前回は、16世紀初頭の永世の錯乱期の讃岐と阿波の関係を三好之長を中心に見ました。今回は阿波の細川晴元を中心に見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配 四国中世史研究17号(2023年)」です。
細川晴元
細川晴元は応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の嫡系(ひ孫)という血筋になります。1507年に政元が暗殺される『細川殿の変』を発端として、永世の錯乱と呼ばれる細川京兆家の家督争いが始まります。
この争いのなかで、細川晴元の父・澄元は、細川高国に負けて阿波に逃げてきます。その後も高国の圧迫を受けて、すっかり弱ってしまった父は細川晴元が7歳のときに阿波・勝瑞城(しょうずいじょう)で亡くなります。父の復讐を果たそうと晴元は、宿敵・細川高国を討ち果たすことに執着した、というのが軍記ものの伝えるところです。
この争いのなかで、細川晴元の父・澄元は、細川高国に負けて阿波に逃げてきます。その後も高国の圧迫を受けて、すっかり弱ってしまった父は細川晴元が7歳のときに阿波・勝瑞城(しょうずいじょう)で亡くなります。父の復讐を果たそうと晴元は、宿敵・細川高国を討ち果たすことに執着した、というのが軍記ものの伝えるところです。
14歳になった細川晴元は、阿波国人・三好元長(長慶の父)の助けを借りてクーデターを起こします。
1527年の桂川原の戦いで細川高国が率いる幕府軍を倒し、将軍家もろとも高国を京から追い出すことに成功します。
細川晴元と三好元長は、将軍と管領逃げ出してもぬけのからになった京に代わって、摂津の堺さかいに『堺公方府(さかいくぼうふ)』という幕府っぽいものをつくり拠点とします。これは細川晴元をリーダーとした擬似幕府でしたが、2年ほどで三好元長とけんか別れします。すると雌伏していた細川高国が報復の動きを開始します。そこで仕方なく三好元長と仲直りして再度手を握り、1531年の大物(だいもつ)崩れに勝利します。
こうして、『永正の錯乱』と呼ばれた細川京兆家の内輪揉うちわもめに、父の仇かたきを討って勝利した細川晴元は、室町幕府の最高権力者となります。こうなると晴元にとって堺公方府の意味はなくなります。この結果、堺公方府を自分の権力拠点としていた三好元長との関係が悪化します。

細川晴元と高国の分国(1530年)
細川晴元と三好元長は、将軍と管領逃げ出してもぬけのからになった京に代わって、摂津の堺さかいに『堺公方府(さかいくぼうふ)』という幕府っぽいものをつくり拠点とします。これは細川晴元をリーダーとした擬似幕府でしたが、2年ほどで三好元長とけんか別れします。すると雌伏していた細川高国が報復の動きを開始します。そこで仕方なく三好元長と仲直りして再度手を握り、1531年の大物(だいもつ)崩れに勝利します。
こうして、『永正の錯乱』と呼ばれた細川京兆家の内輪揉うちわもめに、父の仇かたきを討って勝利した細川晴元は、室町幕府の最高権力者となります。こうなると晴元にとって堺公方府の意味はなくなります。この結果、堺公方府を自分の権力拠点としていた三好元長との関係が悪化します。

永世錯乱後の細川家の内紛
そんな中で、河内守護・畠山氏と木沢長政の争いが起こります。
畠山氏の援軍に向かった三好元長に、細川晴元は山科本願寺の一揆軍を誘導してぶつけます。これが1532年の『天文の錯乱』を招く大混乱を招くことになり、この騒動に巻き込まれた三好元長は自害します。ここまでは晴元の策略どおりでしたが、一向一揆軍が暴徒化してしまい手におけなくなります。そこで山科本願寺を焼き討ちにして弾圧しますが、これが火に油を注ぐ結果となり、怒った本願寺と全面抗争に発展してしまいます。

細川晴元が巻き起こした『法華一揆』の大炎上を翌年に収束させたのが、三好元長の子・千熊丸(12歳 長慶長慶)です。
この時の千熊丸は、まだ子どもでしたが「これは使える」と思った細川晴元は家臣に加えます。しかし、千熊丸の父・三好元長は細川晴元に裏切られて殺されたようなものです。この子は胸の奥に復讐心を抱いていました。三好長慶(ながよし)と名乗るようになった千熊丸は、幕府をもしのぐ大物になり、細川晴元を京から追放します。
以上のように、細川晴元は細川高国との争いを制して、室町幕府の中枢に君臨し、幕政を意のままにしました。しかし、細川京兆家の内紛に明け暮れ、盛衰を繰り返すうち、家臣の三好長慶によって政権から遠ざけられ、幽閉先の摂津・普門寺城で亡くなります。1563年3月24日、享年50歳で亡くなります。死因は不明。
細川晴元の動きを追いかけてきましたが、ここで讃岐に目を転じます。
晴元が畿内での足場を確かにするようになると、讃岐では守護代家の安富氏や香川氏が次のような書下形式の文書を発給し始めます。
晴元が畿内での足場を確かにするようになると、讃岐では守護代家の安富氏や香川氏が次のような書下形式の文書を発給し始めます。

本妙寺(宇多津)
【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」当寺々中諸諜役令免除上者、□不可有相違状如件享禄二一正月十六日 (安富)元保(花押)宇多津 法化堂(本妙寺)
