好天の日が続いたので「山のてっぺんで私も考えたシリーズ」の再開です。今回は阿波の高越山の頂上に立って、いろいろと考えるという魂胆です。阿讃山脈を三頭トンネルを越えて原付バイクでちんたらとやってきたは、山川町前川の川田八幡神社です。

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                    川田八幡神社(山川町)
このあたりは高越山から伸びてきた尾根が川田川に消えていくあたりになります。中世の河輪田庄(河田庄:江戸時代の川田村)と高越寺庄にあたります。庄域はよく分からないようでが、中世後期には和泉上守護細川氏の所領となっていて、上守護家の拠点であった泉屋形とされる井上城跡もあります。高越山の山の上のお寺にお参りする前に、里に残る高越山の修験者たちの痕跡を探そうとやってきました。

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まずは川田八幡神社に参拝し、「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。
この神社は、高越山から伸びてきた尾根の上にあり、50段の石段を登ります。

川田八幡神社本殿3 山川町
川田八幡神社本殿
川田八幡神社(高越庄八幡宮)は、高越寺荘の鎮守として、歴代の領主に厚く保護されてきた神社です。その社殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式(『山川町史』)とされます。また、現存する最古の棟札に「右大将軍頼朝公御一門繁栄子孫豊楽」と記されています。これらを合わせて考えると、関東御領である高越寺荘の鎮守として「大檀那小笠原弥太郎長経」が鶴岡八幡宮を勧請した神社とする説もあります。少し長くなりますが調査報告書を引用しておきます。

本殿は、三間社流造銅板葺きで、花崗岩の基き壇に建ち、身舎部分は亀腹と地覆延石を回す。円柱(上粽)を地覆長押、切目長押、内法長押で固め、柱頭部は頭貫木鼻(拳)と台輪木鼻が載る。組物は平三斗とし、彩色された中備彫刻を填める。軒は二軒繁垂木とする。妻飾は虹梁の上に笈形付の太瓶束を立て、太瓶束中央部に彩色された鳳凰の彫刻で飾り、その様式から後補されたものと考えられる。内部は、仏教の影響を受け二室に区切られている。奥は一段上げて床を張り、板戸を填める。手前の天井を格天井で仕上げる。

 向拝は、角柱を虹梁形頭貫で固め、獅子の木鼻が付く。身舎と繋海老虹梁で繋ぎ、柱頭部の組物は出三斗とする。柱間には中備彫刻を填める。虹梁形頭貫と繋海老虹梁の絵様の彫りは浅く、形状は簡素であり、下面には錫杖彫を施し、神仏習合の名残が見られる。軒は二軒繁垂木である。縁は四方切目縁とし、擬宝珠高欄を回す。腰は束つか立貫を通す。階は木口階段5級で浜床を張り、随神像を安置する。

山川町川田八幡神社本道
川田八幡神社本殿の平面図

川田八幡神社本殿2 山川町

棟札は9枚残されていて、最も古いものが「建久8年(1197)上棟」の鎌倉時代初期のものです。しかし、元和3年(1617)以前の5枚は、筆跡がよく似ており、元和3年に書き写された可能性があると研究者は指摘します。つまり、この棟札をそのまま信じることは出来ないようです。
本堂の建築年代については、虹梁の絵様や錫杖彫、棟札の再興の記述から、享保16年(1731)とします。これ以後の棟札には、上葺、葺替上棟とあるので、屋根の修理がそれ以後に数度行われていることが分かります。幾度かの改修を経ながら地域の人達が400年以上、守り継いできた建物になります。しかし、この神社からは忌部氏の痕跡は窺えません。
 中世の修験者は、天狗になるために修行していたことは以前にお話ししました。

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金毘羅大権現と天狗達(別当金光院発行)

