一杯に築いたのです。亀越池の水は、一度土器川に落としてから札の辻井堰まで導き、ここから綾歌側に取り込むシステムになっていることは以前にお話ししました。「亀越池の水の取り込み」を名目に、長尾側はふたたび川幅一杯に堰を築いたようです。しかし、吉野側の農民たちからすれば、堰を築く口実をつくるために亀越池のユルを抜いたと受取り、敵対感情に油を注ぐことになります。
この日の午前中に、亀越池のユルが抜かれ、この池水を確保しようと長尾側がふたたび堰を川幅一杯に築いたのです。亀越池の水は、一度土器川に落としてから札の辻井堰まで導き、ここから綾歌側に取り込むシステムになっていることは以前にお話ししました。「亀越池の水の取り込み」を名目に、長尾側はふたたび川幅一杯に堰を築いたようです。しかし、吉野側の農民たちからすれば、堰を築く口実をつくるために亀越池のユルを抜いたと受取り、敵対感情に油を注ぐことになります。
8月20日の「四国新聞」は、その模様を次のように伝えています。
「香川県仲多度郡満濃町吉野と綾歌郡長炭村長尾との土器川をはさんでの水争いは十九日正午に至り長炭村農民百五十名が吉野川の水取り入口をせき止めたので、吉野川|は直ちに五十余名をかり集め、同三時半ごろこれを切断、険悪な空気をかもし出している。事態を重視した琴平署では県本部、綾南所の応援を求め武装警官一個小隊三十余名を現地に派遣、警戒に当たっているが、さらに同五時ごろ長炭側農民約百名が吉野川の水をせき止めたためますます険悪となている。…土器川をはさんで対立している農民の数は刻々増えており、一触即発の危機をはらんで夜に入った」
両者は川を挟んで十日間も向かい合い、21日の降雨によって「水入り」となって解かれます。しかし、問題はそのまま持ち越されます。
亀越池は長尾地区だけでなく綾歌全体の水源でもありました。右岸の土地改良区連合の合意なしに岡田村は亀越池のユルを抜くことはできません。19日のユル抜きは、右岸全体の了承のもとに行われたはずです。
一方、左岸の吉野地区は、満濃池掛かりです。札の辻井堰をめぐる吉野村の用水問題は、満濃池土地改良区の問題でもありました。これは当然、吉野地区と長尾地区の水利紛争にとどまず、左岸・満濃池と右岸・綾歌全体にかかわることで、裁判にまで発展します。
綾歌側は高松地裁丸亀支部に農事調停を申し立てますが、調停は難航し進みません。
この間に県では、1956(昭和31)年6月に県営土器川綾歌用水改良事業の一環として「札の辻井堰」の上流側に新たに「大川(だいせん)頭首工」を建設する案で両者の合意を取り付けます。
大川(だいせん)頭首工
そして1958(昭和33)年3月4日に、水利紛争の農事調停がととのって協定が締結されます。どのような協定内容だったのかを見ておきましょう。正式の名称は「香川県土器川右岸用水改良事業中『札の辻(大川)頭首工』に関する協定書」です。
①第3項「札の辻(大川頭首工)によって取水した水は、左右両岸の直接掛り面積に按分し、右岸側 75%、左岸側 25%の割合により分水するものとする」
ここには分水割合は、「右岸(綾歌側):左岸(満濃池側)=3:1」と記されています。協定書の「覚書」に「大川頭首工改修前の分水の比は左右両岸対等であった」とあります。これまでの分水慣行からすれば、これは満濃側の大きな譲歩です。
大川(だいせん)頭首工を従流からのぞむ(ライブカメラ)
②第5項 「連合から要請があれば、満濃池土地改良区は救援水として満濃池の水5万立方メートルを右岸に送らなければならない。」
この協定に従って、満濃池の水路のうち土器川寄りの水路に連結させて土器川を経て右岸に出る分水路が新たに建設されます。満濃池からの救援水はこの分水路をとおして右岸に送られることになります。実際に、綾歌側に対して満濃池側が「救援」する体制が整えられたことになります。これも満濃池側の大きな譲歩です。
どうして満濃側は分水割合で譲歩し、さらに救援水を右岸に送ることに同意したのでしょうか?
