中世の祭礼行列では 神輿を先導するのが太鼓の役目
奈良の転害会は、宇佐八幡神が東大寺に勧進された神迎えの様子を再現した祭礼です。今では明治の神仏分離で、行列はなくなり祭式のみが転害門で行われています。東大寺の鎮守神手向山八幡宮には、この絵巻が伝わっています。そして嬉しいことにデータベースで祭礼の巻物を見ることが出来ます。奈良女子大学学術情報センターhttp://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y12/y12/
ここでは太鼓は神輿の先導役です。太鼓台の歴史が古い天神祭の催太鼓(もよおしだいこ)、生國魂神社の枕太鼓、杭全(くまた)神社の太鼓台などは、今でも神輿の先導役です。そして太鼓を担う人物の社会的地位は、他の練物よりも高いとされます。また、催太鼓の「催」には「お知らせ」の意味があり、生國魂神社の枕太鼓は、かつては「報知太鼓」と呼ばれていました。祭礼行列における太鼓の役割は「神輿の触太鼓」だったようです。
太鼓台のルーツは神輿の到来を告げる触太鼓。
「神輿の到来を告げる」の時代の太鼓の叩き方はどうだったのでしょうか。
中世の流れをひく太鼓台の太鼓は、遠音がさすように一音一音が丁寧に打ち込まれます。江戸時代も同じような打ち方がなされていたようです。前回紹介した大田南畝(蜀山人)の日記『芦の若葉』には、享和元年(1801)の天神祭の催太鼓の「音」が記録されています。そこには「まどをに(間遠に)」とあり、一音一音の間隔をあけて打たれていたことが分かります。祭礼行列における初期の太鼓台の役割は、人々を囃し立てるのではなく、人々にカミの到来を知らせるために音を遠くに伝えることだったと研究者は考えているようです。
中世の流れをひく太鼓台の太鼓は、遠音がさすように一音一音が丁寧に打ち込まれます。江戸時代も同じような打ち方がなされていたようです。前回紹介した大田南畝(蜀山人)の日記『芦の若葉』には、享和元年(1801)の天神祭の催太鼓の「音」が記録されています。そこには「まどをに(間遠に)」とあり、一音一音の間隔をあけて打たれていたことが分かります。祭礼行列における初期の太鼓台の役割は、人々を囃し立てるのではなく、人々にカミの到来を知らせるために音を遠くに伝えることだったと研究者は考えているようです。
太鼓をたたく乗子(のりこ)の装束と作法を見て見ましょう。
太鼓を打つ乗子の多くは子供です。
「化粧を施し投頭巾をかぶって艶やかな装束をまとう」「地面に足をつけずに大人に肩車されて移動する」
といった多くの太鼓台に共通する「ルール」は、山車の囃子方というよりも、神事に向かう神役のようです。乗子は、他の祭礼と同じく無邪気な子供でなければなりませんでした。化粧・装束による「変身」は、カミに仕えるため、あるいは神聖な祭具に触れる資格を得るためなのかもしれません。太鼓台に上がるためには神聖さを求められたのです。
生国魂祭の祭礼行列の「報知太鼓」です。
触れ太鼓ですからパレードの先頭を行きます。その際に、前後左右に太鼓台が揺さぶられる中、願人(がんじ)と呼ばれる若衆が激しく太鼓を打ち鳴らします。願人の背もたれが大きな枕に似ているところ枕太鼓と呼ばれています。
太鼓を叩くことには、邪気を払う意味があります。願人の装いは「晴着」と呼ばれ、赤い頭巾をかぶり、瓢箪模様の法被を着ています。
研究者は太鼓台の進化を、右図のように考えています。
荷太鼓 → 枠付太鼓台 →布団太鼓台
生国魂祭の太鼓台は布団太鼓台になぜ進化しなかったのでしょうか?
太鼓台はもともとは神社に一台が基本でした。ところが神社付きの太鼓台に加えて、各組から寄進された太鼓台が増えるに従って、神輿の先導という役割を離れて、地車のように複数台が現れる祭りも多くなっていきました。
そういう意味では生国魂神社系の祭りは太鼓台は一台だけですから、華美豪華さを競う会うこともなく形態はシンプルなままです。そして「進化」の方向は、担ぎ方や荒ぶれ方などの所作に向かいます。
一方、難波神社は、各組からの太鼓台の寄進を許したのです。
その結果、難波神社の太鼓台は何台もの太鼓台が祭礼に参加し、華美豪華と巨大化という「進化」の道をたどることになったのではないでしょうか。そして、18世紀末には巨大な布団太鼓台が姿を現すのです。
こうして18世紀半ばには、枠式太鼓台に布団以外にも、櫓や屋根等のいろいろなものが上に乗ることになります。そして時間と供に、太鼓台は各神社・地域毎に多様化していったのです。
前回紹介した18世紀末に大坂難波神社の大祭に奉納された布団太鼓台の拡大部です。これが瀬戸内海の各地にどのように伝播し、その姿を見せているのか見て見ましょう。
前回紹介した18世紀末に大坂難波神社の大祭に奉納された布団太鼓台の拡大部です。これが瀬戸内海の各地にどのように伝播し、その姿を見せているのか見て見ましょう。
下図はペリー来航直前に今治市の大浜八幡神社に奉納された絵馬に描かれた太鼓台です。
難波神社のものから50年後になります。枠付太鼓台から布団太鼓台への「進化途上」にありそうな絵です。柱は細く、布団も重ねてはないように見えます。しかし、打ち手は4人です。描き手は裸ではありません。揃えた装束と黒い足袋がきれいです。
瀬戸内海を抜けて長崎のものを見て見ましょう。
シーボルト編纂した絵図には 、文政10年(1827)頃に長崎くんちに登場した布団太鼓台が描かれています。布団は赤と黒の2重ですが、側面の布団には白い牡丹の刺繍が見えます。また担ぎ手が半裸ではなく装束が統一されているのが国際都市長崎らしいところでしょうか。しかし、足は裸足のようです。担ぎ棒は、四方に伸びて大人数で架けると供に、狭い路地に入って行くことはなかったようです。
大坂から瀬戸内海に展開した布団太鼓台。
ところが、ある場所で巨大・豪華化が始まるのです。それは、住友家の手で進められた別子銅山の近代化の波が富をもたらした新居浜でした。産業が発展し、地域が潤うにつれて太鼓台を所有する各地域の対抗意識も高まります。そして太鼓台は明治中期以降から急速に大型化するようになるのです。同時に飾り幕は縫いの発達とともに豪華に、艶やかになり天幕も膨らみを持ったものを付けるようになりました。
しかし、太鼓台の飾りが豪華になり、大きさも大型化するということは、その建設費用や太鼓台を担ぐためのかき夫の数が多く必要になるということです。別子銅山からもたらされる富と、そこに集まる人々は、その壁を「財力」と「腕力」で越えていったのです。
参考文献 観音寺太鼓台研究グループ 太鼓台文化の歴史
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