それは讃岐の金毘羅大権現や白峰寺の天狗達と同じです。修験者の山は、天狗の住む山でもあり、そこにはいろいろな天狗伝説が生まれます。ここでも高越山の行場を渡り歩く修験者が数多くいて、中腹の中ノ郷や麓の川田に拠点を設けていました。彼らの経済基盤は、お札の配布や、先達としての高越山参拝にありました。その拠点が、弘田八幡神社周辺と云うことになります。それでは、高越山信仰の痕跡を探して、弘田の里を歩いて見ます。

 弘田八幡神社の参道の鳥居の横に、立派な花崗岩の門柱が建っています。

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       高越山登山道の入口門柱(弘田八幡神社) 側面に「高越山」とある
寄進文から明治38(1905)年7月に北海道の山田正太郎氏が寄進したものであることが分かります。ここには側面に「高越山」と掘られています。ここが高越山への入口起点になるようです。

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               高越山登山道の入口門柱(弘田八幡神社)
ここからは高越山へのスタートは、弘田八幡神社であると当時の人達は認識していたことがうかがえます。ここから伸びる道を進んでいくと、分岐点に「光明真言百万遍」と刻まれた庚申信仰の版碑が建っています。
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             「光明真言百万遍」と刻まれた庚申信仰の版碑
この地域でも幕末から明治にかけて庚申信仰が、盛んに信仰されていたことがうかがえます。ちなみに、庚申信仰へ人々を組織したのも修験者(山伏)であったことは以前にお話ししました。庚申碑を見ていると、田んぼの向こうにも板碑が見えます。さっそく行って見ます。こんな時に原付バイクは便利です。

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大坊の板碑
説明文を読んでおきます。
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「14世紀後半のもので、「追善供養」のために作られたもので「これだけの板碑は、天下広しといえどもないと言われるほどの名品」と書かれています。14世紀後半には、追善供養を行う僧侶(修験者集団)がいたことになります。刈り取りの終わった田んぼの彼岸花を眺めながら棚田の中の道を進んでいくと、鳥居が坂の上に見えてきました。
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高越山への鳥居
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                    高越山への鳥居
鳥居に下を谷から取水した用水路が等高線に沿って流れていきます。この用水路によって、棚田に水が引き込まれています。用水路の完成と棚田開発はリンクしていたはずです。それを担ったのが向こうに大きな屋根が見える明王院のような気がしてきます。後で明王院には立ち寄ることにして、この鳥居をくぐって登っていきます。
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高越山登山口(山川町)の鳥居から
ふりかえると鳥居の向こうには、こんな光景が広がっていました。弘田の里、そしてはるかに吉野川や北岸が見てきます。そして、ここが観音堂になります。

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高越寺(里の観音堂)
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観音堂の弘法大師像と不動明王像
観音堂にお参りして、中をのぞかせて貰うと右に弘法大師像、左に不動明王が祀られています。中央にある閉じられた厨子の中に、本尊の観音さまがいらっしゃるのでしょう。ここからは、これらをもたらした次のような修験者・聖達の痕跡がうかがえます。
観音菩薩  → 補陀洛観音信  → 熊野信仰の熊野行者
弘法大師像 → 弘法大師信仰  → 高野聖
不動明王  → 修験者の守護神 → 役行者と蔵王権現信仰

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高越山への登山口の観音堂の黒松

道の向こう側に新しく植樹された黒松の下に小さな碑が置かれています。そこには次のように記されています。
高越寺コク屋の観音堂は表参道の出発点、昔から多くの先達や一般信者が信仰の祈りを持ち、厳しい山道を遠路徒歩で往来していた。観音堂の前には、先達や信者を迎えに飛来した高越寺の御天狗様等が羽を休めたと伝わる黒松(樹齢約千年)があり、観音堂より山頂へ、帰路へと見守り道案内したと伝わる。

要点をまとめておくと
①観音堂の前の道が高越寺への表参道であった。
②参拝者や先達を迎えに、高越山から天狗が下りてきて、見守り道案内をした。
この松は高越山から飛んできた天狗達が羽根をやすめた所だったというのです。天狗信仰が語り伝えられています。こんな話に出会うとホクホクしてきます。

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             金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

