
昔から気になる廃寺があります。本目の尾背寺です。
この寺の「発掘調査書」を要約すると、次のようになります。
①活動期間は鎌倉時代初頭から室町時代の間で②中心は瓦片が集中出土する尾野瀬神社拝殿周辺③拝殿裏には礎石が並んでいるので、ここが本堂跡の最有力地④尾野瀬神社から墓ノ丸までの一帯には、いくつもの坊があったこと、
などから寺域はかなり広く、多くの山岳修行者たちが拠点とする寺院だったようです。讃岐で作られたものではない土器や高価な白磁なども出ててくるので、廻国の修験者や聖の流入もあったようです。


白磁四耳壺(尾背寺出土)
高野山の高僧道範が讃岐流刑中に著した『南海流浪記』(1248)には、次のように記されています。

南海流浪記の尾背寺の部分
「尾背寺は弘法大師が善通寺を建立したときに材木を提供した柚(そま)山である。本堂は三間四面、本仏は弘法大師作の薬師如来である。その他にも、三間ノ御影堂・御影井には天台大師の御影が祀られていた。」
ここからはこの寺が善通寺の「森林管理センター」であると同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。本尊は善通寺と同じ薬師如来です。薬師如来は熊野行者の信仰する仏でもありました。13世紀半の尾野瀬山には広大な寺域を持つ山岳寺院があり、いくつもの坊があったことが発掘調査や一次資料から分かります。
近年、尾野寺のことが萩原寺(大野原町)に残る文書に書かれているのが明らかになりました。


萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法
例えば萩原寺地蔵院の地鎮鎮壇法は、文保元年(1317)に尾背寺下坊で書写されたと記されています。それが萩原寺の聖教として保管されていました。ここからは次のようなことが分かります。①尾背寺には「写経センター」があって、そこで若き修行僧が修行の一環として写経を行っていたこと。②「善通寺ー尾背寺ー萩原寺」は同門で、山岳寺院ネットワークで結ばれていたこと。
こうして見ると尾背寺は山の中に孤立していたわけでなかったようです。大川山の中寺廃寺や炭所の金剛院とも結びついた山岳寺院ネットワークを構成していたことが考えられます。そして、これらの寺は阿波との交易の中継基地的な役割も果たしていたと私は考えています。
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