まんのう町出身の戦前の衆議院議員増田穣三(じようぞう)の華道師匠の顕彰碑が宮田の西光寺(法然堂)にあると聞いて行ってみた。
碑文は、本堂の正面に忘れられたかのようにあった。そこには園田氏実(法号 丹波法橋、流号 如松斉(によしようさい)の業績が次のように刻まれている。(意訳要約)
園田翁顕彰碑(まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
碑文は、本堂の正面に忘れられたかのようにあった。そこには園田氏実(法号 丹波法橋、流号 如松斉(によしようさい)の業績が次のように刻まれている。(意訳要約)
「幕末から明治にかけて、丹波からやってきた如松斉が縁あって法然堂の住職務めた。堂塔修繕などに功績を残したが、明治になり時代が変わると隠居し、生間の豊島家の持庵に移り活花三昧の生活を送り未生(みしよう)流師範を名乗った。自庵で教授するばかりか各地に招かれて出張指導し、広く仲多度南部から阿波にかけて門弟は六百余名を数えるほどにもなった。」
未生流は陰陽五行説・老荘思想・仏教を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りをめざすもので、明治という新しい時代にマッチした活花として受け入れられたという。この流派を、最初にこの地に持ち込んだのが如松斉であり、多くの問弟を抱える華道集団に成長していた。如松斉は、明治16年に76歳で死去する。没後7回忌に当たる明治22年に、彼の高弟達が法然堂境内に、この顕彰碑を建てた。
碑文裏には、建立発起人の名前が数多く刻まれている。
園田翁顕彰碑の発起人たち 先頭は増田(秋峰)穣三
その筆頭に、増田穣三(秋峰)の名がある。後の衆議院議員で、銅像が塩入駅前に立っている人物だ。しかし、この碑文建立時には26歳の若者である。それがなぜ筆頭に?
碑文裏には、建立発起人の名前が数多く刻まれている。
園田翁顕彰碑の発起人たち 先頭は増田(秋峰)穣三
その筆頭に、増田穣三(秋峰)の名がある。後の衆議院議員で、銅像が塩入駅前に立っている人物だ。しかし、この碑文建立時には26歳の若者である。それがなぜ筆頭に?
死を目前にして起き上がれない如松斉は、腹の上に花台を置いて、臨終の際まで穣三に指導を行い皆伝を許可したという。晩年の如松斉の穣三に対する思い入れが伝わってくる。経験豊富な兄弟子や高弟は、何人もいたと思われるが、彼が後継者に選ばれる。若き穣三の中に多くの門下生をまとめ上げ指導していく寛容力や人間的魅力があると、如松斉は見抜いたからではないか。その後、穣三は師匠の名を冠した「如松流2代目家元」を名乗る。この顕彰碑は、増田穣三の後継者継承を示すと同時に「流派独立宣言碑」とも読み取れる。
穣三が家元として伝えた「如松流」の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
旧伊予街道の旧街道沿いにある尾崎家の玄関には、3代にわたる華道の看板が掲げられている。そこには「如松流」の文字が黒々と書き込まれていた。 一番古いものが穣三の高弟で如松流3代目と目されていた尾﨑清甫(博次)のものである。
旧伊予街道の旧街道沿いにある尾崎家の玄関には、3代にわたる華道の看板が掲げられている。そこには「如松流」の文字が黒々と書き込まれていた。 一番古いものが穣三の高弟で如松流3代目と目されていた尾﨑清甫(博次)のものである。
尾﨑清甫の免許状 秋峰の名前が見える
尾﨑清甫は手書きの「立華覚書き」を残している。孫に当たる尾崎クミさんの話によると、祖父の清甫が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。如松斉により上方からもたらされた活花が、増田穣三やその高弟・尾﨑清甫の三代を経てまんのうの地に根付いて行った痕跡を見る思いがした。尾﨑家に残る花伝書と雨乞踊諸書類の箱
なお、尾﨑清甫は綾子踊り文書を書残した人物でもある。未生流華道の流れ
(2017年12月分原稿)
参考文献 仲南町史 尾崎家に残る諸資料
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