瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

山本町大野
大野村(三豊市山本町大野)
       
西讃府誌には、佐文綾子踊の後に、豊後小原木踊が次のように紹介されています。
大野村の豊後踊り
大野村の雨乞い踊り「豊後・小原木踊」
「大野村ノ人雨ラ祈ルニ踊リナス。村人上組下組とニツニワカレ、上ナルヲ豊後、下ナルフ小原木卜琥ク」
「先八幡宮、次に樋盥(ひだらい)、次に澱醸(よどしこ)、次に役場と凡そ六処一日になすと云」
ここからは次のようなことが分かります。
①「村人が上組と下組の二つに分かれ」、それぞれが「豊後、小原木」と呼ばれる2組の踊組があったこと
②大野村の八幡宮、樋盥(ひだらい)、澱醸(よどしこ)、役場などの6ヶ所で踊られたこと
 この踊りについては「西讃府志」が完成した1859(安政6年)頃までは、踊られていたことが分かります。しかし、その後いつころまで続いたかなどは分かりません。西讃府誌に残るだけの謎の雨乞踊のようです。
   西讃府誌に載せられている「豊後踏舞(踊り)」の歌を見ていくことにします。

大野村の豊後踏舞
豊後踏舞(西讃府誌)
大野村の豊後踏舞2
              豊後踏舞
大野村の豊後踏舞 佐渡島2

歌詞の内容から、綾子踊、さいさい踊、和田の雨乞踊と同じ系統に属するもので、江戸時代初期までさかのぼると、研究者は考えているようです。
次のように「何々をどりは一をどり」という形式の文句が各歌詞に出てきます。
「豊後のをどりは一をどり」
「札所をどりは一をどり」
「佐渡島をどりは一をどり」
「泉水をどりは一をどり」
「忍びのをどりは一をどり」
「天笠をどりは一をどり」
「小笹をどりは一をどり」
「鐘巻をどりは一をどり」
「本蔵をどりは一をどり」
この形式句は、近世初期の歌謡に良く出てくるスタイルです。
また「うらうら(浦々)」には、
あれに見えしはどこ浦ぞ、音に間えし堺が浦よ、
堺が浦へおし寄せて、ひいめがはかをつもろふよ、
いくさのはかをつもろふよこれ
と同じ形式で讃岐の浦、八嶋の浦が歌われいます。瀬戸内海の繁栄する港町の様子がいくつも歌い込まれています。
 構成・扮装・芸態について、「西讃府志」は次のように記します。

  大野村の豊後踊り 西讃府誌
     「豊後・小原木踊」の芸態について(西讃府誌)
  上文を意訳変換しておくと
(芸態は)3の輪を作り、第一輪の中心に傘宮という大きな傘の上に宮を置いて、そこに造花などを飾って。これを数人が持って立つ。第一輪には「花受」と呼ばれる、7・8歳の童子、40人ほどが花笠を被って、扇を持って、化粧し廻りに立つ。その外側の第二輪には、小踊と呼ばれる12歳から15歳ほどの童子が、麻衣の振袖を着て、女帯を結んで、菅笠に小さな赤い絹地を着けたものを被って、扇子を持って40人ほどが輪になって立つ。その外側の第三輪には、警護として20歳ほどの男数十人が、羽織を着て刀を指して大きな団扇を持って周りに立つ。第二輪と第三輪の間には、太鼓打4人、鉦打2人、出音頭4人、付音頭4人が立つ。太鼓と鉦打は、共に陣笠を被り、半臀(はんひ)の裾に鈴が付いたものを着て、草鞋(わらじ)を履いて脚絆を結ぶ。太鼓は胸に結付けて、両手にバチを持って、歌の曲節に合わせて、輪の周りを走り廻リながら打ち鳴す。音頭(芸司)は、金銀の紙で縁どった大きなハ団扇を持って、その傍らに並立つ。先ず音頭(芸司)が謡い出し、
大野村の豊後踊り3
    「豊後・小原木踊」の芸態について・その2(西讃府誌)
上文を意訳変換しておくと
付音頭も第二句から声を合せて共に歌う。 
 踊り初めの時、「先番板」という踏舞(踊り)の次第を書付けた板を会場に立てる。次に追払(ついはらい)という長刀を持った男二人が進みでて、その場を清め開く。次に、修験者三人が法螺貝を吹き、花受・小踊・警護の手引が一人づつ入場する。中には花受ではあるが兜を被り、上下を着、団扇を持ったものがいる。その時に手引の者は、先に入場して、それぞれの位置を定める。踊り終ると、修験者の法螺貝を合図に退場する。最初に八幡宮、次に樋盥、次に換醜、次に役場、など六ケ所を一日で廻ると云う。
これを見ておどろかされるのは、その編成規模です。
①三重の輪踊りで、「花受40人+子踊40人+警固60人=140人」+芸司・太鼓・鉦・芸司・法螺貝吹きなどを合わせると、150人を越える大編成部隊になります。滝宮に踊り込んでいたい念仏踊りの各組の編成規模と同規模です。風流小歌踊系の雨乞踊としては、最も規模の大きなものであったようです。
②「西讃府志」の説明分量も、佐文綾子踊りと同じくらいの記述分量があります。西讃の風流小歌系雨乞踊として、綾子踊と同じ規模と認識されたいことがうかがえます。

讃岐雨乞い踊り分布図

もういちど讃岐の風流雨乞い踊りの分布図を見ておきましょう。
上図を見ると、讃岐の風流雨乞い踊りが三豊南部に集中していること。その東端が佐文綾子踊であることが分かります。ここからは綾子踊の成立には、三豊の風流踊りがおおきな影響を与えていることがうかがえます。
 以前にお話したように、佐文は「七箇念仏踊り」の主要な一員として、芸司や子踊りも出していました。それが19世紀になると次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞い踊りを取り入れながら、新たな踊りを「創作」したのではないかというのが、今の私の仮説です。

大野の小原木踏舞.J 鐘巻PG

大野の小原木踏舞.2J 鐘巻PG

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 豊後・小原木踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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