前回は高松市の石清尾八幡神社の祭礼行列を見てきました。
そこには、庶民が関わるにつれて、より賑やかになる祭礼の歩みが見られました。今回は、高松という瀬戸内海の城下町で行われるようになった祭礼行列が、いつ、どこからやって来たのかを探ってみることにします。            
  柳田国男は、「祭り」と「祭礼」を区別しています。
彼は神を迎え、祭り、神人共食(神への供え物をおろして人々も食べる)して、神を送る行事を「祭り」ととらえます。「祭り」は密室空間で特定の人たちだけが「神事」に関わり、時間帯もほとんどが夜に行われました。近世になって、そこに見物人が登場することで、神々だけでなく見物人を喜ばせる趣向である「風流」が広まり、見物人を意識した「祭礼」が昼間に行われるようになったと言います。
 今、私たちが見ることのできる太鼓台やお船、だんじり、獅子舞、奴などの「祭礼風流」は、見物人の目を意識しながら、工夫と趣向を凝らし変化させてきた結果ともいえるようです。
ところで香川・瀬戸内地域の祭礼」に影響を与えたのはどこの祭りなのでしょうか?
  それは
①京都の祇園祭 
②大阪の天神祭 
③宮島の管絃祭
三つの要素が強いと研究者は指摘します。
確かに、祇園祭に見られる山鉾は、山口祇園(山口県)や尾道久保祇園(広島県)、堺の開口神社八朔祭(大阪府)などに「移植」され、そこに根を下ろして行きます。
直島(香川県)の太鼓は、明治時代の初め頃に天神祭をならって始めたと伝えられます。また、瀬戸内各地に見られる船渡御の祭礼は、天神祭や厳島の管絃祭などの影響があるようです。
00016397祇園祭礼図屏風
    祇園祭礼図屏風に描かれた山車   江戸時代前期  

 祭礼風流は瀬戸内へ、どのように伝わったのか?
 平安時代中期、京都では疫病を鎮めるために御霊会が行われるようになります。やがてこの御霊会が祇園社に定着して、京都に最初の都市祭礼・祇園御霊会が生まれます。そして、目の肥えたみやこびとの目を意識したさまざまな芸能と混じり合い、趣向を凝らした風流が行われていきます。この祇園御霊会が祇園祭へと展開します。この屏風は、前祭の山鉾巡行を描いたものですが全部で23基の山鉾が描かれています。
祇園祭礼屏風絵

 このような山車(だし)を自分の国に持ち帰って「移植再現」使用とする試みが始まります。まずそれは、室町時代の守護大名たちの手によって行われます。
次の絵を見て下さい。大きな山車が連なる姿が描かれたいます。しかし、これは京都ではありません。山口の祇園祭の様子を昭和43年頃に描いたものです。
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  山口祇園祭屛風 昭和 山口歴史民俗資料館蔵
 山口市にある八坂神社は、応安2年(1369)大内弘世が京都八坂の感神院(八坂神社)から祇園社を勧請したと伝えられます。そして、その祭礼である山口祇園祭は、長禄3年(1459)に始まったとされ、都の祭礼が瀬戸の地方都市へ伝わった代表的な例です。
「明治百年記念」の注記があるので、昭和43年前後の作品ですが、神輿や山鉾のほか、鷺舞や趣向を凝らした造り物などがみえます。
 近世に瀬戸内の城下町で、京都や大阪から伝わった山車が「変化・成長」していきます。山・鉾・屋台などの設えやそこに据えられた人形などをはじめ、獅子舞や奴振り、狂言・踊りなどの芸能、仮装行列や曲芸など、いろいろな要素を貪欲に取り入れました。そして、衣装や設えは派手になります。また、夜には提灯などの灯りが祭礼風流として重要になっていきます。
次に設えの巨大化する姿を姫路の祭礼に見て見ましょう。
播磨国総社三ツ山祭礼図屏風
      播磨国総社三ツ山祭礼図屏風  江戸時代中期 

 戦国末期の天正9年(1581)に、姫路城の城下町建設にあわせて、播磨国の総社射楯兵主神社が現在地に遷されます。そして、新しくできた神社の祭礼には、門前に今まで見たとのないような3基の巨大な置山が姿を現します。この屏風は江戸時代中期の三ツ山大祭を描いたものです。画面下側に3基の巨大な置山(左から小袖山、五色山、二色山)が目を引きます。
c0149368_1643696播磨国総社三ツ山祭礼図屏風
             現代の置山
もともと「山」(だし)は神霊の依代として神聖なものでした。ところが、時がたつとともに姿が人型化するようになり、人形の飾り付けが行われるようになり「風流」となります。
  そして、近世に大坂城の大石を船で運び、修羅で引っ張ったような興奮が祭礼の山車にも取り込まれて行ったのではないかと私は想像しています。
「祇園祭の山車 + 大坂城の巨石運び= 博多の曳山?」
という図式が浮かんでくるのですが・・・。どちらにしても、ここには、あらたな祭礼文化の誕生が感じられます。
kan1宮島管弦祭

