石清尾八幡
             
高松の石清水八幡宮では、江戸時代から10月に大きな祭礼行列(パレード)が行われてきました。どんな行列だったのでしょうか。行列を描いた絵図を見ながら探ってみることにしましょう。
 水戸黄門(光圀)の兄で水戸徳川家から高松藩主になった松平頼重は、石清尾山上にあった石清尾八幡宮を、寛文六年(1666)に、現在地に遷し、高松城下町の氏神(総鎮守)と定めました。 以後、秋の大祭には多くの人たちが参拝し賑わうことになります。ところで江戸時代の石清尾祭は、旧暦八月十四・十五日の八幡宮放生会、生きものを放つ殺生禁断の祭りでした。しかし、この様子は史料がなくてよく分かりません。
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史料が増えてきて様子が分かり出すのは、江戸後期に藩の援助のもとで、城下町の各町が何らかの形で参加する惣町祭礼になってからのことです。そして民衆へ祭礼参加によって祭事の風流化がすすんだとされます。それでは、そこで繰り広げられたパレードの様子を見ていくことにしましょう。
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 この「石清尾八幡宮祭礼図巻」図巻は、松平家の殿様のお兄さんが書いたものです。
名前を松平頼該(いかく)といい、号は金岳・左近と称した人物で文人として高い評価を受けています。殿様の兄ですから注文制作ではありません。幕末の石清水八幡の祭礼を正確に書き留めようとする記録画的なものです。実際に現場で見て描いたらしくて、綱に引きずられて転んでいる犬や、風に幕がめくれる様子も描き込まれています。非常に写実的なのです。ちなみにこの絵巻は、高松藩から模写を許されたものが石清水八幡に伝わっている物です。原典は県立ミュージアムにあります。
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 石清尾祭の行列空間は、神社と御旅所間の直線距離550㍍という短い区間でした。その間を、町方出し物や神輿が移動していきます。図巻は、祭礼行列順に描かれています。上巻には飾船と囃子屋台、下巻は両当屋による大名行列練物とおさきら、神社祭器などの行列と神輿渡御です。

まず先頭に登場してくるのは飾舟です。
飾船は参勤交代の際の御座船を真似たものとされています。子ども達に曳かれて飾り舟が登場します。子ども達は櫂を片手に持ち、踊っているようにも見えます。それぞれの船の下には白い波濤が描かれた青幕が張られています。最初、私は「船には車が付けられてそれを、子ども達が曳いている」と思って見ていました。ところがまくれ上がった垂れ幕の中から足が見えるのです。船は担がれているのです。
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  船の中がどうなているのか「透視」してみましょう。
  船内の真ん中に丸い大きな鋲打太鼓が吊るされています。二人で両面をバチで叩くのでしょう。船の構造は、二本の丸柱が貫通しています。船体の長さは約三間(5、5㍍弱)、高さ一間半(2.7㍍強)で、幔幕や垂れ幕はいずれも金糸・銀糸で刺繍され、船具は箔を置いて飾られました。そして、太鼓の前方を三人、後方を四人ずつが、左右二列になって片手に竹杖を持って、肩で担いでいるのが分かります。船の前方には柄杓を持つ人が乗っているので、全部で十五人が船内と船上に見えます。
 幕末の飾船に関して、別の資料では
「乗組十人、船昇き十人、擢指し十人、小繋四人、鐘附役十人、
 惣警固四人の計四十八人」
と構成メンバーを記しています。乗組十人と船担き十人が船上に乗ったり、船内に入ったようです。つまり「底抜け」なのです

