高越山周辺の寺社や行場などを見てきました。今回は麓の旧川田村にあった中世荘園を見ていくことにします。麻植郡の荘園を旧町村別に示したのが次表1です。

阿波麻植群荘園一覧表
ここからは高越山の麓の山川町に次の4つの荘園があったことが分かります。
①高越寺荘
②河輪田荘
③河田荘
④忌部荘
従来は①②③は、同一の荘園とされてきました。それは、約90年前の戦前に出版された本に、次のように記されたからです。
高越寺荘と河輪田荘

ここでは、その名前から「河輪田(かわた)荘 = 高越寺荘(河田荘)」と断定しています。権威ある書籍にこう書かれると、検討されることなく定説化されてきたようです。しかし、21世紀になって、これに異議を唱える説も出てきています。今回は高越寺荘と河輪田荘は別物であるという説を見ていきたいと思います。テキストは「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」です。
まず、最初に登場してくる高越寺荘を見ていくことにします。
高越寺荘の成立時期については、山永仁元年(1292)8月日「高越荘八幡宮御供頭置文案」(「永仁史料」)に「本庄」・「新庄」と記されています。ここからは遅くとも13世紀末には、高越寺本荘・新荘が成立していたことが分かりますが、それ以上詳しいことは分かりません。史料的には『山塊記』応保元年(1161)8月に「尊勝寺末寺阿波国高越寺」とあるのが初見になるようです。

 尊勝寺 平安京郊外の白河殿に付属した堀河天皇の御願寺。六勝寺の一つ。
現在のロームシアター京都(京都会館)の周辺
この時の領家兼子は、前阿波守説方の妻です。夫の説方は12世紀中頃に阿波守在任だった藤原頼佐(説方と改名)のことです。ここから高越寺が尊勝寺の末寺にされた時期と契機について、研究者は次の2説を考えています。
①頼佐が阿波守の時に、高越寺を尊勝寺末寺にした
②頼佐の先祖に藤原為房の時に、高越寺を尊勝寺末寺にした
②の藤原為房は、院の側近として絶大な権力を持っていた中央権力者です。彼は寛治6年(1092)に阿波権守として阿波に配流され、その後に復権を果たします。その為房が御願寺尊勝寺の創建に深く関わって、阿波配流時の機縁によって高越寺を尊勝寺末寺とした筋書きも考えられます。どちらにしても、12世紀半ば頃には、次のような荘園支配システムがあったことになります。
尊勝寺を本家
仲介した藤原為房が領家
高越寺(僧侶)が現地管理者
そして高越寺荘の領有は、次のように推移します
①尊勝寺から平氏へ
②平氏滅亡後は、鎌倉幕府の没収領となって、関東御領に編入
③その後、源頼朝の妹である一条能保の妻
④その娘の西園寺公経妻全子、
⑤その娘九条道家妻倫子から九条道家へと渡り、
⑥道家から九条忠家へと伝領
以上のように高越寺荘は、鎌倉幕府が平家からの没収後に関東御領としたために、承久の乱以前に地頭が置かれた所になります。最初に地頭職が与えられたのは、源頼朝の側近であった中原親能ですが、建久8年(1198)までに小笠原氏に移ります。小笠原氏は承久の乱後に、それまでの守護佐々木氏に代わって阿波国守護となっていますので、そのときに高越寺荘の地頭職も得たようです。こうして、高越寺荘周辺は、鎌倉幕府の阿波支配の要地となっていきます、
 南北朝期になると、細川氏が阿波国に侵攻してきます。
細川氏の阿波侵攻当初の攻撃目標のひとつが麻植郡だったようです。早い段階で高越寺荘周辺は、細川氏に攻略されています。その背景には、麻植郡が鎌倉幕府の関東御領に準ずる土地であったこと、そして当面の敵であった守護小笠原氏の軍事的・経済的基盤であった守護領であったためと研究者は考えています。その後、南北朝末期になって細川氏が分立化するようになるとと、守護領が分割され、阿波は和泉細川氏の家祖となる頼有の所領となります。それが確認できる史料を見ておきましょう。