 権現と天狗達の関係を考えていると、「どちらからですか?」と奥さんから声をかけられました。
お話しをしていると、ここが高越寺の住職の里の住居であることが分かりました。確かに、グーグルマップで「高越山高越寺」を検索すると、ここが出てきます。奥さんの話によると、いろいろな祭礼や行事が、ここでも行われていたようです。例えば観音堂から少し上がった丘では、奉納相撲が行われていて、阿波だけでなく、淡路や讃岐からの参拝者も多かったと云います。また、集団参拝の信者達は先達に率いられて、中ノ郷や山頂などでの行場巡りをしながら「修行」し、2、3泊して下りてきたとも云います。ただ、山頂に登って参拝するだけでなく、行場での修行も行われていたようです。それは、剣山の集団参拝と同じです。ここでは観音院が高越寺の里寺であり、高越山への参拝のスタート地点となっていたことを押さえておきます。そうだとすれば、木屋平の龍光寺と同じように、やってくる信者たちの世話をする宿坊なども里にはあったことが考えられます。
 さて、もうひとつ気になる寺院があります。下の鳥居の向こうに見えた明王院です。

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明王院(山川町川田)四国三十六不動霊場第9番の札所
  この寺の本尊は不動明王で「川田不動」とも呼ばれ、四国三十六不動霊場第9番の札所になっています。修験者の守護神・不動明王を本尊としていることを押さえておきます。縁起には、次のように記されています。
「空海が四国巡錫の折、高越山に立ち寄り開基。1571年(天正2年)要全大徳師を中興の祖とし伽藍を整備し、大聖不動明王法を修して不動明王と毘沙門天を勧請」

とします。 阿波郡村誌には「天正2年(1574)2月に、第1世住職要仙が創立」とあります。戦国時代に、不動明王や毘沙門天を勧進して、新たに創建された寺院のようです。

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                明王院(山川町川田)
明王院は井上城の城主であった土肥氏が菩提樹として建立し、保護した寺院のようです。
井上城跡2
井上城跡

この寺の近くに井上城がありました。そこには今は、「土肥右衛門尉源昌秀」と「土肥紀伊守源朝臣庸吉」の墓が建っています。説明版を見ておきます。

井上城跡
井上城跡説明版(山川町井上)

ここには次のようなことが記されています。
①ここに初めて城を築いたのは細川常有で1451年のことで、川田城と称した。
②その後、永禄年間に土肥氏が城主となり井上城と改めた。
③高越山を背負って、この城の下に城下町が形成されていた。

細川元常の時に土肥綱真が功績によりこの地に移ってきて、16世紀半ばの戦国時代に城主になったようです。「阿波志資料書」には次のように記します。

「土肥因幡守源綱真初与七と称し、父秀行と共に讃岐国神崎城に居住し、後の天文年間中川田井上城に移居した云々。」

 ここからも土肥氏が天文年間(1532~1555年)に、讃岐神崎城から川田井上城に移ってきて新たな城主となったことが記されています。土肥氏の知行についてはよく分かりませんが、川田・川田山・拝村などを所領として、相当な勢力があったと研究者は考えています。また金山小路、小川小路などの名が残っているので、城下町形成が行われていた痕跡もあります。
 先ほど見たように明王院は、「天正2年(1574)2月に、第1世住職要仙が創立」とありました。
要仙も高越山で修行を積んだ修験者であったのでしょう。その要仙を土居氏が保護し、菩提樹として、不動明王や毘沙門天を勧進して、新たに創建したのが明王院と私は考えています。しかし、時は戦国時代、土佐の長宗我部元親の阿波侵攻で、時代は大きく動きます。綱真には房実、康信、秀実の三子がありましたが、新右衛門秀実は、天正7年(1579)脇城で長曽我部軍と戦い戦死します。そして3年後には長曽我部元親が阿波を統一して、井上城も落城します。しかし、明王院は長宗我部元親の保護を受けて存続します。ここまでで押さえておきたいのは、この周辺に忌部氏の痕跡はないと云うことです。

