滝宮念仏踊りが滝宮牛頭天王社(滝宮神社)に、 各郡の惣村で構成された踊り組によって奉納されていたことを以前にお話ししました。しかし、私には惣村の形成や、その指導者となった名主などの出現に至る経過が、いまひとつ曖昧でした。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

そんな中で出会ったのが永原慶三氏の「中世動乱期に生きる」という本です。この本は講演をベースにしている講演集なので、分かりやすい表現や内容になっていて、素人の私にとってはありがたい本です。永原氏が20世紀末の時点で、中世後半から戦国時代にいたる世界を、どのように描いていたのか、その到達点を知るには最適です。今回は、中世の惣と名主・地侍の出現過程部分について、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは   「永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法」です。    

これについて大まかなアウトラインを、永原氏は次のように記します。

「富が次第に地方に残されるようになって」きて、「日本の経済社会の全体的仕組みが、求心的で中央集中的な傾向から地方分権的な方向に、次第に性格を変えていった。……そういう動きと連動して守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしてくる」(158P)。そうしたなかで、惣村・郡中惣・惣国といつた「惣型秩序」が形成される。

惣村の小百姓台頭背景
     小農民の台頭をもたらした農業生産力の革新

惣村形成背景
惣村の出現背景

まず、守護や国人は省略して。地侍がどのように現れてきたのかを
見ていくことにします。
戦国時代の身分構成/ホームメイト
地侍は、もともと荘園の地頭級の役人ではありません。
つまり侍ではなかったということです。有力な農民出身の名主は、もともとの身分からいえば百姓です。律令時に百姓と呼ばれた人達が両極分解して、上層部が名主と呼ばれるようになったとしておきます。
名主層の台頭の背景は、何なのでしょうか? 
荘園の年貢は、領主に対してひとりひとりの百姓が納めるものです。しかし、これは集めるのが面倒なので、荘園領主は百姓の要求を受け入れて有力百姓に請け負わせるようにします。これを百姓請けとか地下請けと呼びます。このように年貢の取りまとめや納人の請負をやる有力百姓が名主クラスでした。
 村の耕地を維持していくためには、湛漑用水を確保しなければならないし、山野の利用を秩序だてて行なわなければならないなど、いろいろなことがあります。そういうことの中心になって村を切り盛りしていく役割を有力な名主たちが果たすようになります。他方で、名主層の中には国人や守護と被官関係を結ぶものも出てきます。被官関係というのは主従関係ですから身分的には、いままで百姓だった者が、侍になるということです。そのため地侍は、ふたつの性格を持つことになります。
地侍に2つの側面
地侍の持つ2つの性格
百姓出身とはいえ、地侍となると、やはり名字を名乗るようになります。
名主クラスはもともと姓をもっていたので、名前も漢字二字が多いようです。そういうような人を「侍名字(さむらいみょじ)」ともいいます。そんな人々が次第に農村の中に現れるようになります。これは鎌倉時代には見られなかったことです。この人たちは、村で生活していました。そのため百姓と似たりよったりの生活をしていす。そして地侍は村の耕地や水利施設の管理、年貢徴収などををやるので実力を持っています。国人や守護はうまくこの人々を把握すれば、自分の支配が安定します。しかし、この人々に背かれるとうまくいかなくなります。そういう意味では、地侍層の動きが大名たちの支配の安定、不安定を左右するカギであったと研究者は指摘します。ここでは室町時代から戦国時代にかけては、地侍が時代を動かす重要な役割、時代を社会のどのほうから動かしていく大きな役割を持っていることを押さえておきます。


惣村の構造図
               惣村の構造

 教科書は、惣村の力量の高まりの象徴として土一揆について次のように記します。
「徳政を求めて京都の町になだれ込んで、室町幕府に徳政令の発令を要求し、京都の町にあった土倉酒屋を攻撃し直接借金棒引き、借金証文の返済を求める」