細川頼有【今上天皇の直系祖先】 | 歴史ディレクトリ
                      細川頼有
細川頼有から頼長(松法師)への所領譲状です。
【史料1】
ゆつり(譲り)状しょしょ(諸処)のしようりやう(所領)の事
一 ぁハ(阿波)あきつき(秋月)の三ふん一ほんりやう(本領)
一 ぁハはんさいのしものしやうのちとうしき(地頭職)おかのかあと
一 ぁハおえのしやう(麻植荘)のりやうけしき(領家職)内 中分平氏両所これハゆいしょあり
一 ぁハ①かうおち(河内)の御しよう(荘)
一 ぁハこうさとの一ふんのちとうしき よこたのひこ六郎あと
一 ぁハはんさいのかみのしやうの内ふちをか
一 ぁハたねのやま(種子山)こくかしき
(讃岐・伊予の所領略)
これハ頼有ちきやうのしよりやうなり、しかるをしそく松ほうし(法師)にことごとく、とらせ候うヘハ、又よのこともいらんわつらいあるましく候、もしさやうのものあらハ、ふけうの人たるへく候、たたしまつほうしか事ハ、大とのへまいらせ候うヘハ、御はからいたるへく候、又そのみのふるまいによるへく候、後日のためにしたゝめおく状くたんのことし、
かきやうくわんねん十一月廿六日    頼有(花押)
①の「かうおちの御しょう」は、「高落御庄」と同じなので「高越御庄」のことと研究者は考えています。この史料に加え、永仁史料には「高落(越)御庄」「高越庄」と、高越寺に荘号が付けられています。高越庄は建長2年(1250)に九条道家から九条忠家に譲渡されたのを最後に、九条家領としては史料から消えています。藤原氏以来の大貴族の荘園経営が解体し、武士達の時代がやってきたようです。高越寺荘は、細川頼有から所領を譲られた頼長(松法師)以後は、和泉細川氏の所領の一つとして伝領されます。それは戦国時代になって細川氏が衰退して、又代官出身の上肥氏が支配するまで続きます。

川田八幡神社本殿3 山川町
川田八幡神社(旧高越荘八幡宮) 本殿は山川町で一番古い建築物
山川町川田八幡神社本道
川田八幡神社本殿平面図 本殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式

川田八幡神社は、永仁史料には「高越庄八幡宮」と記されています。

その宮座関係史料である永仁史料には、次のような名前が出てきます。

「徳光・末光・守延・光国・正宗・利弘・時武・石国・依国・行安・時宗・宗安・為吉・宗友・友守・久友・助友・成行・貞友・助安」

これらの名前は「名」の名称と研究者は考えています。そうだとすると、高越寺荘は多くの名によって構成されていたことになります。また永仁史料は、本荘と新荘の別があったものの、重要な行事である八幡宮の祭礼については合同で行っていたようです。川田八幡神社(高越庄八幡宮)は、荘園の鎮守として、歴代の領主に厚く保護されてきた神社ということになります。その社殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式(『山川町史』)とされます。また、現存する最古の棟札に「右大将軍頼朝公御一門繁栄子孫豊楽」と記されています。これらを合わせて考えると、関東御領である高越寺荘の鎮守として「大檀那小笠原弥太郎長経」が鶴岡八幡宮を勧請した神社であったとも考えられます。
 最初に見た麻植郡の荘園一覧表には、細川氏の所領として高越寺荘以外にも、麻植荘と種野山があります。
麻植郡全体が細川氏の勢力下にあったと研究者は考えています。これらの所領は和泉細川氏の家領として、阿波守護家が統治に当たっていました。その統治拠点として設置されたのが「和泉屋形(泉館・井上城)」と呼ばれている館で、ここに年貢などは集まられ、運び出されていたことが考えられます。和泉細川氏は麻植郡内の所領支配は代官を派遣して支配していましが、よく麻植郡にやってきたりして、禅宗寺院を創建するなど家領経営には熱心であったようです。ここでは室町幕府の時代の麻植郡は、細川氏の支配下に置かれ、その拠点として井上城があったことを押さえておきます。