陸のパレードのルーツが祇園祭だとすれば、
海のパレードのルーツは、宮島の管弦祭です。
images厳島神社

管絃祭は平安時代に都の貴族の間で盛行した管絃(雅楽演奏)の舟遊びを、平清盛が厳島神社の祭礼に取り入れたものだとされます。もともとの管絃祭は旧暦6月17日の夜、沿岸の神々に管絃奏を捧げる形で行われていました。管絃船が瀬戸の港から集まった船を従えての瀬戸内海一の海のパレードが行われていたのです。管絃船の周りには、それに随行する観覧船や美しく飾られた御供船が海上を埋め尽くしました。
もうひとつの船のパレードが大坂の天神様の祭礼船渡でした。
1戎島天満宮御旅所p0030063[1]

 これは江戸時代の天神祭を描いたものです。
難波橋の乗船場から川を下り、戎島の御旅所までのルートを2つの神輿や催太鼓などを乗せた御幸船がパレードします。その船渡御の風景が、祭り見物を楽しむ人々とともに生き生きと描かれています。
img_1大阪天満宮が所有する舟形山車「天神丸」

そして、ここではこんな立派な舟形山車も出現していました。
 宮島の厳島神社の管弦祭と大坂天神様の渡海は、瀬戸内海に投じられた二つの石として、その祭礼の波は津々浦々の港町まで伝わります。そして、これを参考にした海の祭礼行列が生まれてきます。
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  大避神社祭礼絵巻  弘化2年(1845)赤穂市立歴史博物館蔵
 千種川河口の港町として、昔から重要な役割を果たしてきた兵庫県赤穂市坂越にある大避神社の船祭を描いた絵巻です。船渡御を行う船の構成をみると、擢伝馬・獅子船・頭人船7艘・楽船・御座船・供奉頭船・警固船・歌船の姿が見えます。これらが列を整え、坂越湾頭の生島の御旅所まで船渡御(船のパレード)です。向こうの岸に、石垣のように見えるのは人の頭です。人垣なのです。多くの人たちが出て賑わった様子がわかります。
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 長門国の二宮である忌宮神社(山口県下関市長府)の天保11年(1840)の祭礼の様子を伝えるものです。上段が「陸渡御」で、町内を進む神輿や行列と各町から出された山車のが見えます。それぞれの山車上部には趣向を凝らした造り物があります。
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下段が「船渡御」(海のパレード)で、神輿が乗る船を各町の船が取り囲む様子が描かれています。海上から花火が打ち上げられ、華やかな祭りの風情が伝わってきます。
 これも瀬戸内海の最重要港としての下関と大坂の海の交易なくしては生まれなかったものでしょう。海の祭礼では
「管弦祭 + 天神祭」=「瀬戸内の港の祭礼行事」
という伝播ルートが見えてきそうです。
 こうして、城下町や拠点港の都市型祭礼だけでなく周辺部の港や内陸部の村々にも祭礼行事が伝播していったことがうかがえます。
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     諸国御祭礼番附 江戸時代 高松市歴史資料館蔵
 江戸時代の後半頃の諸国の祭礼番付です。行事が伊勢両宮御祭や尾張津島祭、山城葵祭が江戸の天王祭礼などが年寄り、出雲大社祭・京都吉田祭が勧進元として特別別扱いです。そして東之方、西之方に分け主な祭礼が列記されます。東之方(関東)では江戸の山王御、神田御祭、赤坂氷川御祭、常陸の水戸御祭などが上位にみえます。西之方(関西:左)では京都の祇園御祭、大坂の天満御祭、、安芸の宮島管弦祭とともに、讃岐の金毘羅御祭の名前も挙げられています。
こうして、江戸時代後半には各地で風流化がすすんだ結果、特色のある祭礼が営まれるようになっていったのです。しかし、それは案外新しくて、江戸時代後半から幕末に架けてのことだったことが分かります。
96a1ce祇園祭礼図屏風

参考文献 香川県立ミュージアム 祭礼百態