  ちなみに、石清水八幡祭礼に用いられていたという飾舟が今でも現役で活躍しています。
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高松市香西本町の宇佐八幡宮に奉納される2隻の船の一つで小船と呼ばれる飾舟です。
この船には、明治9年(1876)の墨書銘があります。
「石清尾八幡宮の祭礼に奉納されていたお船を譲り受けた」
と伝えられているそうです。船は木造で、船首には鯛を抱えた恵比寿神の人形が座り、水押なども螺銀で飾られています。
  どちらにしても「底抜け船」ならば引っ張る必用はないのです。どうして子ども達が綱で引っ張っているのでしょうか?  祭りの雰囲気を高めていくパフォーマンスとしておきましょう。
もういちど図巻に返りましょう。
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-01

先頭の船では擢振りの子ども十一人と大人が曳き、子どもの赤い化粧廻しが鮮やかです。確かに祭りに彩りを添えています。船正面の唐破風で面取られています。その後の船内には、弓や毛槍などが船内に立てられています。進行方向を変えるためでしょうか、艦附役が側面を押している姿も見られます。
二番目の船は十二人の擢振り子どもが曳いています。
先頭の大人は擢を抱えた擢指しでしょうか。速度が速すぎるのでしょうか、艦につないだ綱を艦附役が後方に曳いて速度を調節しているようにも見えます。
三番目の先頭は毛槍を担いで走っています。
十五人の擢振り子どもが綱を曳いていますが、小児は大人の肩に乗ています。下の青幕には、二尾の大鯛が飛び跳ねるように描かれていて勢いが感じられます。この船では、幕が開かれて船曳の一人が外に出てきました。その際に、船内の担いでいる姿が見えています。この船の後方の艫(とも)につないだ2本の綱を黄色い法被の艫付き役が曳いています。ついつい早くなるのを押さえる役割が必用なのでしょう。
4番目の先頭は瓢箪をつけた吹き流しを担いで走ります。
しかし飾船の曳き手はいません。やはり、進行速度が早過ぎるのでしょう、倒れながら後方に曳いています。その後ろで、七人の擢振り子ども(二人は大人に肩車される)が走って追いかけています。
5番目の船は、今までの飾船より小ぶりで「川船」のようです。
曳き綱もありません。ここまでが、各町から出される飾舟です

 十五日渡御の際には、飾船は先陣を切り、神社石段下から馬場先の御旅所まで、約五丁(五五〇㍍弱)の大通りを、のど自慢が太鼓に合わせて
「高砂や尾上の松も年ふりて相に相生ふ相生の松」
などの船唄を歌いながら進みます。そして、船内に入った担ぎ手が
「怒濤を乗り切る船の如く、揺すりに揺すり、揉みに揉んだ」
と記されます。
 飾舟の次に描かれているのが囃子屋台です
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-02

まず、最初に現れる屋台は、青竜刀が飾られた本鍛冶屋町のものです。しかし、担手は担いでいません。休憩中のようです。こんな所まで描くのが当時の絵巻としては珍しい所のようです。
 次の囃子屋台を見ると屋台の両側面には二本の昇き横棒が通されて四人が担ぎ、担ぎ手は杖をついているのが分かります。内部は徒囃子であり、屋台下には草履や下駄が見えます。江戸祭礼などの底抜屋台と同じようです。
 3番目は大きなエビ、4番目は虎と下幕は虎に合わせた竹藪に筒、6番目の屋根は玩具がいっぱい書かれて、側面は障子仕立てです。7番目は猫足の唐風台上に朱房が垂れた龍ででしょうか。十一番目の巨大な筆が乗っています。
いったいこの屋台は何に使われたのでしょうか?
屋台は「練物」とも呼ばれ、屋根の下に幕を垂れ、屋台の上には人形か、造り物を飾りました。屋台の床下に囃子方が入って肩で横棒を担ぎつつ、歩きながら囃します。上に乗せた飾り物により、人形屋台・造り物屋台と呼ぶこともあったようです。
 行列は夕刻前には神社に帰るので 御旅所滞在は4時間程度です。私は、この間に御旅所周辺で「開演」されたのではないかと思っていました。ところが、そうではないようです。
 別の資料では、大祭当日の丸亀町・百聞町の六力町の様子が次のように記されたいます。
是の町ぐ羅綾の衣装我劣しと戯場なす、多く恋の為に身を省ス、武士或ハ熱情の達引坏、種七の仕組、これ高松の一流と謂へし

