戦前の1939(昭和14)年に始まった満濃池第3次嵩上げ事業が完成したのは、1959(昭和34)年3月のことでした。天川頭首工の完成によって、満濃池用水改良事業はすべての工事を完了します。しかし、これを歓んでばかりはいられない状況に、満濃池土地改良区にはありました。それは忍び寄る財政破綻の危惧です。今回は戦後の満濃池土地改良区の財政問題について見ていくことにします。テキストは「満濃池史220P 財政不振とその再建」です。
1893(明治26)年 満濃池普通水利組合を設立
1951(昭和26)年 土地改良法公布・施行により、水利組合から衣替えして、満濃池土地改良区が発足。
 戦後になって土地改良区に組織は変わりますが、その運営には次のような問題があったと満濃池史は指摘します。

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①農地改革で生まれた自作農が無責任な言動を繰り返したこと。例えば水を貰う権利は主張するが、水利費の負担には応じようとしない。「水利費は従来どおり元の地主が払ったらよい」と言い放つ声がまかり通った。
②満濃池嵩上げ事業の負担についても「この工事は昔の地主が相談して始めたものだから新しい所有者や耕作者には責任はない。しかもまだ嵩上げ工事は終わらず貯水が増えた訳でもないのに、負担金を取るとは何事だ」
こうした意見が総会などで主流を占め、満濃池土地改良区の財政の悪化を招く要因のひとつになったと指摘します。
  それでは県は満濃池土地改良区の財政問題をどのように見ていたのでしょうか?
  1963(昭和38)年2月26日に、財政再建のために香川県知事が農林漁業金融公庫総裁宛に提出した「満濃池土地改良区財政再建についての県の意見」を見ていくことにします。
農林漁業金融公庫総裁 清井 正殿
香川県知事 金子 正則
「満濃池土地改良区の賦課金の増徴が困難である理由」の説明
1 満濃池が置かれている特殊な事情
  (1) 改良区内部の利害は必ずしも一致しない。
満濃池改良区は、形式的には単一の土地改良区であるが、内部構成を見た場合そう簡単ではない。たとえば他府県で見られるように、大河川に設けられた一つの頭首上によって取水された用水が、幹線→支線→分水路を通じて灌漑されるというような単純な用水系統ではない。即ち満濃池改良区の場合、その実態は多数の土地改良区の連合といっても差し支えない。そして現実には内部組合ごとに必ずしも利害が一致せず、勢い最小公約的な運営を行うほかない状況である。したがって、改良区運営の難易は、改良区の規模の大小にそのまま比例することとなり、この点からも満濃池改良区の運営の困難性が示されている。   
満濃池土地改良区の実態は「多数の土地改良区の連合」で「運営の困難性」が指摘され、「改良区内部の利害は必ずしも一致しない。」とされテーマがうたれています。それを以下のように細かく説明しています。
  (2) 多数の内部組合が存在し、その利害が一致しない。
満濃池土地改良区の地区内には、105団体(うち土地改良区30、その他の申合水利団体75)があること。これらの団体は、それぞれ時前の用水源をもち、複雑な水利慣行の下に活動していこと。そのため例えば、第3次嵩上げ事業に対しても、上流地域と下流地域では次のような対立点があった。
上流地域の主張
立地的にも、用水慣行上も現在の貯水量で十分であるから、増築の必要はない。
下流地域が、増築を要望するのであれば同意はするが、負担金は負担しない。
増築工事は、危険である。その危険負担は当然下流地域で考えるべきである。
下流地域の主張
上流地域は下流地域の犠牲において用水を賄っていたものであり、用水は不足している。
上流地域は過去数百年来下流地域の犠牲の上に、用水を使用してきたものであり、むしろ上流地域こそ負担すべきである。
・むしろ防災となる。
こうした利害の対立は、すべてについていえることで、全地区を通じて納得を得るような賦課基準を決めることはできなかった。そこで上流地域に対しては、今日まで受けた利益の代償として、下流地域に対しては、将来における配水量の確保、配水施設(特に用水路)の完備、用水管理の適正を条件として、なんとか均一賦課に踏みきった。この変更を提案すれば、収拾困難となる。
(4)嵩上げ工事計画における計画受益面積と、実際負担面積に食い違いについて。
満濃池嵩上げ工事は、戦前の1940(昭和15)年に着手して、約20年の歳月を経て、1959(昭和34)年に完成します。当初計画では、その受益面積4600㌶(従来3300㌶)で、新規加入面積(1300㌶ール)と想定していました。ところが思っていた以上に、新規加入地区が増えません。その背景には
①大戦による中断などがあり工事が長期化したこと
②用水路の不備を理由に加入をためらつていた区域も、戦後の嵩上げ工事完了後は用水が潤沢になり(上流側の余水の流入、地下水の増加など)、加入の必要がなくなった
③農地改革の結果、新たに水利費の負担を担うことになった自作農に、水利費支払いの概念がなかった。
④満濃池土地改良区の賦課金が、農民達にとっては割高で、その上今後どのように増額されるかわからない。
 この結果、新規加入したのは300㌶だけと結果に終わります。新規加入地区の負担金収入の伸び悩みは、財政収入の悪化をもたらします。
当時の土地改良区は、組合員から徴収する賦課金で運営されていました。しかし、賦課金の滞納が多く、徴収率は50%を割ります。そのため借金をするより手がなく、各農協からの借入れで何とか凌ぐというありさまです。さらに借金の利息の支払いのために再び借金をするという悪循環が続き、負債は雪だるま式に増えていきます。

