6世紀末頃になると前方後円墳や群集墳も造られなくなります。

終末古墳とは

しかし、ごく一部の限られた支配者たちは、方形や円形、まれに八角形の墳丘をもつ古墳を築いています。7世紀になっても造られた古墳を終末期古墳と呼んでいます。 私は終末古墳は、高松塚古墳やキトラ古墳のように飛鳥周辺に造られた皇族や権力中枢部のものと思っていました。しかし、そうではないようです。地方にも終末古墳はあるのです。しかし、分布に偏りがあって、どこにでもあるというものではないようです。讃岐の大野原の3つの巨石墳や坂出市府中の新宮古墳も終末古墳になります。
 その中で旧山陽道沿いには、終末古墳が密集する地域がいくつかあるようです。今回はその中の備後南部の芦田川中流域(福山市)の終末古墳を見ていくことにします。テキストは広瀬和雄 終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月です。
共同研究] 新しい古代国家像のための基礎的研究 / 広瀬和雄 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

福山市の芦田川河口には草戸千軒遺跡があり、中世の港町として繁栄していました。
芦田川は、中国地方の上流部を結ぶ交通路として古代から人とモノが行き交っていたようです。その芦田川が大きく西に流れを変える辺りに、備後の国府や国分寺が造られます。このあたりが古代の備後の中心地となるようです。

史跡備後国府跡保存活用計画

しかし、このエリアには6世紀までは有力な首長はいなかったようです。それが7世紀になると、突然のように有力首長が「集住」してきて、終末古墳を造営し、その後には7つもの古代寺院が造られ、そして国衙や国分寺が現れます。そのプロセスを見ておきましょう。

備後南部の大型古墳
備後の終末古墳
広島県福山市の神辺平野の東西約5kmほどの狭い地域に、多くの終末古墳と古代寺院が集中しています。
それまで円墳や群集墳しかなく、有力な首長墓がなかったこのエリアに、突然現れる終末古墳が二子塚古墳(上地図4)です。

備後二子塚古墳2
二子塚古墳
①墳丘の長さ68mの前方後円墳で、後円部と前方部に横穴式石室が各1基

備後二子山塚古墳石室

②後円部の石室は両袖式で、玄室と羨道は入り口側に向かって広がり、天井部は高くなる。
③羨門から前方にかけて9、8mほどの長さのハ字形の墓道がつく。
④奥壁は縦長巨石の1段積み、玄室側壁は左4段、右3段、羨道側壁は3段積み、羨門付近は4段積みで、玄門部には立柱石を据え、前壁は2段積み
⑤玄室前半部に竜山石製の組合わせ式石棺、その北側に鉄釘接合木棺が置かれていた。

備後二子塚古墳副葬品
二子塚古墳副葬品
⑥金銅製双龍環頭大刀柄頭、鉄製大刀、金銅製鍔、鉄矛、石突、鉄鏃、刀子、馬具(鐙、杏葉、磯金具)、陶邑TK209型式の須恵器、土師器、鉄釘

この古墳は7世紀初めの前方後円墳で、竜山石製家形石棺を安置した巨大な横穴式石室をもちます。また、金鋼製双龍環頭大刀など豊富な副葬品が埋葬されていました。
二子塚古墳の双龍柄頭の分布図
 二子塚古墳を造営した首長とは何者なのでしょうか。
これについては、次のふたつ説が考えられるようです。
①在地首長が畿内勢力と密接な関係をもつことで強力になった
②畿内から送り込まれた勢力が、この地域に意図的に配置された

大型の家形石棺は、近隣のも浪形石ではなく、わざわざ播磨から竜山石を運んできています。また双龍環頭大刀が副葬されています。ここからは「大和政権の強力なバックアップを受けた国造クラスの首長が最も可能性が高い」との②説が有力のようです。

二塚古墳は南東に開口する花崗岩積みの巨石墳ですが、玄室の一部しか残っていません。

備後 二塚古墳
二塚古墳の石室と出土品
①奥壁は巨大な鏡石の上部に横長の石材を1段積む。
②側壁は2段積みで、天井部は平坦
③銅鏡、耳環、ガラス小玉、鈴釧、鉄矛、鉄製石突、鉄鏃、馬具(杏葉、雲珠、餃具、鞍橋覆輪金具類、、刀子、須恵器、本片、鉄釘などが出土