とあり、街角が劇場となったと言います。踊屋台では武家物や色恋物が演じられたのです。演じる演目に従って「エビ」「トラ」「筆」が屋台の上の看板には大きく描かれていたようです。図会では百間町以外にも他に五ヶ所で演じられるとあります。つまり、踊屋台は神輿渡御の後ろにただついたわけではなく、町の中心部や出した町の各所に移動し、演じられた「移動舞台」だったのです。

「底抜け移動屋台」が、いまでも活躍している所があるようです。
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 1年交代に行われる女木島と男木島の大祭は行われます。そこに登場する囃子屋台です。床が張られてなくて高松の石清尾八幡と同じようなスタイルです。中に入る鉦や締太鼓の囃子方の子どもたちは、屋台の移動にあわせて歩きながら演奏します。屋台内の後方には色とりどりの布を垂らして飾っています。
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 下巻は大名行列から始まります。
「石清尾八幡宮祭礼図巻」zumaki-03

先頭に登場するのは、前垂れが「の」字が染め抜かれるので、当屋となった野方村の人たちのようです。先頭より御幣持二人、台傘、挟箱四人、立傘四人、白熊四人、鳥毛四人(交互に投げ渡しの曲芸)、大鳥毛五人、長刀持一人、鉄鮑六人、弓四人、神馬が行きます。そして最後が輿に乗り朱傘が差しかけられた少年おさきら(弓箭を負う)です。そこには「の」字の大団扇が差し掛けられます。
 
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次に続く大名行列は、
御幣持二人、弓矢四人、挟箱四人、台傘・立傘四人、白熊四人(交互に投げ渡しの曲芸)、鳥毛四人、大鳥毛四人(回転させる曲芸)、長刀持一人、鉄砲四人、弓四人、刀筒四人、騎馬武者一人が行きます。そして、神が着いている「おさきら」が輿で進みます。これにも大団扇が差し掛けられます。
   
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2つの大名行列に模した「おさきら」さんが行くと、後は神社側の祭器行列と神輿渡御です。
  
 榊 猿田彦面(三方に載せた天狗面)、鉾二振、四神鉾、神馬、馬乗、大拍子、楽太鼓 雅楽系太鼓横笛(神楽笛・竜笛・能笛のいずれか) 笙 横笛 神楽鈴の巫女 横笛 銅拍子 担い太鼓 御幣と神主の三組 太刀持 神主4人 二本差しの警固、鳳輦、石清尾八幡宮石鳥居、
そして絵師「金岳」落款と同朱印が記されます。

前回には中世の神仏混淆時代の寺社の祭礼の行道に、獅子頭が参加していたことをお話ししました。それが、近世後半になると庶民への祭礼へ参加の度合いが強まり、パレードへの参加が獅子以外にも増えていったことがこの図巻からは分かります。
パレードは「飾船→屋台→大名行列→神社祭器・神輿」の四部構成と言えます。
ここには、中世にはなかった要素が3つ入り込んでいます。
この構成を見ても、静かだった祭りは時代が下るとともに派手でにぎやかになっていったことが分かります。庶民は、祭りを楽しもうとさまざまな工夫をし、趣向をこらし、新しい風をとり入れて、前よりはより楽しいものにしようとしたのでしょう。
 ある村では獅子舞をとり入れ、ある村では奴を、太鼓台を、そして城下町という都市でも飾舟や屋台・大名行列などを取り入れてバラエティに富んだものとなっていきます。そして、祭りはいよいよ楽しいものになってきたのです。
 さまざまな試みが積み重なって、今の祭りの姿になってきたことがわかります。


参考文献 香川県立ミュージアム 香川・瀬戸内の風流 祭礼百態