佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
 昭和14(1939)年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

   ここからは財田の渓道(たにみち)神社から佐文に、龍王神が勧進されていたことが分かります。この祠は、別称で三所神社ともよばれ、今は加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。それでは龍王神は財田の渓道龍王社に、どのような経由で伝えられたのでしょうか。そのルートを今回は、探って見たいと思います。

渓道龍王祠の由来については、「古今讃岐名勝図会」(1932年)には、次のように記されています。(意訳)

古今讃岐名勝図絵

この①龍王祠はもともとは財田上の村の福池という所にあった。その龍王祠のあたりに瀧王渕というのがあったが、そこを村人が田にしてしまったので、時に崇りがあった。その頃、同じ財田上の村の北地という所に観音堂があり、そこに②善入という道心型固(悟りを求め、道心が強くてしっかりしている)住僧がいた。ある時、善入の夢に龍王があらわれて、この福池の土地は不浄であるから、ずっと上流の紫竹の繁っているあたりに祠を移して貰いたいといったのて、善人は謹んでその言葉の通りにした。ところが籠王はさらに`善入の夢にあらわれて、この所はなお川上に人家があり清水が汚れている。だからさらに上流九十九の谷を経て、この川の源の紫竹と芭蕉の生えている所に移してほしいといって、その翌朝、③龍女自らその尊い姿(善女龍王)を現わしたので善人は、また潔斉して七日目に仏の御手を拝み、いよいよ霊験に感じて、さらに上流谷道の方へ九十九谷を究め、紫竹と芭蕉の生えているあたり、深渕あり、雌雄の滝の二丈の高さにかかっている幽逮の所に行きつき、ここに石壇を築き、龍王の祠を移した。これからこの地方には早害なく、雨を乞えば必ず霊験があるということになり、旱魃には龍王を祈るという事になったという。石野の者が、雨乞の時には、ここに仮家を立てて④祭斎(さいさい)踊を行うのはこのためだ。又⑤雨乞のために大般若百万遍修行をするときには、この龍王祠の傍に作った観音堂において行う。

  要約しておくと
①もともとの龍王祠は財田上の村・福池の瀧王渕にあった。
②財田上の村・北地の観音堂の住僧善入の夢枕に、善女龍王神が現れて川上の清浄な地への移転を求めた
③そこで善入は現在地の雌雄の滝(現鮎返しの滝)に龍王の祠(渓道神社)を移した。
④旱魃の際に雨乞祈願を行い、石野の人達は、その後に仮屋を建てて、さいさい踊りを踊った。
⑤龍王祠には観音堂も建てられ、そこでは雨乞のための大般若百万遍修行も行われた。
ここで、押さえておきたいのは龍王神というのは善女龍王のことだということと、渓道神社で踊られたのがさいさい踊りということです。

さいさい踊の由来について、「財田町誌」(稿本)には次のように記されています。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

この「財田町史」の伝えは、今は所在不明になっている稿本「財田村史」に載せられていたようです。
 
 さいさい踊の起りについては、もう一つ伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

  3つの伝説に共通するのは、もともとは財田の川下にあった龍王祠が、戸川の鮎返しの滝付近に移され、渓道(谷道)の龍王と呼ばれるようになったことです。その移動を行った人物は、次のように異なります。
A 古今讃岐名勝図会は、「善入という道心型固の住僧」
B 財田町誌(稿本)は、「仁尾からやってきた山伏
C 詫間から来て猪ノ鼻峠を越えて阿波へ行ったやってきた塩売り
これをどう考えればいいのでしょうか。

