「高越山徘徊NO3」は、中腹の中ノ郷を訪ねてみます。まず、中ノ郷の予習をしておきます。
①中世の山岳霊場では、里と山上を結ぶ中間地点に「中宮」が置かれ「聖俗の結界」とされる。②「中江(中の郷)は、高越寺表参道の登山口である川田と山上のほぼ中間地点に位置する。③そのため中ノ郷も、聖(山上)と俗(里)の境に置かれた「中宮」だった④中ノ郷には、貞治二年(1364)、応永六年(1399)、永享3年(1431)の板碑が残る⑤ここからは、中世には修験者たちによって聖域化されていたことが分かる。⑥別の見方をすると、14~15世紀には、山麓と山が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったと言える⑦近世以降に姿を見せるのが、中善寺である。
このくらいの予備知識を持って、原付バイクで県道248号線を駆け上がっていきます。川沿いに走って行くと、徒歩で尾根沿いの鉄塔線沿いのぼっていく登山口があり、続いて車道の分岐が現れました。
高度を上げると楠根地集落の家々とススキがおいでおいでしながら迎えてくれます。楠根地の氏神様は白人神社でした。白人神社は、鉱山開発集団だった秦氏一族の信仰する神々を祀る神社のひとつです。
南伊予の鉱山跡に鎮座する神社と秦氏の相関関係図
同時に、高越山周辺には銅鉱山が開かれ、秦氏がその開発に関わっていた可能性があることは前回お話ししました。ここに白人(白山)神社があるのは、その説を補強するものかもしれません。
楠根地集落からの吉野川方面 鉄塔沿いに登山路が中ノ郷へ伸びている
15年近く乗っている原付バイクは、スロットルを一杯に廻しても15㎞以上のスピードはでません。喘ぎながら登っていく相棒にいたわりの気持ちも感じられる年頃に私もなりました。尾根を越えて中ノ郷への下りになるとダートになります。そして、道路の右側に石碑が出てきました。
中世の修験者たちは天狗になるために修行していましたが、天狗の住む天界や地界への入口と考えていたのが次のような場所です。県道258号から中ノ郷への分岐点
ここから尾根沿いのつづら折れの長い坂道(約11㎞)を登っていきます。高度を上げると楠根地集落の家々とススキがおいでおいでしながら迎えてくれます。楠根地の氏神様は白人神社でした。白人神社は、鉱山開発集団だった秦氏一族の信仰する神々を祀る神社のひとつです。
南伊予の鉱山跡に鎮座する神社と秦氏の相関関係図
同時に、高越山周辺には銅鉱山が開かれ、秦氏がその開発に関わっていた可能性があることは前回お話ししました。ここに白人(白山)神社があるのは、その説を補強するものかもしれません。
楠根地集落からの吉野川方面 鉄塔沿いに登山路が中ノ郷へ伸びている
15年近く乗っている原付バイクは、スロットルを一杯に廻しても15㎞以上のスピードはでません。喘ぎながら登っていく相棒にいたわりの気持ちも感じられる年頃に私もなりました。尾根を越えて中ノ郷への下りになるとダートになります。そして、道路の右側に石碑が出てきました。
このような場所を求めて、高越山周辺をさまよい歩き、相応しい場所を行場として開いて行きます。人気のある行場には、各地から修験者たちが訪れ、お堂や小さな寺院が姿を見せるようになります。この覗岩は上表だと④になるのでしょうか。そして、ここには開けた場所と水場が確保できます。そして、里と山上の中間地点である「中宮」としてふさわしい場所です。中ノ郷が「聖俗の結界」とされた背景を、この岩の上に座ってこんな風に考えていました。
覗岩からほんの少しでふいご温泉からの登山道と合流し、さらにいくと川田からの表参道と合流します。ここに高越山をバックにして鳥居が建っています。 高越山中ノ郷の鳥居(標高555m)
この鳥居が今は「聖俗の結界」になるのかもしれません。鳥居の横には萬代池が水をたたえています。
高越山中ノ郷の萬代池
そして谷からの霊水が引き込まれています。この池で参拝者はコリトリ(禊ぎ)を行ったのかもしれません。ここにもいくつかの子房があり、参拝者達の宿坊の機能を果たしていたことが考えられます。
池の周辺を散策していると、こんな看板を見つけました。アカガシの巨木があるようです。行って見ます。
覗岩からほんの少しでふいご温泉からの登山道と合流し、さらにいくと川田からの表参道と合流します。ここに高越山をバックにして鳥居が建っています。 高越山中ノ郷の鳥居(標高555m)
この鳥居が今は「聖俗の結界」になるのかもしれません。鳥居の横には萬代池が水をたたえています。
高越山中ノ郷の萬代池
そして谷からの霊水が引き込まれています。この池で参拝者はコリトリ(禊ぎ)を行ったのかもしれません。ここにもいくつかの子房があり、参拝者達の宿坊の機能を果たしていたことが考えられます。
