戦国初期の伊予
前回は伊予の河野氏が守護職という地位にありながら、戦国大名としての領国統治策が弱かった要因として、次のような点を挙げました。
①河野氏は、室町幕府の中では家格が低く、相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されたこと。②そのため伊予を不在にすることが多く、領国支配体制の強化がお留守になったこと③別の見方をすると瀬戸内海交易で得た資本が、領国統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用された
これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったとしました。
さて、河野氏の室町幕府の将軍とのつきあい方には、ある特徴があると研究者は指摘します。今回は、河野氏の足利将軍との関係について見ていくことにします。テキストは、「永原啓二 伊予河野氏の大名領国・小型大名の歩んだ道 中世動乱期に生きる91p」です。
河野氏は、守護であるという地位にかなりこだわりを持ち続け、これを自分の立脚基盤にしようとしたようです。
河野氏は戦国時代の終わりのころになっても、将軍に贈答を送り続けます。
ハイタカ
具体的には「ハイタカ(鷹)」という猛禽類を贈る風習を止めませんでした。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられましたが、将軍が使っていたのはハイタカでした。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。贈答用のハイタカは領内の森林で捕らえられ、鷹匠が飼育し、狩りの訓練もしたもので、手間暇と費用のかかる最高ランクに近い贈答品だったようです。地方の大名たちが鷹を捕らえて将軍に送るというのは、ひとつの儀礼で、忠誠心のあかしを示すもので、頻繁に行われていました。
河野氏はハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っています。その結果、将軍とのやりとりが将軍のじきじきの手紙として、河野家関係の文書の中に残っているようです。
河野氏の居城 湯築城(松山市)
応仁の乱以降、戦国の動乱に入ると、多くの大名たちがこれを機会に幕府体制から離脱するという動きをとりだします。守護クラスの者でも幕府体制からの離脱する動きが増えます。
そんな中で河野氏が戦国時代になっても、将軍とのつながりを大事にしていたのはどうしてでしょうか。
それは幕府との結び付きを持つことによって、自分の立場を有利に計ろうと考えていたようです。河野氏は伊予の守護とは云っても難しい立場にありました。例えば伊予を取り巻く情勢を見てみると、次のような勢力に囲まれていました。
①東 讃岐・阿波の細川氏という室町幕府で最も大きな勢力をもった勢力の東予侵入②北 毛利、小早川氏の力の南下③西 山名・大友の圧力④南 土佐の長宗我部元親の北上
河野氏は大国の間に挟まれた小国の悲哀を味わい続けます。
それに加えて最初に見たように、幕府の動員に従って対外遠征を繰り返したために、領国支配体制は強化できず、国内はバラバラでした。河野氏は伊予国の守護ですが、実際には国全体に力が及ばないという弱みがあります。そのためにとられのが「幕府と強く結び付く」という外交方針だったのかもしれません。自分を幕府に結び付け、その権威に寄り掛かつて自分の弱い立場を補強しようとする手法を選んだと研究者は考えています。
当時、大名領国を形成しようとする指導者の中には、次の2つのタイプがいました。
①守護職を早くから得た家柄の出身者で、戦国大名として大きくなっても、守護であるということにこだわりを持ち、幕府との結び付きという点に自分の価値を見いだそうとする人。②早々と幕府体制から離脱して、自分の実力で領国体制を作り出そうとする人
今川義元(公家風衣装)
戦国大名の中で①の例にふさわしいのは、駿河の今川氏でしょう。
今川義元は信長に倒されましたが、南北時代らの駿河の守護でした。室町時代に入ってからは、遠江の国の守護職も手に人れます。今川氏は守護として京勤務が義務づけられていましたから、ずっと都にいて、幕政の中でも重きをなしていました。その一族には今川了俊のような文化人も輩出します。これは都との関係が深いから生まれることです。歴代の今川氏は、京都の公家とも婚姻関係を持ち、文化的なつながりを保ちました。お歯黒をつけて公家風の衣装を纏い、都とのつながりを大事にしました。そして義元は大軍を率いて上洛しようとします。しかし、桶狭間で負けると、その後はほとんど立ち直れませんでした。義元のあと氏真のときには、為す術もない状態で武田氏に占領されてしまいます。これは今川氏の領国支配の根が浅かったからだと研究者は指摘します。
土佐の長宗我部元親を見ておきましょう。
彼も領国支配には相当に力を人れていたようです。例えば、秀吉に征服された1585(天正13)年以降になって、秀吉の意向に沿った形で検地をやります。これは長宗我部自身の独自の検地ですから、秀古の役人が直接入ってきてやったものではありません。その時に作られたのが『長宗我部地検帳』で、土佐一国にわたって綿密に行われています。国内の職人たちが一人ひとり調べ上げて記されています。
例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
長宗我部地検帳
例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
酒を入れたり、水を入れるのは、それまでは壷や甕でした。ところが大鋸が登場すると、タテ板製材が容易になります。それ以前は材木をくさびで割って、ちょうなで削っていたわけです。それが大鋸挽きだと、縦の細い材もつくりやすくなります。
そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
『長宗我部地検帳』からは、そういう方向を長宗我部氏が目指していたことが見えて来ます。だからこそ、長宗我部氏は比較的短期で、あれだけの力を持つことが出来たと研究者は考えています。
それと比べると、河野氏の場合いわゆる大名領国政策らしいものが見えてこないようです。
もちろん河野氏が全然やってなかたということではありません。例えば、応仁の乱が終わったころ、の15世紀後半になると、石手寺を再興したときの作業の分担関係の中に、「河野公の大工」という人物が出てきます。ここからは、河野氏に直属する番匠、大工がいて、職人編成をやっていたとが分かります。16世紀半ばの戦国時代の真っ最中には「段別銭本行役」という役職が出てきます。ここからは河野氏も領内から段銭を取るために「段別銭本行」を置いていたことが分かります。段銭は、守護が領国大名化するとき公的立場をしめすシンボリックな税目でもあります。
このように河野家の出した文書からは、領国支配のための「本行人の制度」や、「段銭を徴収する体制」、「領国経済を掌握するための御用職人の編成」などがあったことが分かります。何もしていないとは云えないようです。
戦国時代には商人をどう組織するかが、ひとつのキーポイントだったようです。
兵糧や武器を調達することは、一国内だけではなかなか難しくなります。戦争のときには各出先でそれらが調達出来るようにしなければなりません。そのためには、国内を越えた活動範囲を持つ有力な商人を、国内に招致したり、御用商人に編成したりしておく必要がありました。そういう商人は、有力大名には必ずいました。先ほどは領国支配体制が不十分だったとした今川氏も、友野・松本と言う御用商人の活動が知られています。北条氏には賀藤・宇野、上杉では蔵田、越前の浅井氏には橘岸がいました。さらに織田信長には伊藤という商人頭がいて、商人を統括して、戦争のときには各地で兵糧を調達出来るような体制が作られていました。そういう点について、河野氏に関してはいまのところ見られないようです。
河野氏はどうも守護であるということにこだわることによって、幕府との関係強化=中央権力依存型となり、実力を直接自らの手で作り上げていくという点においては、立ちおくれたと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①河野氏は、戦国時代末になっても、足利将軍との贈答関係を緊密に続けた。
②具体的にはハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っている。
③その背景には、河野氏を取り巻く内外の苦しい状況があった。
④河野氏は幕府との結び付きを強めることによって、自分の立場を有利に計ろうという政治的な思惑があった。
⑤守護へこだわりが「幕府との関係強化=中央権力依存型」志向となり、自分の実力で領国体制を作り出そうとする動きを弱めた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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