井上城跡2
井上城跡
井上城跡
井上城の説明版
高越寺荘に続いて現れるのが河輪田荘です。

これを「かわわた」「かわた」と読み、江戸時代には川田村(後に東西川田村)、川田山と呼ばれていた地域の荘園とされてきたことは、最初に見た通りです。
「河輪田荘=高越寺荘」説
従来の河輪田荘についての説明

河輪田荘の初見史料「史料3」を見ておきましょう。
【史料3】
民部卿家政所下  阿(河?)輪田庄
可早任庁宣打定四至膀示庄領事
使太政官史生紀為忠
右件四至広博、為国衛有訴、又為庄家、動牢籠出来、働任国司庁宣、在庁人相共行向東西南北肝隠、且任本四至、員縮広博之地、庄家井国衛等、共無後日之訴、定四至、打膀示、永注向後之牢籠、可為御領之状、所仰如件、敢不可違失、故下、永久五年十月十二日
(十一名署判略)
意訳変換しておくと
民部卿家政所下の河輪田庄について
速やかに荘園の区画決定のための四至膀示を庄領に建てさせること
使太政官史生紀 為忠
(先に立荘した河輪田荘については)「四至」が広大で、(境界が不明確であったために)、国衛から訴えが起こされた。そこで関係者が出向いて範囲を縮小するなどの調整を図った結果、「庄家」と国衙の争いがなくなった。そこで改めて東西南北の四至を定め、膀示を打ち、荘領を定める、
ここからは河輪田荘は、これ以前に立荘されたものの、その範囲をめぐって国衛との間でトラブルが発生し、改めて協議・調整を行って永久5年(1117)に再度立荘されたことが分かります。河輪田荘の立荘時の本家は、民部卿藤原宗通でした。
その後の河輪田荘の変遷を見ておきましょう。
①治承4年(1180)5月11日「皇嘉門院惣処分状」によって、皇嘉門院から猶子の藤原良通に譲渡。皇嘉門院は藤原宗通の孫で、母宗子は民部卿宗通の娘、摂政藤原忠通の室でした。
②藤原良通が21歳で死去し、その家領等は良通の室に継承
③さらにその後は、良通の父である九条兼実へ継承
④元久元年(1204)、兼実から孫道家へと継承
その後も河輪田荘は九条家領として伝領された後に、応永19年(1412)は光明照院領となっています。光明照院については、二条兼基が光明照院と呼ばれたことから、兼基の墓所として営まれた仏堂・寺院です。つまり二条家の菩提寺です。二条兼基は九条道家の次男二条良実の孫ですから、河輪田荘を祖父・父から受け継いだのでしょう。以上が河輪田荘の本家職の伝領経路になります。
です。
河輪田荘と高越寺荘の伝承比較
              高越寺荘と河輪田荘の伝領比較NO1
河輪田荘と高越寺荘の伝承比較2
             高越寺荘と河輪田荘の伝領比較NO2

ここまで見て気づくことは河輪田荘と先ほど見た高越寺荘とは、その成立経緯も領主もまったく異なることです。また、同じ山川町川田に二つの荘園が同時並立していたことになります。これについては、従来は次のように説明されていました。

河輪田荘と高越寺荘 田中省造説
田中省造説 河輪田荘と高越寺荘の同時並立説 
河輪田荘と高越寺荘 田中省造説イメージ
同時並立説のイメージ
これに対して「河輪田荘=高越寺荘」ではなく、両者は別物と考える研究者が根拠とするのが川田八幡神社(高越庄八幡宮)の永仁史料です。ここには、その宮座の名主42名の席順が記されています。

高越寺荘の名と地名

これと現在に残る地名を比較したのが上表です。赤が地名として残っている名です。名は徴税単位でもあり、人名から地名へと、名主の名前が地名として残ります。高越寺荘の名の約半分が現在に残っていることが分かります。これは、高越寺荘が川田村であったことを裏付ける強力な証拠になります。 一方、河輪田の場合はどうでしょうか?
元弘3年(1333)12月日「河輪田日本荘年貢未進等注文案」には、河輪田本荘内の名として、「久末・久次・光末・友松・末吉・行助・行貞・貞恒・重弘・美作」が挙がっています。しかし、これらの名は現在の山川町川田にはない地名です。