中世三野湾 下高瀬復元地図
本門寺(三野町)の西方に見える東浜・西浜

①古代の三野湾は湾入しており、そこでは製塩が行われていたこと
②中世の秋山か文書には、「西浜・東浜」などの塩田の遺産相続記事が出てくるので、製塩が引き続いて行われていたこと
③詫間の塩は、財田川沿いに猪ノ鼻峠などから阿波の三好郡に運ばれたこと
④その際の運輸を担当したのが、本山寺周辺の馬借であったこと
⑤本山寺の本尊は馬頭観音で、牛馬の守護神として馬借たちの信仰をあつめたこと。
以上のように「三野湾 → 本山寺 → 財田戸川 → 猪ノ鼻峠 → 箸蔵寺 → 三好郡」という「塩の道」が形成され、人とモノの行き来が活発になったこと。これらの道の管理・運営にあたったのが本山寺や箸蔵寺の修験者たちであったと私は考えています。まんのう町の塩入が、樫の休場を越えての阿波への「塩の道」であったように、財田戸川も三豊の「塩の道」の集積地であったのです。
 本山寺 本堂
               本山寺本堂
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場本山寺(豊中町)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
 本山寺の本尊は馬頭観音です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python

馬頭観音は、牛馬を扱う運輸関係者(馬借)や農民たちの信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたことは以前にお話ししました。また、滝宮念仏踊りの拠点となった滝宮神社も、神仏分離以前には「滝宮牛頭明神」と呼ばれて、別当寺である龍燈寺の社僧の管理下に置かれていたのと似ています。

本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像(南北朝)が伝わっています。
善女龍王 本山寺
 本山寺の善如(女)龍王像 男神像
一目見て分かるのは女神ではなく男神です。善女龍王の姿は歴史的に次のように変遷します。
①小蛇                          (古代 空海の時代)
②唐服官人の男神          (高野山系) 善龍王
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系) 善龍王
  ③の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ところが本山寺には木像善如龍王像があるのです。これは全国でも非常に珍しいもののようです。
  この像については従来は14世紀に遡るものとされ、善女龍王信仰がこの時期に三豊に根付いていたとする根拠とされてきました。しかし、もともと鎮守堂にあったのかどうかが疑われるようになっているようです。つまり「伝来者」という説も出されているのです。

弥谷寺 大見村と上の村組
神田と財田上の村は多度津藩の飛び地だった
財田上の村への善女龍王信仰の伝播ルートとして、考えられるのが弥谷寺です。
丸亀藩は干ばつの時には、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。財田上の村は多度津藩に属していました。多度津藩が「雨乞執行(祈祷)」を命じられていたのは弥谷寺でした。「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から財田上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。つまり、江戸時代後半になって、多度津藩の雨乞祈祷を通じて善女龍王信仰が庶民の中にも拡がっていたのです。それが渓道龍王社の勧進という動きになったことが考えられます。
 ここで押さえておきたいのは、善女龍王への雨乞祈願というスタイルが讃岐にもたらされて、庶民に拡がって行くのは、江戸時代後半以後のことであるとです。案外新しい信仰なのです。

以上、西讃地方における善女龍王信仰の広がりをまとめておくと、次の通りです。
①延宝六年(1678)の夏、畿内より招かれた浄厳が善通寺で経典講義を行った
②その夏は旱魃だったために浄厳は、善如(女)龍王に雨乞祈祷し、雨を降らせた
③その後、善如(女)龍王が勧請され、善通寺東院に祠が建設された
③以後、善通寺は丸亀藩の雨乞祈祷寺院に指定。高松藩は白峰寺、多度津藩は弥谷寺
④各藩のお墨付きを得て、善通寺と関係の深かった三豊の本山寺(豊中)・威徳院(高瀬)、伊舎那院(財田)などでも善女龍王信仰による雨乞祈祷が実施されるようになる
⑤また多度津藩の雨乞祈祷には、各村の庄屋たちが参加し、善女龍王信仰が拡がる。
こうして17世紀後半以後に善女龍王信仰は、次のようなルートで財田川を遡って、渓(谷)道龍王が幕末に、麻や佐文に勧進されたことになります。

善通寺 → 本山寺 → 伊舎那院 OR 弥谷寺 → 渓(谷)道龍王社 → 麻(高瀬)・佐文(まんのう町)谷

17世紀以後に善通寺にもたらされたものが、本山寺や弥谷寺の修験者をつうじて三豊に拡がっていったのです。そして彼らは雨乞踊りも同時にプロデュースするのです。それが渓道神社では、さいさい踊りでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。