 これだけ読むと農民の動きは、京都を中心にしてその周辺地域にだけあったように思えます。しかし、戦国時代になると地方でも農民闘争が活発におこっていることが分かってきました。京都の土倉ほど大きな規模ではありませんが、地方にも「倉本」が出現します。港町の問丸が倉本を兼業する場合もあります。倉庫業者や金融業者は、「有徳人(うとくにん:富裕層)」の代表です。そういう層に対し、農民が借金棒引きを要求していますし、荘園領主に対しては年貢や賦役の減免を要求して立ち上がっています
惣村の年貢軽減交渉
惣村の年貢軽減交渉
 守護が大名化すると、それまでなかった新しい課税(守護役)を求めるようになります。
その中には、人夫役もあれば段銭という課税もあります。これに対して百姓たちは、それもまけてくれという形で、守護に対する抵抗運動を見せるようになります。その中には、守護方の武力が領内に入つてくるのをやめて欲しい、出ていつてくれというような、政治的な動きも出てきます。
 応仁の乱のころからは一向一揆も起こってきます。
有名なものは加賀の一向一揆で守護の富樫(とがし)氏を殺したのはよく知られています。それだけではなく、近畿地方から信長の本拠である近江・美濃、尾張・伊勢、あるいは播磨のほうにかけ広く一向一揆が起こります。一向一揆は土地の領主には年貞を出さない、本願寺に出すというような動きをとりますが、実際は農民闘争という性質が強いと研究者は考えています。                   
どうして15世紀に新しい社会層が登場してきたのでしょうか。
その要因の一つとして、研究者がとりあげるのが経済問題です。
中世後期の経済社会を次のように簡略化してとらえます。
①従来は地方で生み出された富は年貢として都に集められ、貴族たちが消費しするという律令時代以来のシステムが機能していた
②そのため地方に残る富は乏しく、地頭の分け前程度が残るだけだった。
④地頭も質素な家に住んで、耕地開発に務めるが、まだまだ生活レベルは低く、自給自足的な生活を送っていた
⑤ところが15世紀初めの義満の時代の頃になると、富が地方に残されるようになってくる
 これは別の表現だと「年貢が地方から中央へ送られなくなる」ということになります。
同時に、地方経済の台頭の背景には、地方市場の発達があると研究者は指摘します。

室町にかけての商業・貨幣流通
室町時代の商業活動の発展

例えば農民の中でいろんな農作物を加工して売るような活動が盛んになります。
農民の副業としての農産物の加工業の誕生です。例えば大和あたりの農村地帯では、素麺がさかんに作られるようになります。麦をひいて加工したもので、今でも三輪素麺として有名です。それから油、特に灯油です。これは当時としては非常に重要な商品だったようです。京都から大阪に行く途中の山崎に離宮八幡という神社があります。石清水八幡の離れ宮です。その離官八幡に身分的に所属してこれに仕える神人が、荏胡麻油を絞って京都に売る特権を独占的に手に入れます。座組織をつくって原料買付・絞油を行ない、京都への油の供給はここが一手に掌握します。
 室町時代になると油の需要が高まり、大阪の周辺から播磨とか美濃・近江など至るところで油を絞って、それを商品として売る動きが盛んになります。
そのために離宮八幡の伝統的な座の権利、例えば原料の買人れ、油しぼり、そして商品の販売権などは新しく起こってきた各地の絞油業者、あるいは油の販売業者たちと各地で対立を起こすようになります。そういうことを見ても、絞油業が近畿周辺の農村に、広く展開するようになったことが裏付けられます。

室町時代の特産品
           室町時代の特産品

 地場産業として伝わっている、瀬戸物・美濃紙・越前紙などは、室町時代になって発展したものです。
こうして農村にも富が残るようになります。そうすると、その蓄えた資本で土地を買う、山野利用や用水の権利を握るようになります。財力を踏み台にして村の中で自分の立場を強めるとともに、守護や国人にむすびついて地侍化し、村の中で発言力を持つ者に成長して行きます。
 さらに市場や貨幣との接触が始まると、人々のものの考え方も合理的になっていきます。それが不作のときには年貢の減免というような領主に対する要求を、大胆におし出す動きにつながります。さらには領主が必要な時々にかけてくる夫役なども、銭で済ませることを認めさせます。このように中世の経済的成長で財力を得た富裕層があらたな指導権を握るようになり、農村全体に経済的・社会的な活気が見られるようになったことを押さえておきます。

鎌倉室町の貨幣流通策
鎌倉・室町時代の貨幣流通

 農村に富が残るようになると、いままでは都周辺で活動していた鍛冶犀とか鋳物など職人たちの中には地方にも下ってくるようになります。
それまでの鋳物師は、巡回や出職という型の活動をとっていました。それが特定の農村に定住する者もでてきます。こうして地方が一つの経済圏としてのまとまりを形成していきます。定期市も月三回、六回と立つようになり、分布密度も高くなります。それが地方経済圏の成立につながります。
これは広い視野から見ると、列島の経済社会の仕組みが、京都中心の求心的で中央集中的なシステムから、地方分権的な方向に姿を変えていたのです。そういう中で、守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしていくのです。いままでの荘官や地頭は、中央の貴族、寺社、将軍などに仕えなければ、自分の地位そのものが確保できませんでした。それにと比べると、おおきな違いです。
以上をまとめておきます。
①律令国家以来の地方から京都への一方的収奪のいきずまり
②農村加工品や定期市など地方経済の形成
③地方経済の成長とともに、守護・国人・地侍の新しい社会層の台頭
④農村における惣村の形成。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法