池の周辺を散策していると、こんな看板を見つけました。アカガシの巨木があるようです。行って見ます。
高越山中ノ郷のアカガシ
森の主のように枝を伸ばしています。まさに神が宿る神木に相応しい姿です。前には立石が、根元には板碑が置かれています。異界への入口のひとつが巨木や大きな石であったことは、先ほど見たとおりです。人々の信仰を集めてきたのでしょう。根元を見ると・・・中ノ郷のアカガシの根元の板碑
そこには板碑が2枚置かれてきました。いつかは木の幹に包まれていくのかも知れません。このアカガシの周辺からは5基の板碑が出てきています。それを見ておきましょう。中善寺の板碑(アカガシ周辺)
これらの板碑の概評を調査報告書から引用しておきます。3-1:
長さ95.0cm,幅35.2cm,厚さ5.6cmを測る五輪塔線刻・五大種子板碑である。「為登大徳哲進仏 果 永享三庚戌十月二日」の銘文が認められるが,碑面に対して大きな文字で彫られており,板碑がつくられた当初のものとは考えにくい。なお,永享三年は西暦1431年である。
3-2:長さ60.0cm,幅26.0cm,厚さ3.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。三尊といっても,キリークが大きく彫られ,アンバランスである。
3-3:長さ51.0cm,幅26.5cm,厚さ5.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑で,「為観阿 應永十六年十一月」の銘文をもつ。下半部が欠落しており,銘文も途中までしかない。應永十六年は1409年である。
3-4:
長さ31.7cm,幅26.8cm,厚さ2.5cmを測る大日種子板碑である。バンの梵字が彫られた山川町唯一の板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑であるが,下半部を欠く。
3-5:
長さ47.5cm,幅17.5cm,厚さ3.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑である
この5つの板碑の特徴として研究者は次のような点を指摘します。
①中禅寺の標高570mという高地の神木の廻りに5基まとまってあること。
②この中に大日種子(バン)が見られること。
①中禅寺の標高570mという高地の神木の廻りに5基まとまってあること。
②この中に大日種子(バン)が見られること。
大日種子(バン)
阿波型板碑のなかで、大日種子が刻まれているのは全体の約2割程度と少数派です。中禅(善)寺の板碑周辺には、穴吹町の拝村戸白人神社や仕出原尾下氏ミカン畑のなかにバンの種子板碑があるようです。中禅寺の紀年銘板碑と、時期的に近いものを挙げると次の通りです。
神山町阿川字松尾の1390年阿川字宮分の1411年土成町高尾の1400年上板町聖天堂裏の1398年
大日如来は真言の根本仏です。そういう意味では、大日種子(バン)は真言宗との深い関連を示す種子です。それが高越山周辺や、その中宮とされる中ノ郷にあることについて研究者は次のように記します。
この寺への登山道に造立された板碑群は、高越寺へ入り込んだ真言教団との関連を抜きにしては考えられない。
「真言教団」と記しますが、中世の修験者たちは真言や天台という宗派はあまり気にしていなかったようです。修験者にとっては大切なのは実践・行道なのです。しかし、高野山や醍醐寺系の修験者たちが入り込み、彼らによって弘法大師伝説などが持ち込まれたことは考えられます。
最後になりました中善寺にお参りします。
高越山中ノ郷中善寺
建物前に建って感じたことは、すべてが近代風で古いものがなにもありません。戦後になって新しくできたお寺のような風情です。帰って調べて見ると、四国電力の電柱立て替えでそれまでの中禅寺がなくなり、現在地に「中前寺」として新築されたもののようです。その廻りには桜が植えられていて、花見の季節にはいい所だろうと思いました。①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
②からは中ノ郷について、つぎのようなことが分かります。
A「中江」と呼ばれていたことB 地蔵権現社が鎮座していたことC「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと
中ノ郷の萬代池と手洗い
今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献
吉野川市山川町の板碑 阿波学会紀要 第58号(pp.131-144) 2012.7 131
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