その理由は、満濃池の水利権を土器川に新規に設定することを綾歌側に認めさせるための譲歩であったと研究者は指摘します。その見返りとして、天川頭首工の着工同意を得るというシナリオです。満濃池側は当初は「合意なき天川取水路の建設開始」など、綾歌側を刺激するような既成事実の積み重ねを行ってきました。しかし、最終段階になって綾川側の利害をくみ取った上で、大幅な譲歩をしたということになります。これに綾歌側も妥協したという結果となります。これを「巧妙な交渉術」と云うのかもしれません。
1959(昭和34)年8月30日に、大川頭首工が竣工します。
大川頭首工の分水装置には亀越池や新しく1960(昭和35)年に完成した備中地池の水が放流されたときは、これを綾歌側だけに分水するようにいように「右岸(綾歌側):左岸(満濃池側)=3:1」の分水比率をかえる特殊な仕組みが組み込まれているそうです。 土器川でもっとも近代的な取水施設として建設された大川頭首エには、その構造に古い用水慣行が刻印されていると研究者は指摘します。
また、大川頭首工をめぐる協定の当事者は、長尾村と吉野村ではありません。一方が満濃池土地改良区、もう一方が土器川右岸土地改良区連合になっています。この大川頭首工の建設をめぐって両者は、大きく歩み寄りテーブルについて協議を行うようになったのです。これが天川頭首工の協定書の成立に向けて大きなはずみとなります。
天川頭首工
天川頭首工について、土器川土地改良区連合と満濃池土地改良区の聞で協定が結ばれたのも、1958(昭和33)年3月です。
先ほど見た大川頭首工と天川頭首工は、ほぼ同時に協定書が結ばれいます。ここからは両協定が天秤にかけられながら同時進行で協議されていたことが分かります。この協定では満濃側は天川からは土器川の余剰水だけの取水を認められています。協定書第2条には次のように記されています。
「乙(満濃池土地改良区)は「天川頭首工地点」に於ける土器川流量が毎秒2,5立方m以上に達したときに取水する」
天川頭首工口 格子部分を越えた部分が満濃池へ導水される
この「毎秒2、5立方メートル」という基準は、何に基づいているのでしょうか?
この「毎秒2、5立方メートル」という基準は、何に基づいているのでしょうか?
それはこれだけの水量が確保できれば、綾川側の水田はすべて灌漑できる水量であり、これ以上の水は瀬戸内海に流れ出てしまう水だという認識に基づく数字のようです。満濃池側が獲得したのは、このような右岸側には必要のない「無用の水」ということになります。しかし、表現上はそうであっても、既得水利でがんじがらめに縛られていた土器川から、導水できたという成果は大きな意味があります。満濃池側が、土器川へあらたに参入するとなれば、こういう形でしか参入するほかに途はなかったのかもしれません。「落とし所」をよく分かっていた交渉術と云えるのかも知れません。右岸、左岸の直接交渉なら、おそらく満濃池の新規参入はなかったと研究者は考えています。そこには県営事業として満濃池用水改良事業を推進させなければならない立場の県当局が、何度も綾歌側と交渉を重ねた結果、成立した協定書とも云えます。県の仲介なしでは、綾歌側が妥協することもなかったはずです。
土器川の横一文字にた幅25mの天川頭首工が完成は、1959(昭和34)年3月のことでした。
天川頭首工の完成によって、満濃池用水改良事業はすべての工事を完了します。戦前の土器川沿岸用水改良事業開始からかぞえれば、18の歳月を要した大事業でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池 香川大学経済論叢 18
満濃池史189P 天川導水路計画
コメント