二塚古墳 出土品2
二塚古墳出土の馬具類
④杏葉は「双龍あるいは双鳳を文様の基調とし、朝鮮文化の影響を受けたもの」

備後南部の終末古墳編年

備後南部の終末古墳の石室編年
3期に分類される大迫古墳は両袖式横穴式石室で
①奥壁は1石1段積み、玄室側壁は基底部に巨石を3石据え、その上部に横長の石材を積む。
②羨道側壁も同様の構造ですが、1石のところもある。
③玄室天井部はやや玄門部に向かって下がり、前壁は低い。
④出土品は分かりません。
4期のヤブロ古墳は袖も前壁もない無袖式横穴式石室です。奥壁、側壁ともに1段積みで、各4石の巨石で築かれています。

大佐山白塚古墳は標高188mの大佐山の頂上に築かれた一辺12mの方墳です。
備後 大麻山白塚古墳 八角形石室
ただ列石をめぐらせる多角形墳の可能性もあるようです。
①花崗岩の切石を積んだ横穴式石室は、奥壁は1石の鏡石、玄室側壁は基底部の巨石に横長の石材を積む。
②玄門部は立柱石が内側に突出し、その上部に相石がのる。
③玄室の天井石は1石で、その南方に伸びた丘陵尾根に、ほぼ同時期とみられる6基の小型横穴式石室が付属
狼塚2号墳は直径約12mの円墳です。
備後 狼塚第2号古墳石室
①横穴式石室の奥壁は1石
②側壁は玄室も羨道も基底部の巨石に横長の石材を1段積み。
③玄門部の立柱石は内側に突出し、その上部に一段下がった相石が載せられる。
④滑石製管玉、須恵器などが出土していて、「古墳時代終末期(7世紀前半)頃」
大坊古墳は一辺13mほどの方墳で
備後 大坊古墳
大坊古墳の石室
①巨石を積んだ横穴式石室は、玄室の奥壁、領1壁、玄門立柱石は1石
②玄室のほぼ中央には仕切り石が置かれ、その位置は側壁の2石に対応
③羨道側壁は玄門部側は1段だが、羨門側は2段積み。
すべてを挙げることはできないので、このあたりにしてもう一度終末古墳群の石室編年表を見ておきましょう。

備後南部の終末古墳編年

上の石室編年表から読み取れることを挙げておきます。
①7世紀初めに前方後円墳で、両袖式の巨石墳の二子塚古墳の出現する。
②その後は7世紀後半まで、有力古墳がいくつも造られている。
③3期には、タイプの違う大型石室を持つ古墳が、同時進行でいくつも造営されている。
備後南部の終末古墳編年2
備後南部の終末古墳の築造時期
 同時進行で築造されているこれを研究者は、次のように分析します。
3~4期に石槨は2基づつ造られていることから、新たなタイプの石室を採用した首長墓がやってきたこと。それが7世紀前半ごろには2系譜、7世紀中ごろには3系譜と、時期がたつにつれ首長系譜が増えていることです。
 また、研究者が注目するのは、A型、B型、横口式石槨の3タイプの横穴式石室は、互いに排他的ではなく、同時代に共存・並立していることです。しかも古墳築造のための構造・技法などが共通し、畿内的色彩がつよいようです。これはひとつの石工集団が、あっちこっちのスタイルの違う首長墓を同時並行で造っていた可能性が高いということです。
備後南部に終末古墳が集中した理由2


備後南部の後期古墳と古代寺院
備後南部の終末古墳と古代寺院 (A~G)が古代寺院
そして7世紀後半になると、古代寺院が6カ寺も創建され、さらに8世紀には国分寺も現れます。古代寺院は氏寺なので、建立した6人の壇越氏族がいたことになります。言い換えると、6人の有力首長がこの狭い地域に共存していたことになります。 このエリアに終末古墳が集中している背景を、研究者達は次のように考えています。
西川宏氏は、次のように記します。
「在地首長の権力を温存しただけでなく、吉備勢力の分断を狙って、これを積極的にバックアップした」
「備後南部の首長層は、備後北部を従属させるにいたった」
「南部の塩と北部の鉄」の「商品交換」が「南部の首長のリーダーシップのもとに行われ」
「両地域はここにいたってはじめて緊密に結びついた。そして「備後」という一つの自己完結的な政治的地域が成立した。この時期に近畿政権が吉備分断のため、あえて「備後」の地域をまず切り離しにかかった背景もここにあった。」[西川1985]。
桑原隆博氏は「北部の小型・分散化と南部の一極集中化の背景」について、次のように記します。
「備後全域での地域統合への政治的な動き」が進み、「畿内政権による吉備の分割という政治的動き」があり、「備後南部の古墳の中に、吉備の周縁の地域として吉備中枢部との関係から畿内政権による直接的な支配、備後国の成立へという変遷をみることができる」[桑原2005]。