東讃守護代の安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役免除特権を書下形式で発給したものです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。元保は自分の判断で諸役免除を行ったようです。
ちなみに瀬戸内海交易ルートを押さえるために細川氏や三好氏が着目したのが本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れです。細川晴元が「堺幕府」を樹立しますが、その背景には,日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。
また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。
次は三豊の秋山氏の菩提寺である日蓮宗の本門寺を見ておきましょう。
【史料2】香川元景書下「本門寺文書」讃岐国高瀬郷之内法花堂之事、泰忠置文上以 御判并景任折紙旨、不可有相違之由、所可申付之状如件、天文八 六月一日 (香川)元景 花押西谷藤兵衛尉殿
意訳変換しておくと
讃岐国高瀬郷の法花(華)堂(本門寺)について、(秋山)泰忠の置文と(守護代)の香川和景の折り紙を先例にして、諸役免除特権を認める。この書状の通り相違ない。天文八(1538)年 六月一日
(香川)元景 花押西谷藤兵衛尉殿
守護代の香川元景が西谷藤兵衛尉に、本門寺(法華堂)について「泰忠置文」と「御判」と香川和景の折紙を先例にして書下形式で諸役免除を認めることを申し付けています。ここでの「御判」は、京兆家当主の文書を指すようで、香川和景の文書と、晴元以前の当主の文書が並べられます。京兆家の文書は、守護代家の当主発給文書と並列される先例で、ここでも讃岐在地の香川元景は、細川晴元の意志や命令に拠らずに、西谷氏に命令していると研究者は評します。
この2つの史料からは、東讃岐守護代家安富氏、西讃岐守護代家香川氏が京兆家当主の晴元からの上意下達によらず、自身の判断によって政治的な判断を下していることが分かります。それでは、晴元の威光が届かなくなっていたのかと思いますが、そうではないようです。
晴元が讃岐の在地支配に関与している例を見ておきましょう。
晴元が讃岐の在地支配に関与している例を見ておきましょう。
【史料3】飯尾元運奉書「秋山家文書」讃岐国西方三野郡水田分事、如元被返付記、早可致全領知之由候也、乃執達如件、大永七 十月七日 (飯尾)元運(花押)秋山幸久丸殿
「史料4」飯尾元運・徳阿連署状「覚城院文書」当院棟別事、令免許申上者、更不可有別儀候、恐々謹言、甲辰十二月廿日 (飯尾)元連(花押)徳阿(花押)覚城院御同宿中
発給者の一人飯尾元連は、細川晴元の奉行人です。【史料4】は千支から年次から天文13(1544)年であることが分かります。讃岐仁尾の覚城院に対し、晴元の奉行人が棟別銭の免除を行っています。ここからは大永年間には晴元の奉行人が讃岐の行政を担っていたことが分かります。以上から、細川晴元の讃岐支配には、次の2つのチャンネルがあったことを押さえておきます。
①守護代の安富・香川氏よる支配②畿内の奉行人による京兆家当主の支配
次に細川晴元が讃岐国人を、どのように軍事編成して畿内に送り込んでいたかを見ていくことにします。
【史料5】細川晴元感状写「三代物語」去年十二月六日至三谷弥五郎要害大麻(多度郡)、香西甚五郎取懸合戦時、父五郎四郎討死尤神妙也、謹言、三月七日 六郎(晴元)花押小比賀桃千代殿
意訳変換しておくと
昨年12月6日に、大麻(多度郡)の三谷弥五郎との合戦の際に、香西甚五郎とともに奮戦した、(小比賀桃千代の)父・五郎四郎が討死したことは神妙である、謹言、三月七日 六郎(晴元)花押小比賀桃千代殿
年紀がありませんが晴元が実名でなく幼名の六郎で花押を据えているので、発給年次は1531年から34年のことと研究者は判断します。宛所は讃岐国人の小比賀氏です。香西甚五郎とともに讃岐国多度郡大麻にある三谷氏を攻撃した際に、父が名誉の戦死をしたことへの感状です。ここからは次のようなことが分かります。
①1530年代に、多度郡大麻には三谷弥五郎が拠点を構え、細川晴元に反抗していたこと
②讚岐国人の小比賀氏と香西氏は、晴元に従軍していたこと
【史料6】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言八月廿八日 晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく。謹言八月廿八日 (細川)晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪います。これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して忠節を尽くすよう求めています。ここからは讃岐で軍事的行動の命令を発するのは晴元であり、それを東讃守護代安富家が指揮していることが分かります。
細川晴元は、讃岐の兵を畿内にどのように輸送していたのでしょうか