 土地改良区も徴収率の向上に向けて1960(昭和30)年度からは、強制徴収に踏み切り、徴収率を80%まで上げます。
徴収率向上の成功の鍵は、満濃池第三次嵩上げの竣工にあったようです。嵩上げ工事の前と後では、農家の意識が変わったと云います。それまでは「水は来ないのに負担金だけは取られる」という怒りと反発がありましたが、嵩上げ工事と金倉川沿岸用水改良事業で、実際に水が自分たちの田に入り始めたことが、賦課金に対する認識を変化させ、徴収率は向上します。
 しかし、これも遅過ぎたようです。
1961(昭和36)年度末の農林漁業金融公庫からの借入金は、2,17億円に達していました。この借入金の内訳は
①県営事業の毎年度の地元負担金(25%)
②その内の約80%が長期低利(五年据置、20年元利均等年払、利率6,5%)の国の制度金融による借入金
③不良債務である一時借入金が1,16億円。これも一時借人金とは名ばかりで、実質上は借り替えを続け、長期借入金化したもの。
④以上の借入金合計額は、2,33億円で、利息だけでも年間2700万円余
 こうして満濃池土地改良区は、金融機関からも見放され財政破綻の危機に瀕します。
 日常業務はもとより、金倉川沿岸用水改良事業もこれ以上は継続できない情況に追い込まれてしまいます。そのため1960(昭和35)頃の満濃池土地改良区の職員8名の給与も未払いが続き、事務所に電話もなく、事務連絡などにも自転車で走り回っていたと職員は回顧しています。
満濃池土地改良区報1963年 宮武理事長
満濃池土地改良区報 宮武理事長挨拶 1963年

 財政再建策のために1961(昭和36)年に、宮武理事長が上京して、事情を当時の大平外務大臣に窮状を訴えます。
大平氏は伊藤農林次官に内容調査を依頼し、農務省の検査官が調査に訪れ、専門委員会が設置されます。そして次のような再建策が出されます。
① 再建の最大の障害である一時借入金を利率の低い一括長期債(農林漁業金融公庫資金)に借り替えする。
② 既借入れの長期債の約定償還について、六年間の中間据置し、その間に借り替えた資金を償還する。
③ 満濃池土地改良区の賦課金を増徴すると共に、徴収体制を強化してその完全徴収を図る。
④ 県の指導体制を強化し、非補助土地改良事業等の実施は極力圧縮指導する。必要不可欠の事業については単独県費補助事業として優先採択し、土地改良区財政を援助する。
この案が農林公庫や農林中央金庫等の地元金融機関の特別措置によって受け入れられることによって、財政再建は動き始めます。また当時は高度経済成長期のまっただ中で、兼業農家の農外収入が増えて、組合員の経済状態が向上していたという背景もあります。そのため賦課金も完全徴収ができるようになり、財務計画案通りの運営ができるようになります。
満濃池土地改良区報
満濃池土地改良区報 1964年 
以後、満濃池土地改良区は大平代議士の集票マシンとして機能していくようになる。

 こうして1967(昭和42)年度には短期債借り替え分の償還を完済し、その後には長期債も償還を終わらせ、財政健全化を達成します。そして1975(昭和50)年2月23日には、全国土地改良事業団体連合会会長より優秀土地改良区として金賞を授与されるまでになります。満濃池土地改良区は危機を乗り切ったのです。

満濃池土地改良区新事務所
2017年完成の満濃池土地改良区の新事務所

 土地改良区の財政悪化問題は、満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。
ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「満濃池史220P 財政不振とその再建」