脇坂光彦氏は次のように記します。
「芦田川下流域に集中して造営された横口式石槨墳は、吉備のさらなる解体を、吉備の後(しり)から進め、備後国の設置に向けて大きな役割を果たした有力な官人たちの墓であった」[脇坂2005]。
これらの説に共通するのは、6世紀までは自立していた「吉備」が、7世紀になって畿内勢力に分割・解体されるという道筋です。いいかえれば、畿内勢力による吉備分断政策の象徴として終末古墳を読みとっています。

備後南部に終末古墳が集中した理由3

 以上を研究者は考古資料で、次のように裏付けようとします。
まず、横穴式石室B型は、近隣では安芸東部などにもみられるタイプです。ここからは安芸東部から移動してきた首長もいたことが考えられます。同時に、横口式石槨は畿内的な墓制とされるので、畿内からやってきた有力首長もいた可能性があります。

横口式石槨
横口式石槨

内田実氏は、次のように記します。
「畿内政権から直接派遣された高級官人・軍人(渡来系を含む)もしくは地域首長一族から大和朝廷に出仕し、高い評価を得て出自の故地に埋葬された人物の可能性が高い」[内田2009]。

 白石太一郎氏は、次のように記します。
「地方の横口式石槨は畿内でも官僚として活躍した地方首長層の墳墓に採用されていた可能性が大きい」「白石2009」

 7世紀前半にした4人もの首長は、もともといた在地の首長に加えて、畿内や山陽西部からやってきた首長や中間層っがやってきたて「集住」したと研究者は考えているようです。

では、なぜ首長達がこのエリアに「集住」したのでしょうか。

山陽道と終末古墳の重なり
終末古墳群と古代山陽道
その要因として研究者は、次のように山陽道との関連をあげます。
  「山陽道」の整備が7世紀初めごろから開始されたというのです。それに加えて、芦田川の水上交通と山陽道がクロスする場所に戦略的な要衝が置かれ、そこが「もの_|と人の集積・分散のセンターとしての役割を負わされた」とします。いいかえれば、山陽道と芦田川との結節点を、ヤマト政権が政治拠点化するため、在地首長を政治的にテコ入れしたり、中央から有力首長を派遣したりしたというのです。
 おなじような地域が、北部九州に3カ所あると研究者は指摘します。それが壱岐島、宗像地域、豊前地域の京都平野です。この3ヶ所でも、6世紀紀の有数の前方後円墳とともに、巨石墳をはじめとした終末期古墳や、多数の群集墳や横穴墓が造られています。それは次のような役割を担っていたと研究者は考えています。
壱岐島は外交と防衛の前線
宗像は出発港
京都平野はその兵姑基地
中央政権が関与した時期や仕方はちがいますが、複数首長が派遣され集住によって政治センターが形成されたのは共通しています。
以上をまとめておきます。

終末古墳集中の背景

以上からは、律令体制以前の7世紀初めには、山陽道の原型は出来上がっていたことになります。この説を讃岐に落とし込むと、終末期古墳とされる三豊の大野原の3つの巨石墳や坂出府中の新宮古墳などの巨石墳は、南海道(原型)に沿って造られたということになります。そうだとすれば納得できることがいろいろと出てきます。備後南部に最初に現れた二子塚古墳と、大野原の碗貸塚古墳や府中の新宮古墳は、ヤマト政権によって派遣された首長達が築いたものということになります。
これについて大久保徹也(徳島文理大学)は、次のように記しています。  
 古墳時代末ないし飛鳥時代初頭に、綾川流域や周辺の有力グループが結束して綾北平野に進出し、この地域の拠点化を進める動きがあった、と。その結果として綾北平野に異様なほどに巨石墳が集中することになった。
大野原古墳群に象徴される讃岐西部から伊予東部地域の動向に対抗するものであったかもしれない。あるいは外部からの働きかけも考慮してみなければいけないだろう。いずれにせよ具体的な契機の解明はこれからの課題であるが、この時期に綾北平野を舞台に讃岐地域有数の、いわば豪族連合的な「結集」が生じたことと、次代に城山城の造営や国府の設置といった統治拠点化が進むことと無縁ではないだろう。
 このように考えれば綾北平野に群集する巨石墳の問題は,城山城や国府の前史としてそれらと一体的に研究を深めるべきものであり、それによってこの地域の古代史をいっそう奥行きの広いものとして描くことができるだろう。(2016 年 3 月 3 日稿)
 これは備後南部で起きていたヤマト王権の動きとリンクすることも考えられます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布2
讃岐国府(坂出市府中)と終末期古墳群

長くなりましたので、それはまたの機会にすることにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
広瀬和雄  終末期古墳の歴史的意義 国立歴史民俗博物館研究報告 第179集 2013年11月
関連記事