【史料7】細川晴元書状写「南海通記」第七出張之事、諸国相調候間、為先勢明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候、猶香川可申候也、謹言、七月四日 晴元判西方関亭中
意訳変換しておくと
「京への出張(上洛戦)について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務める(海上輸送)ことが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で
日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
この史料は「両細川家の争い」の時に晴元が命じた畿内への動員について、香西成資が『南海通記巻七』の中で説明した文章です。宛先は「西方関亭中」とありますが、これが多度津白方の海賊(海の水軍)山地氏のことで、その意味を補足すると次のようになります。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」
つまりこの書状は細川晴元から山地氏への配船依頼状と研究者は考えています。晴元は西讃岐の軍勢を山路氏の船団で畿内に輸送していたことが分かります。西讃守護代(香川氏)とも協議した上での命令であるとしています。海賊衆を動員する際には、香川氏がこれを取り次いでいたことがうかがえます。ここからは、京兆家 → 東西の守護代家 → 讃岐国人という指令回路で軍事動員が行われていたことが裏付けられます。
「琴平町史 史料編」の「石井家由緒書」のなかに、次のような文書の写しがあります。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。武部因幡守 重満(花押)永禄四年六月一日石井昆沙右殿
意訳変換しておくと
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように
差出人は花押のある「武部因幡守重満」で、宛先は石井昆沙右です。
差出人の武部因幡守は阿波細川氏の家臣で、主君の命令を西讃の武士たちに伝える奉行人でした。
享禄4年(1532)は、細川晴元と三好元長が細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年になります。石井昆沙右らは細川晴元の命に従い、西讃から出陣し、その恩賞として所領を宛行われたことが分かります。石井氏は、永正・大永のころ小松荘松尾寺で行われていた法華八講の法会の頭人をつ勤めていたことが「金毘羅大権現神事奉物惣帳」から分かります。そして、江戸時代になってからは五条村(現琴平町五条)の庄屋になっています。戦国時代の石井氏は、村落共同体を代表する土豪的存在であって、地侍とよばれた階層の武士であったようです。
以上の史料をつなぎ合わせると、次のような事が見えてきます。
①石井氏は小松荘(現琴平町)の地侍とよばれた階層の武士であった
②石井氏は細川晴元に従軍して、その恩賞として名田を扶持されている。
これを細川晴元の立場から見ると、丸亀平野の地侍級の武士を軍事力として組織し、畿内での戦いに動員しているということになります。そして、戦功を挙げた者には恩賞を与えています。
1546(天文15)年に、対立する細川氏綱が攻勢をかけて苦境に陥ると、晴元はまたもや四国勢を動員します。
8月に十河一存が讃岐国人を率いて畿内に渡海したと「細川両家記」にはあります。しかし、讃岐の軍事動員は東西守護代家が行っていたことは先に見たとおりです。十河一存に軍事指揮権はありません。また、この時期の一存は十河氏の当主の地位すら覚束ない状態です。讃岐国人を率いていたいうのは、一存への過大評価であると研究者は指摘します。これに対して、阿波勢の畿内渡海は10月に細川氏之が指揮権を握って出陣しています。ここからも讃岐と阿波では、軍事指揮系統が異なっていたことが裏付けられます。2つの指揮系統があったのです。
1547(天文16)年2月以降、翌年4月に終戦し帰国するまで、讃岐・阿波勢は一括して「四国衆」と呼ばれています。
この間は、讃岐衆の香西五郎左衛門と阿波の細川氏之や三好実休は行動を共にしてます。7月の舎利寺の戦いでは、阿波では篠原盛家、淡路では安宅佐渡守、伊予では藤田山城が戦死しています。ここからは、阿波・讃岐・淡路・伊予の細川氏勢力圏の国人たちが「四国衆」として共に軍事行動することはあったことが裏付けられます。しかし、阿波勢を率いるのは細川氏之で、氏之が讃岐勢を指揮したこと史料からは確認できません。この時点でも阿波と讃岐の軍事的連携は強まっていましたが、指揮権は未だ統合されていなかったことを押さえておきます。
以上から次のようにまとめておきます。
①16世紀中頃になっても讃岐は行政・軍事両面ともに京兆家の管轄下にあったこと
②その一方で、「四国衆」のように軍事的に阿波と讃岐を一括視する見方も現れたこと
細川晴元政権の後半になると讃州家(阿波守護)も讃岐に影響力を持つようになること。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配 四国中世史研究17号(2023年)
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