河輪田荘の名と地名

つまり、河輪田荘は川田地区とは関係のない場所にあったということが推測できます。
3つ目の河田荘については見ておきましょう。
河田荘は、応永20年(1413)6月15日「室町幕府御教書」に、「建仁寺永源庵領阿波国河田公文職三分一」として初めて出てきます。先の2つの荘園から300年ほど後になることを押さえておきます。
「河田公文職三分一」は、応永24四年史料に永源庵領の一所として見える「阿波国高越寺御庄公文職三分一」に対応するものです。ここからは「高越寺御庄」と同じ意味で「河田」が使われてていたことが分かります。『永源庵師壇紀年録』の宝徳二年(1450)の記録には、はっきりと「河田荘」と記されています。ここからは高越寺荘と同じ意味で河田荘が用いられたことが裏付けられます。これについては、高越寺荘の荘園管理の中枢機関が「河田」にあったので「河田公文職」呼ばれるようになったと研究者は考えています。それが転じて、高越寺荘が河田荘と呼ばれるようになったと云うのです。
 これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 
河田荘と高越寺荘の同一性

上の明応4(1495)の「細川元有寄進状」には、「河田荘の中にある高越別当職の任命権と参銭(寺院への参拝料)の徴収権を認めています。下の史料も「高越参銭」とあります。ここからも河田荘に高越山はあったこと、そしてかつて高越寺荘と呼んでいたのを、この時期になると「河田荘」と呼ぶようになったことが分かります。

最後に忌部荘を見ておきましょう。
忌部荘は江戸時代の編纂物である『応仁武鑑』に「忌部庄三百町」と見えるのが唯一の記録のようです。古代の麻植部には「忌部郷」があり、それは現在の山川町忌部あたりが比定されてきました。古代の「忌部郷」が荘園があったとされるのですが、そのことを示す史料は今のところありません。「忌部荘という荘園が実在していたのかどうかも含めて不明とせざるを得ない。」と研究者は指摘します。
 沖野氏は忌部荘について、次のように述べています。

「種野山国衛。川島保・高越寺荘及び美馬郡の穴吹荘・八田荘を含んだ広域荘園で、これはもともと忌部神社の社領であったものが、そのまま忌部荘と総称して持賢の私領としたものであるまいか。その理由は次の通り。
美馬郡の穴吹荘・八田荘はこれを麻植領といって、忌部神社の宮司麻植氏の私領として伝領していたことは天文二十一年の三好康長感状に明らか。周辺はすべて皇室領であるから、忌部神社の社領は早くから皇室領に移されていて、忌部神社の宮司の私領のみが美馬郡の穴吹荘・八田荘として伝領せられたと考えられよう。」

「麻植や美馬などを含む広域荘園があり、それが忌部神社の社領であった」というのは、研究者からすれば「今日の荘園研究に照らすと納得し難いもの」と評します。高越山は忌部修験の中心地で、忌部氏の拠点でもあったと云われてきました。しかし、現在の荘園研究の成果の上では、忌部氏の活動は見えてこないようです。ただ山崎の忌部神社周辺に痕跡が残るのみです。
以上を整理しておきます。
①高越山の麓の山川町には①高越寺荘 ②河輪田荘 ③河田荘 ④忌部荘の4つの荘園があった。
②この内の①と③は同一で、①の高越寺荘が室町時代に細川氏支配下に置かれた頃から「河田荘」と呼ばれるようになった。
③その背景には、麻植郡全体が細川氏の所領となり、その拠点が河田にあったためと研究者は推測する。
④一方、②の河輪田荘は成立・伝領・地名などの面から見ても、他所にあった別の荘園である。
それでは河輪田荘は、どこにあったのでしょうか。そのヒントは名前にあると研究者は指摘します。
「輪田」というのは、「輪中」「川中島」のような地形で、吉野川に囲まれた地形であったとします。

河輪田荘と高越寺荘領域地図
              河輪田荘の推定地 吉野川の「川中島」?

これについてはまた別の機会に・・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」