   今度は。高越山を史料で押さえておきます。南北朝時代のもので、高越寺の霊場化がうかがえる3つの史料があります。
1つ目は、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が出てきます。天台系密教の教線が高越山におよんでいたことがうかがえます。
2つ目は経塚です。12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。秦氏がこの周辺にいたことがうかがえます。
3つ目は、最初に見た「大坊の板碑」です。これは14世紀後半のもので「追善供養」のために作られたものでした。
以上からは12世紀頃には高越山が修験者によって霊場化していたこと、そして祖先供養なども行っていたことがうかがえます。

次に古い史料は「川田良蔵院文書」の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」(1364(貞治三年)です。「檀那を譲り渡す(名簿売買)」という熊野檀那株の売買契約書で、当時の修験者たちがよくおこなっていたことです。川田良蔵院というのは、高越寺の子院のひとつだったようです。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓・川田には何人もの修験者がいたこと。
②高越山の里の修験者は、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していた「熊野行者」がいたこと
③高越山周辺は、熊野行者以外にも修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたこと
次に細川常有の「若王子再興棟札」(寛正3年(1462)の写し(寛政2年(1790)を見ておきましょう。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が高越山に鎮座していたことが分かります。熊野信仰も引き続いて信仰されて、熊野詣での拠点だったようです。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたことになります。
この文書には「下の房」が出てきます。下之坊のある「河田(川田)」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)と研究者は考えています。天明8年(1788)の地誌『川田邑名跡志』には次のように記されています。

下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」

意訳変換しておくと
「下之坊とは地名である。嘉暦・永和の頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、近国の修験者たちが当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の拠点住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」

これは後世の記録ですが、次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと
②その際に、下之坊の修験者たちが高越山で先達を務めたこと
また「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の際には退去したが、その後近世になって良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。ここには川田の里は、山伏寺がいくつもあって高越山信仰の拠点となっていたことを押さえておきます。 
 高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、当時の住職宥尊によるもので、山内の宗教施設を次のように記します。
「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
「若一王子宮」         → 熊野信仰
「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰 → 虚空蔵求聞持信仰  
②山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
③山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界
④山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
ここからは戦国時代の戦乱期を経て、17世紀になっても高越寺は引き続いて修験者による山岳信仰の霊場であったことが分かります。さらに、麓は「一江」と呼ばれていたこと、そこには「虚空蔵権現宮と鳥居」があったことを押さえておきます。「虚空蔵権現宮と鳥居」がどこにあったかは、今の私には分かりません。川田八幡神社としたいのですが、それを裏付ける史料がありません。以上を見る限り、従来言われていた「高越山=忌部修験の拠点」という説を裏付けるものは何もありません。
 高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳3年(1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応4年(1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」と出てきます。ここからは高越寺には、別当が置かれていたことが分かります。しかし、詳しいことは分かりません。
 時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧
②山伏=行を専らにする者
③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
 確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。

以上、川田の里を徘徊して考えたことをまとめておきます。
①高越山は古くからの霊山で、山林修行者が行場として活動していた。
②12世紀頃には山上にいくつも宗教施設が姿を現し、修験者の活動拠点となった。
③14世紀になると、麓の川田庄には熊野先達を行う熊野行者などの修験者が住み着くようになった
④修験者・聖達は、高越山のお札配布や祖先供養なども行い高野山巡礼の先達も務めた。
⑤また戦乱で吉野山巡礼ができなくなると、近国の修験者が高越山で修行を行うようになり、その先達を務めるようにもなった。
⑥こうして、川田には修験者の拠点(山伏寺)がいくつも現れるようになった。
⑦戦国時代には土肥氏が井上城の城主としてやってきて、修験者を保護し明王院を菩提寺として建立した。
⑧長宗我部元親の侵攻で土肥氏は去ったが、明王院は保護を受け存続した。
⑨高越山の宗教施設は、近世になっても存続し、多くの信者の信仰を集め、川田は登山入口として栄えた。
⑩明治の神仏分離も、大権現信仰は大きな影響を受けることなく存続した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店
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